鋼鉄の墓標
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プロローグ:雪に沈む銃声
1942年12月、スターリングラード。
街はすでに廃墟と化していた。砲撃によって崩れた建物の残骸が広がり、雪の降り積もる地面には、砕けた煉瓦やねじ曲がった鉄骨が散乱している。死臭が混じる冷たい空気の中、私は狙撃銃を構えていた。
Kar98k、7.92mm弾を使用するボルトアクション式の狙撃銃。頬をストックに押し当て、スコープ越しに標的を探す。遠くの瓦礫の影、敵兵が一人、身を潜めていた。
ソビエト赤軍の兵士――おそらく18、いや、もっと若いかもしれない。
彼は震えながらライフルを握り、何度も周囲を見回している。こちらの存在にはまだ気づいていない。
私はゆっくりと息を吐き、引き金に指をかけた。
照準を合わせる。
心臓を狙うべきか、それとも頭部か。
訓練では教えられた。
「狙撃手は感情を捨てろ。お前が撃たなければ、撃たれるのはお前だ」
だが、本当にそうなのか?
私は目を閉じ、ほんの一瞬だけ迷った。
その間に、敵兵がこちらに気づいた。
彼の目と、私の目が交差する。
雪の静寂の中、銃口がわずかに動く。
反射的に私は引き金を引いた。
鋼鉄が炸裂し、弾丸が宙を裂く。
銃声が、荒廃した街に響き渡った。
鋼鉄が炸裂し、弾丸が宙を裂いた。
銃声が瓦礫に反響し、街の静寂を打ち砕く。
スコープ越しに、敵兵の体が後ろへ弾け飛ぶのが見えた。
彼は声も上げず、ただ雪の上に崩れ落ちた。ライフルは手を離れ、わずかに蒸気を立てながら、彼のすぐそばに転がった。
私は息を止めたままだった。
撃った。私はまた、一人の人間を殺した。
この数ヶ月で、もう何度も同じことを繰り返してきた。
最初は手が震えた。引き金が重く感じた。
だが、今はどうだ?
ただ冷静に、条件反射のように撃ち、標的が倒れるのを確認するだけだ。
何の感情も湧かない――はずだった。
ゆっくりとスコープを外し、肉眼で敵兵の遺体を見た。
彼は仰向けに倒れ、まだ目を開けたままだった。
その目は、私を見つめていた。
「なぜ撃った?」
そんな言葉が、幻聴のように聞こえた気がした。
私は銃を握る手をぎゅっと固くし、視線を逸らした。
### 狙撃手の仕事
「ヴィルヘルム、撃ったか?」
背後から、低い声がした。
私は振り向かず、ただ静かにうなずいた。
「確認しろ。殺ったかどうかをな」
私の後方には、フェリックス伍長がいた。彼はベテランの狙撃手で、私の指導役でもあった。
私は無言で頷くと、銃を肩に担ぎ、そっと瓦礫の隙間から這い出た。
雪が降りしきる中、私はゆっくりと敵兵へと歩み寄る。
近づくにつれ、彼の姿がより鮮明になる。
細身の体、泥と血に汚れた制服。彼の顔は驚きに凍りついたまま動かず、胸には弾痕がぽっかりと空いていた。
倒れた彼の手には、何かが握られていた。
私は慎重にそれを取り上げた。
写真だった。
凍てついた指をこじ開け、中を見る。
そこには、若い女性と幼い少女が写っていた。
――家族だ。
何かが、喉の奥で詰まった。
私は思わず、歯を食いしばる。
「何をしている、シュナイダー?」
フェリックスの声が、背後から飛んできた。
私は反射的に振り向き、写真をポケットに押し込んだ。
「……何でもありません」
「確認は終わったか?」
私は小さく頷いた。
フェリックスは冷たく笑った。
「お前も慣れてきたな、狙撃手としての仕事に」
私は慣れたのか?本当に?
雪が静かに降る中、私は何も言えず、ただ戦場の冷たい空気を吸い込んだ。
これが、私の仕事だ。
狙撃手とは、敵を撃ち続ける機械なのだから。
――それが、正しいはずだった。
だが、この胸の奥に残る重みは、一体何なのだろう。
第一章:戦場への道
1. 徴兵命令
1942年6月、ドイツ・ミュンヘン。
ヴィルヘルム・シュナイダーが徴兵通知を受け取ったのは、朝食のパンに手を伸ばした瞬間だった。
母が封筒を持って立ち尽くしていた。
国防軍の印が押された紙を見た瞬間、ヴィルヘルムの心臓が一瞬だけ強く跳ねた。
「……来たのね」
母の声は震えていた。
「そうだな」
ヴィルヘルムは静かに答えたが、指先にじんわりと冷たい汗が滲むのを感じた。
戦争はすでに始まっていた。
前年のバルバロッサ作戦ではドイツ軍がソ連領を猛進撃し、「クリスマスまでには終わる」と言われていた。だが、その戦争はまだ続いている。前線では兵士が足りず、ついに自分の番が回ってきたのだ。
封筒を開き、印刷された文字を目で追う。
「ドイツ国防軍により貴殿を陸軍に徴兵する。7月1日、ミュンヘン西部の訓練施設に報告せよ」
目の前のパンが急に遠いものに思えた。
父はすでにこの世にいない。第一次世界大戦で命を落とし、ヴィルヘルムはその影を知らずに育った。母は「お国のために戦うのが男の務め」と言いつつも、どこか寂しげな顔をしている。
「大丈夫だよ、母さん」
ヴィルヘルムは無理に笑った。
「すぐに終わる戦争さ。みんなそう言ってる」
母は何も答えず、ただ息子の顔を見つめていた。
2. 訓練の日々
7月、ミュンヘン西部の訓練施設。
軍服を着せられ、丸刈りにされ、名前ではなく**「二等兵シュナイダー」**と呼ばれる生活が始まった。
上官の命令は絶対だった。
「貴様らは兵士だ!個人などいらん!祖国のために戦う機械になれ!」
何度も繰り返される言葉に、ヴィルヘルムは次第に抵抗する気力を失っていった。
「撃て!」
射撃訓練では、ひたすら標的に向かってKar98kを撃つ。
ボルトを引き、弾丸を装填し、引き金を引く――その動作が体に染み込んでいく。
ある日、射撃の成績が異様に良かったヴィルヘルムは、上官に呼ばれた。
「シュナイダー、お前は狙撃手の適性がある」
狙撃手――敵を一発で仕留める兵士。
「誇り高き職務だ」と上官は言った。
彼はその言葉を信じようとした。
だが、その内心には、言い知れぬ不安が広がっていた。
3. 戦場へ向かう列車
1942年8月、東部戦線へ向かう輸送列車の中。
薄暗い車両の中、ヴィルヘルムは膝を抱えて座っていた。
周囲には同じように徴兵された若者たち。皆、国防軍の灰色の制服に身を包み、手には支給されたKar98kが握られている。
「おい、お前はどこ出身だ?」
隣に座る兵士が話しかけてきた。
年齢はヴィルヘルムと同じくらい、20歳前後の若者だった。
「ミュンヘンだ。君は?」
「ベルリン。クラウス・ホフマンだ」
クラウスはにやりと笑った。
「どうだ、気分は?お国のために戦えるんだ。誇りに思うか?」
ヴィルヘルムは答えなかった。
「まあ、俺は正直どうでもいいがな」
クラウスは肩をすくめ、煙草を取り出した。
「俺の親父は軍人だった。『戦争こそが男の務め』とかほざいてな。だが俺は思うね――この戦争、本当に勝てるのか?」
ヴィルヘルムは何も言えなかった。
周囲を見渡すと、誰もが無言で座り込んでいる。目の奥に不安を抱えながら。
遠く、列車の車輪が軋む音が響く。
彼らを待っているのは、地獄だった。
4. 戦場の現実
スターリングラード到着。
列車を降りた瞬間、ヴィルヘルムはその光景に言葉を失った。
街はすでに廃墟と化していた。
瓦礫と化した建物、炎の残り香、そこかしこに転がる黒焦げの遺体。
「歓迎の花火ってやつか」
クラウスが皮肉っぽく言った。だが誰も笑わなかった。
「おい、お前ら!」
上官が叫ぶ。
「これが戦場だ!生き延びたければ、命令に従え!」
その時、遠くで砲撃の音が響いた。
ヴィルヘルムは思わず身をすくめる。
これは現実だ。
もう、後戻りはできない。
第二章:初陣の恐怖
1. 塹壕の闇
1942年9月、スターリングラード市街地。
ヴィルヘルムは、凍てつく塹壕の底で身を縮めていた。
「撃て!撃て!撃ち返せ!」
上官の怒声とともに、激しい銃声が飛び交う。
目の前の瓦礫の向こう、ソ連軍が機関銃を連射している。
ヴィルヘルムはKar98kを抱え、息を殺していた。
この一週間、彼はただ生き延びることだけを考えていた。
「おい、新入り!何をしている、狙撃手なら狙え!」
隣の兵士が怒鳴った。
ヴィルヘルムはゆっくりと銃を構え、スコープを覗いた。
向こうに敵兵がいる。
泥にまみれ、鉄兜をかぶった若いソ連兵。
ライフルを握りしめ、こちらを狙っている。
照準を合わせる。
指が引き金にかかる。
しかし――。
「本当に撃てるのか?」
ふと、彼の中に疑問がよぎる。
2. 引き金の重み
「シュナイダー!早くしろ!」
上官の怒声が背後から響いた。
ヴィルヘルムは震える指を引き金にかけた。
敵兵の顔がスコープの中に大きく映る。
少年のような顔。
怯えた目。
自分と同じくらいの年齢だろうか。
その瞬間、ソ連兵がこちらに気づいた。
目が合った。
ヴィルヘルムは息を呑んだ。
ソ連兵も銃を構える。
迷っている暇はない。
彼は反射的に引き金を引いた。
銃声が響く。
弾丸が敵兵の胸を貫いた。
彼の体が跳ね、地面に崩れ落ちる。
血が雪を赤く染める。
ヴィルヘルムはスコープ越しにそれを見つめた。
敵兵の目は、まだ開いたままだった。
――自分は、今、人を殺したのか?
3. 戦場の現実
「やったな、シュナイダー!」
クラウスが肩を叩いた。
「お前は立派な狙撃手だ!」
だが、ヴィルヘルムは何も言えなかった。
ただ、手の震えを隠すように銃を握りしめた。
戦場では、考える暇などなかった。
敵を殺さなければ、自分が殺される。
だが、なぜか胸の奥が重い。
この感覚は、一体何なのか。
4. 新たな標的
その夜、ヴィルヘルムは塹壕の中で目を覚ました。
遠くで砲撃の音が響く。
彼は、夢の中で何度も同じ光景を見た。
自分の放った弾丸が敵兵を貫く瞬間。
その目が、自分を責めるように見つめる。
「シュナイダー、起きろ」
フェリックス伍長が彼を揺り起こした。
「お前に新しい任務だ」
ヴィルヘルムはゆっくりと起き上がる。
「狙撃手として、本格的に仕事をしてもらう」
フェリックスは冷たく言った。
「明日から、お前の仕事は”敵を撃つ”ことだ」
ヴィルヘルムは無言で頷いた。
だが、その心の奥には、言い知れぬ恐怖が広がっていた。
第三章:死神の目
1. 狙撃手の仕事
1942年10月、スターリングラード市街地。
戦場はすでに地獄と化していた。
ドイツ第6軍は、市内のほぼ80%を制圧したと報告していたが、実態は違った。
瓦礫の街には、至る所に**「見えない敵」**が潜んでいた。
ソ連軍の狙撃手たちだ。
彼らは、廃墟や瓦礫の中、下水道や屋根の上に身を潜め、ドイツ兵を静かに待ち構えていた。
一瞬の油断が、即死を意味した。
「狙撃手の役割は、敵に恐怖を植え付けることだ」
フェリックス伍長はそう言った。
「お前はただの兵士ではない。戦場の死神になれ」
ヴィルヘルムは、彼の言葉を反芻しながら、スコープを覗いた。
2. 初めての狙撃任務
彼の任務は、ある廃墟に潜むソ連軍の狙撃手を排除することだった。
すでに3人のドイツ兵が、その狙撃手に撃たれている。
ヴィルヘルムは慎重に身を潜め、建物の影から敵の位置を探った。
狙撃手同士の戦いは、「見つけた方が勝ち、見つけられた方が死ぬ」 という単純なものだった。
スコープを覗く。
そこに、敵の姿があった。
廃墟の2階、窓の隙間からわずかに見える銃口。
敵は動かない。慎重にこちらを見張っているのだろう。
ヴィルヘルムは息を殺し、狙いを定めた。
次の瞬間――。
銃声が響いた。
ヴィルヘルムは反射的に頭を引っ込めた。
壁に弾丸が食い込み、粉塵が舞い上がる。
「くそっ、先に気づかれたか……!」
彼は冷や汗をかきながら、再び身を潜めた。
3. スナイパー同士の死闘
狙撃手同士の戦いは、「忍耐の勝負」 だった。
相手の動きを読む。
焦らず、じっくりと待つ。
ヴィルヘルムは、ゆっくりと頭を上げ、スコープを覗いた。
敵は、もう姿を消していた。
「……どこに行った?」
呼吸を整え、再び視線を巡らせる。
焦るな。冷静になれ。
その時、彼の視界の端にわずかな影が映った。
「いた……!」
敵の狙撃手は、廃墟の別の窓に移動していた。
ヴィルヘルムは静かに銃を構え、引き金に指をかけた。
だが――。
その瞬間、敵のスコープがこちらを向いた。
彼もまた、ヴィルヘルムに狙いを定めていた。
「どちらが先に撃つか」
時が止まったように感じた。
ヴィルヘルムは、躊躇なく引き金を引いた。
同時に、敵も撃った。
銃声が二発、轟いた。
4. 勝者と敗者
ヴィルヘルムの弾丸は、敵の肩を貫いた。
ソ連兵はバランスを崩し、瓦礫の上に倒れ込んだ。
しかし、彼の放った弾丸もまた、ヴィルヘルムの頬をかすめていた。
あと数ミリずれていたら、死んでいた。
ヴィルヘルムはゆっくりと息を吐いた。
「勝ったのか……?」
スコープ越しに敵を確認する。
狙撃手は倒れたまま、動かない。
「シュナイダー!」
フェリックス伍長の声がした。
「やったな。お前は本物の狙撃手になったぞ」
ヴィルヘルムは頷いた。
だが、心の奥にある冷たい感覚は消えなかった。
「次は、俺が撃たれる番かもしれない」
戦場では、いつ誰が死んでもおかしくない。
今日の勝者が、明日の敗者になる。
彼は、その現実を強く噛み締めた。
第四章:凍てつく戦場
1. 極寒の地獄
1942年11月、スターリングラード市街地。
冬が戦場を支配していた。
気温は氷点下30度。
あらゆるものが凍りつき、呼吸するたびに肺の奥が痛んだ。
ドイツ第6軍は、ソ連軍の包囲によって完全に孤立していた。
補給路は寸断され、食糧も弾薬も尽きかけている。
ヴィルヘルムは、瓦礫の中で震えていた。
「……寒い」
軍服の上から毛布を巻いても、冷えは防げない。
凍傷で指先の感覚がなくなり、銃を握るのも一苦労だった。
「戦う前に、飢えと寒さで死ぬ」
それが、この戦場の現実だった。
2. 飢えとの戦い
食糧の配給は、日に一度の乾パン一枚とスープ一杯だけ。
だが、そのスープには、もはや肉の欠片すら入っていなかった。
「クソッ……こんなもの、食えるかよ……」
クラウスは、冷めきったスープを睨みつけた。
「贅沢を言うな」
フェリックス伍長が低く言った。
「ロシア人どもはもっとひどいものを食ってる」
「それなら、俺たちも奴らを襲って食料を奪えばいいだろう?」
クラウスの声には、冗談のような響きはなかった。
実際、最近では敵の遺体から食べ物を漁る兵士も出始めていた。
それほどまでに、彼らは追い詰められていた。
3. 仲間の死
ある朝、ヴィルヘルムは塹壕の隅で丸くなっている兵士を見つけた。
「おい……起きろ」
肩を叩いたが、反応がない。
彼は、凍死していた。
目を開けたまま、無言のまま。
「また一人、死んだか……」
フェリックスは、それを見ても何の表情も浮かべなかった。
死は、もはや日常だった。
「おい、そこの奴の軍靴をもらえ」
クラウスが言った。
「もうアイツには必要ないんだ。俺たちの方が生き延びる確率は高い」
ヴィルヘルムは、それに何も答えられなかった。
戦場では、死者よりも生き残る者の方が優先される。
4. 限界を超えて
その夜、ヴィルヘルムは銃を抱えながら震えていた。
寒さと飢えで、意識が朦朧とする。
「このままでは死ぬ……」
そう思った瞬間、銃声が響いた。
「ソ連軍の襲撃だ!」
上官の叫び声が響く。
ヴィルヘルムは反射的に立ち上がり、銃を構えた。
瓦礫の向こうから、敵兵が突撃してくる。
撃て。生きるために。
彼は引き金を引いた。
敵兵が倒れる。
次の瞬間、仲間の兵士が倒れるのが見えた。
クラウスだった。
「クラウス!」
彼は胸を押さえながら倒れた。
血が雪に広がる。
「くそ……俺は……こんなところで……」
クラウスの目が、ヴィルヘルムを見つめる。
そして、彼の体から力が抜けた。
また、一人死んだ。
ヴィルヘルムは、銃を握る手が震えるのを感じた。
この戦場で、生き残ることはできるのか。
答えは、どこにもなかった。
第五章:裏切りの銃声
1. 非道な命令
1942年12月、スターリングラード市街地。
ドイツ第6軍は、完全に包囲されていた。
ソ連軍の攻勢は日増しに激しさを増し、もはや防衛線は限界に近づいていた。
そんな中、ヴィルヘルムは上官のフェリックス伍長に呼び出された。
「シュナイダー、重要な任務だ」
フェリックスは、いつもの冷徹な声で言った。
「この地区に潜伏しているロシア人の民間人を処刑する」
ヴィルヘルムの胸がざわついた。
「……民間人ですか?」
「そうだ。奴らは敵に食料を供給している疑いがある」
フェリックスは言葉を続けた。
「戦争において、民間人などという概念は存在しない。敵の手助けをする者は、敵と同じだ」
ヴィルヘルムは、何かが引っかかった。
本当にこの民間人たちは敵なのか?
それとも、ただ生き延びるために必死だっただけではないのか?
だが、上官の命令は絶対だった。
2. 目の前の命
その夜、ヴィルヘルムは部隊と共に、廃墟と化した住宅地へと向かった。
そこには、4人の民間人が捕らえられていた。
老いた男、若い女性、そして二人の子供――まだ10歳にも満たない兄妹だった。
彼らは怯え、震えながらこちらを見ていた。
「さあ、シュナイダー」
フェリックスが言った。
「お前が狙撃手として、本物の兵士であることを証明しろ」
Kar98kの狙撃銃が、ヴィルヘルムの手に押し付けられる。
銃口を向けろ――そういう命令だった。
「これは戦争だ。撃て」
ヴィルヘルムは、指を引き金にかけた。
だが――撃てなかった。
銃口を向けた先には、少女がいた。
彼女は何も言わず、ただヴィルヘルムを見つめていた。
その目は、かつて彼が撃ったソ連軍の狙撃兵と同じ目をしていた。
「早くしろ、シュナイダー」
フェリックスの声が鋭くなる。
ヴィルヘルムの手が震えた。
汗が額を伝う。
彼は、静かに銃を下ろした。
「……撃てません」
3. 反逆者の烙印
静寂が訪れた。
部隊の兵士たちが、驚いたようにヴィルヘルムを見つめている。
フェリックスの顔が、一瞬だけ歪んだ。
そして、彼は無表情のまま、ゆっくりと言った。
「貴様、命令に逆らうのか?」
「……これは、戦争ではありません」
ヴィルヘルムは、ゆっくりとした口調で答えた。
「彼らは、ただ生きているだけだ。俺には……罪のない人間を撃つことはできません」
その瞬間、ヴィルヘルムの顔に衝撃が走った。
フェリックスが拳を振り下ろしていた。
「貴様……裏切り者か!」
ヴィルヘルムは地面に叩きつけられた。
唇の端から血が滲む。
「この臆病者が……貴様のような腑抜けがいるから、我が軍は敗北するのだ!」
フェリックスは怒鳴った。
「シュナイダー、お前は軍法会議にかける!」
兵士たちが、ヴィルヘルムを取り押さえた。
彼は、その場で“反逆者”とされた。
民間人たちは、その間にどこかへ逃げ去っていた。
だが、それを喜ぶ余裕などなかった。
4. 追われる者
翌日、ヴィルヘルムは拘束され、司令部へと送られる予定だった。
しかし、その途中、砲撃が始まった。
混乱の中、彼は隙を突いて脱走した。
もはや、彼はドイツ軍には戻れない。
裏切り者として、見つかれば即座に処刑されるだろう。
瓦礫の街を逃げ回る彼の耳に、兵士たちの声が聞こえた。
「シュナイダーを探せ!裏切り者を生かしておくな!」
彼は、同胞に狩られる身となった。
敵と味方の区別が、完全に消えた瞬間だった。
第六章:鋼鉄の墓標
1. 捕虜となる
1943年1月、スターリングラード郊外。
ヴィルヘルム・シュナイダーは、雪の中をふらふらと彷徨っていた。
ドイツ軍から脱走して以来、彼は“どこにも属さない兵士”となった。
敵にも味方にも追われ、瓦礫の影で寒さと飢えに耐えながら生き延びるしかなかった。
だが、ついに限界が来た。
銃弾は尽き、手足の感覚も失われつつあった。
このまま朽ち果てるのか――そう思った時だった。
「手を上げろ!」
ロシア語の声が響いた。
ソ連軍の兵士たちが、銃を向けて立っていた。
ヴィルヘルムは、抵抗する気力もなく、ただ両手を上げた。
そして、その中の一人の兵士と目が合った瞬間、彼の全身が凍りついた。
――それは、かつて彼が撃った狙撃兵だった。
だが、その男は死んでいなかった。
2. 因縁の再会
捕虜収容所に送られたヴィルヘルムは、氷点下の小屋に放り込まれた。
そこには、同じく捕まったドイツ兵たちが、生きる屍のように横たわっていた。
そんな中、彼の目の前に一人のソ連軍の兵士が現れた。
「久しぶりだな、ドイツ人」
男の顔には、肩を撃ち抜かれた傷痕が残っていた。
ヴィルヘルムがかつて狙撃したソ連軍の狙撃手、アレクセイ・イワノフだった。
「お前は……」
「俺を覚えているか?」
アレクセイは静かに微笑んだ。
「俺はお前に撃たれた。だが、死ななかった」
ヴィルヘルムは、何も言えなかった。
「……殺すのか?」
アレクセイは肩をすくめた。
「お前を殺す価値があるのか、まだ分からん」
彼は続けた。
「一つだけ聞かせろ。なぜお前は、あの日、民間人を撃たなかった?」
ヴィルヘルムは静かに答えた。
「戦争だからといって、殺していい命なんてない」
アレクセイはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりとため息をついた。
「……愚かな男だ。だが、悪くない」
3. 最後の決断
翌日、ソ連軍の司令部で、ヴィルヘルムは尋問を受けた。
「貴様はドイツ軍の狙撃手だな」
ソ連軍の将校が言った。
「だが、我々に協力するなら、命を助けてもいい」
「ソ連のために戦え」と言うのだ。
ヴィルヘルムは、ゆっくりと目を閉じた。
生きるために、裏切るのか?
それとも、死を選ぶのか?
彼は答えた。
「俺は、もう誰のためにも戦わない」
将校は静かに頷いた。
「ならば、貴様の運命は決まったな」
銃を持った兵士たちが近づいてくる。
ヴィルヘルムは微笑んだ。
この戦争で、彼はすべてを失った。
祖国も、仲間も、自分が生きる意味も。
だが、最後に自分の意志だけは貫けた。
彼は、目を閉じた。
一発の銃声が響いた。
エピローグ:歴史に埋もれた男
1. 戦後の世界
1945年5月8日、第二次世界大戦終結。
ドイツは無条件降伏し、ナチス・ドイツは崩壊した。
ベルリンは瓦礫と化し、スターリングラードもまた、その名を歴史に刻む激戦地として残った。
戦争が終わった後、多くの兵士が故郷へ帰還した。
だが、ヴィルヘルム・シュナイダーの名を知る者は、もはやいなかった。
彼は、記録にも残らず、墓標すら持たない。
祖国のために戦った兵士でありながら、祖国からも忘れ去られた存在となった。
戦場に散った無数の兵士たちと同じく、彼の物語は歴史の闇に埋もれていった――。
2. ある老兵の記憶
1972年、モスクワ郊外。
アレクセイ・イワノフは、古びたアパートの窓から冬空を見上げていた。
かつて、彼はスターリングラードで戦い、一人のドイツ兵狙撃手と出会った。
名はヴィルヘルム・シュナイダー。
戦場で敵として出会い、そして彼の最期を見届けた男。
「お前は、愚かだったな……」
アレクセイは、静かに呟いた。
だが、その顔にはどこか懐かしさが滲んでいた。
「だが、お前のような兵士がいたことを、俺は忘れない」
彼は、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。
それは、かつてヴィルヘルムが持っていたソ連兵の家族の写真だった。
ヴィルヘルムは、それを撃った敵兵のポケットから拾い、捨てることなく持ち続けていた。
アレクセイは、それを見つけ、今でも手元に置いていた。
「お前は、誰かの命を奪いながらも、その重みを理解していたんだな」
彼は、写真を見つめながら、かすかに微笑んだ。
3. 鋼鉄の墓標
202X年、ヴォルゴグラード(旧スターリングラード)。
冬の凍てついた大地を、一人の歴史研究者が歩いていた。
かつてここで、20万人以上の兵士が命を落とした。
そして、彼らの多くは、今もなおこの地に眠っている。
「ここに、何かがある」
研究者は、雪の下に埋もれた一丁の銃を見つけた。
ドイツ軍のKar98k狙撃銃。
長年、土の中に埋まっていたため、銃身は錆びついていたが、
銃床には、かすれた文字が刻まれていた。
「ヴィルヘルム・シュナイダー」
研究者は、その名前をじっと見つめた。
この兵士が、どのような人生を送り、どのような最期を迎えたのか――
もはや誰も知る者はいない。
だが、確かなことが一つある。
この地に、確かに彼は存在した。
戦争の中で無数の命が失われ、その多くは歴史に記されることもなく消えていった。
だが、彼の銃がここに残っている限り、彼が生きた証は消えない。
研究者は、静かに銃を拾い上げた。
「忘れてはならない」
彼は呟いた。
この地で、名もなき兵士たちが戦い、死んでいったことを。
彼らが、何を思い、何を感じていたのかを。
そして、彼らの死が、決して無意味ではなかったことを。
雪が舞う中、研究者は遠くを見つめながら、そっと敬礼をした。