1話 夕暮れはオレンジの香り
何処かにある何処かの国の切ない恋のお話。
地道に更新します。
とあるカフェの窓際の一席。
男達は向かい合って座っていた。片側の何かを書き進めている男はふと筆を止め正面の男を見やった、男はただ俯いており、その目には何も映してはいない。
男には何も無かった、体が幽霊のようにゆらりと揺れた。その姿は息を吹きかけただけで簡単に消えてしまう蝋燭の焔とも言える。
午後のカフェは客は少なく静かだった、シンと静まり返ったカフェにしばらくして俯く男は顔を上げ口を開く、どこか悲しみ、懐かしむように窓を見ながら言葉を辿った。
「…これが私の幸せでした」
演ずる人、劇を嗜む人全てが憧れ、その舞台を観ただけで誰もが感動する劇団。
―ヴィ・シャンテ。
その中で最も美しく素晴らしい女優がいた。「楽園の花畑」通称フルールと呼ばれた彼女は人々をその演技、歌声で魅了し絶大な人気を誇っていた。
しかし彼女は突然舞台を降りた、ヴィ・シャンテを脱退しそのまま姿を消したのだ。
彼女がいなくなって一年。
それでも彼女の人気は衰える事がなく、いまだに彼女についての記事が書かれる事がある。
…少女はフルールの記事を見て、こう呟いた。
「みんな物好きねぇ」
パリ、とクッキーが少女の口で割れる、少女はソファには寝転がってクッキーを食べていた、髪は一つに束ねられており、服もごく普通の一般的な物だ。
…これがあのフルールと誰が信じるだろうか。
今ではアリスと名乗る少女はかつて世間を騒がせた大物女優のフルールなのである、それが質素な古いアパートで、寝転がってクッキーを食べている。
そんなのを他の人が見たら間違いなく泡を吹いて卒倒するだろう、しかしそれを見ている男はそうではなかった。
「アリス、紅茶はいりますか?」
「えぇ、もちろん、オスカルの淹れる紅茶は美味しいもの」
この極限に彼女を甘やかす男はオスカルと呼ばれていた。
劇団ヴィ・シャンテにはフルールともう一人有名な俳優がいた。
その名も「宵闇の黒猫」
通称ノワールと呼ばれる彼の演技は猫の尖った爪のように鋭くそしてまた宵闇のように黒く美しかった、フルールの相手役に相応しいと言われるほどに。
二人は街角の古いアパートに暮らしていた、平凡で有り触れた生活を満喫していたのだ。
「それより何ですか?その雑誌」
オスカルはゆっくりとアリスから雑誌を取り上げる。雑誌の表紙にはフルールが飾られており、その内容はよくあるフルールのその後についてだった
オスカルは目線でなぞるように記事を読むと大袈裟にとひとつため息をつく
「……全くフルールの魅力が伝わらない」
予想通りの辛辣なコメントでアリスはくすっと呆れたように笑う
「貴方は本当にフルールが好きねぇ」
「えぇ、好きですよ、素晴らしいです」
本人を目の前にして当然のようにそう言うオスカルもまたフルールの虜なのである。
フルールとノワールはよく恋人役として共演していたが本人達は恋人同士でもない、しかしまた友達でもなく、他人でもなかった。
フルールが劇団を抜けたと同時に追いかける形でノワールも抜け、今の生活に至る。
最初はどうしてもフルールである事がバレてしまい熱狂的なファン達が押しかけてしまうので各地を転々としてきたが
理解ある大家に出会い、古い家だが借りる事が出来た
何にもない町だが、二人はこの生活に満足していた。
この関係を、この生活をとても気に入っているのである。
しかしオスカルはフルールを、アリスを心から愛していた。
地の果てまで添い遂げるほどのつもりだが、同時にアリスはそれ以上の関係を求めていない事もわかっていた、それでもアリスが寒いと言えば傍に寄り、甘えてくれば頭を撫でた。
トントン、と外に続くドアをノックする音が聞こえる。
オスカルはアリスとの時間を邪魔されて多少苛立ちはしたがとりあえず放ってはおけないので出ることにした。オスカルはノックに返事をして扉を開く
「こんにちは!ってオスカルさん、なんでそんなにむっとしてるんですか?」
「いえ、なんでもありませんよ、なんでも」
「めちゃくちゃ睨んでるじゃないですか!怖いですよ!全く……」
二人の部屋を訪れたのは大家の息子、デヴィッドだった、この元気な青年の大家である母親はどこまでも親切で、よくこうやって息子を使わせては差し入れをしてくれる、今日は両手ででかい紙袋を抱えており、その紙袋の中にはオレンジが沢山入っていた。
「ところでどうしたんですか?そのオレンジ」
「そうそう!親戚から貰ったんで是非って母さんが」
「デヴィッド!こんにちは!」
「ごきげんよう!フルー……っと、アリス!」
「ふふ、まだ慣れない?」
「そりゃあそうですよ、母さんがフルールに家を貸すって言った時はびっくりして椅子から転げ落ちたくらいなんですからね」
「でもデヴィッドは優しいわよね、頑張って慣れようとしてくれてる」
「まぁ家を借りるとなれば立派なお客さんですよ、こんなオンボロな家、誰も借りてくれないですから」
「あら、私この家、結構気に入ってるわよ?それよりデヴィッド、立ち話もなんだから良かったら家に上がっていかない?」
「じゃあお言葉に甘えようかな、なんかすごい睨んでくる人がいるけど」
「……」
「もう、オスカル?」
「…はぁ、はいはい、せっかくなのでこのオレンジをみんなで切り分けて食べましょう」
午後のお茶会、三人で囲むテーブルに並ぶ、切り分けられたオレンジの香りがほんのりと夕日が差し込む部屋を漂っていた。