「女だけの都」
プロローグ
その日、愛菜の背中にまたあの感覚がきた。
「きたきた」と思うと同時にうんざりしながら「またかよ」と怒りが湧き上がってくる。満員電車という言葉以上に詰め込まれた車内に、制服で乗り込めば毎回のようにこうした目に遭うので、予知能力じみた感覚が身についてきていた。誰かが愛菜の背中に意識的に身を寄せてくるのを感じると、嫌悪よりも怒りを覚えるようになっていた。振り向いてにらみつけようとした。彼女が強い意志を瞳に滾らせると、その雰囲気を恐れてか、背中の気配が消えることもあったから。だが、今回はそんなことが意味を成す相手ではないようだった。さらに密着し、スカートがめくりあげられた。なにかがむき出しの太ももに触れた。なでさすられる感覚に総毛立ち、気持ちの悪さのあまり意識を失いそうになった。体をずらして逃げようとしても、追いかけてくる。そしてさらに押し付けてくる。愛菜よりずっと大きな体躯とその存在感で彼女の身体を抑え込んでいた。それには遠慮もためらいもなかった。こいつは慣れている。それはぞっとする確信だった。逃れることができないということに思い至って、愛菜は嘔吐しかけた。寒気がした。これ以上何かされることは間違いないとわかると、いっそ倒れて無意識のからだをいじくりまわされたほうがマシかもとすら思えてきた。お尻にあたる硬い感触に涙がこぼれかけた。助けてほしい。周囲は微妙に愛菜から気配をそらしていた。わかっているのかわかっていて無視しているのか、背後の体格から察して誰も勝てそうにないと思ったのか、彼女の周りがワンクッションはさまれているようにしんとしていた。たとえよりひどいことが起きたとしても助けてはもらえないことが彼女にも理解できた。せめて入れられたりかけられたりして制服を台無しにされることがないようにと願った。
「やめろオッサン。ゴミか」
頭の上で声がした。ターコまたやんの?とあきれた口調な割に底にわくわくしたものを秘めた声も聞こえた。このわくわくは私ではなく、背後のやつに向けられているのもわかった。動きは止まった。
「ババアは引っ込んでろ!なんのつもりだ!俺が何やったっていうんだよ!くそ女が余計なことしやがって!」
「その子のこと触ってたじゃねえか。見てたんだよこっちは」
「冤罪だよ冤罪!ブスなんか触るかよ!おまえ、インネンつけて金取るつもりなんじゃないか?美人局で、この馬鹿とグルだろ!」
男はわめき続けると愛菜の髪をつかんだ。つかもうとした。その手を誰かがつかんだ。その瞬間男は小さい悲鳴をあげた。
「黙れゴミ。そんなに話がしたいなら次の駅で降りろよ。アタシと話しつけようじゃないか」
満員電車なのに、なぜかスムーズに降りられた。愛菜の降車駅ではなかったし、そのままにしてもよかったけど、なぜか一緒に降りた。降りた姿をみて「無理しなくていいんだよ?学校でしょ?遅刻しちゃうよ」とぷわっとした髪の女が近づいてきた。わくわくを秘めた声の女。駅には人気がなく、駅員も見つからない。
「だって私のせいですし…何かあったら証言したくて」
愛菜はようやくそれだけ絞り出したが、乾ききった喉がはりついてくる。
「いーのよ、あいつが好きでやってんだから。それに……証言されたらむしろ困るし」と笑った。女の柔らかな髪が光に透けて揺れた。愛菜は一瞬見惚れていた。
痴漢の体格はかなりよかった。力がみなぎり、大抵の男は睨まれただけで関わりを避けていくだろう。そして、射るような眼差し。女は見下ろすものという意識が体の隅々までいきわたっているようだった。ターコと呼ばれた女は、というと、その「かなりいいガタイ」をあっさりと凌駕していた。男の眼差しなど毛ほども意識してしてないのがわかる。愛菜は二人をまじまじと見つめてしまった。もしかしたらとんでもない状況に巻き込まれているかもしれない。
「そーよ、だから巻き込みたくなかったのよぉ」とさっきの女が続けた。見透かされて振り返ると、その女は愛菜とそう変わらない背格好だったが、明らかに何かが違った。一見柔らかそうに思えるが、それは張り詰めた筋肉だった。筋肉が女の凹凸にまとわりついていて、まるでしなやかなカモシカだった。
「てめえ、いい度胸してんじゃないか!ブスババアのくせに」
痴漢はわめき続けていた。「ターコ」は詰まらなさそうな顔で見つめていた。愛菜は息をのんだ。「ターコ」は痴漢がわめけばわめくほど小物になっていくような迫力があった。体は痴漢の一回りは上だ。あんな身体をした女を、愛菜は見たことがなかった。筋トレしてる兄がボディビル選手権の動画を見てたことがあったけれど、あそこに出場している上位入賞者に似ていた。背が高く、太く、樫の木のような存在感があった。「ターコ」はシャツにジーンズだったが、その上からでも硬い肉の感触が手に取るようにわかる。
「言いたいことはそれだけ?」
「ターコ」が顔をゆがませた途端、合図のように痴漢はとびついてきた。飛びついたと思ったが、今度も、それは果たせなかった。痴漢の顔を「ターコ」が片手でつかんでいた。そしてそこから1ミリも体を動かせないようだった。
グ……グニュ……、声にならない声を出すのが精いっぱいのようだ。両腕は宙を漂い、両腿は震えていた。「ターコ」は少し笑いながらそれを眺めていた。痴漢は目を見開いていた。あまりに見開くので飛び出るのじゃないかと愛菜は心配になった。
「ターコ、人が来るよ。やるならさっさとお願いするわぁ」
「あいよ、あーちゃん」
軽い鼻歌をしながら「ターコ」は痴漢をそのまま地面にたたきつけた。愛菜はそれ以上見ていられなかった。ただ鈍い音だけがした。誰も来なかった。まばらだった人はさらに気配が消えた。あんまり血ぃださせないでよー面倒だから、とぷわ髪の女が半笑いでいった。「ま、こんなもんでいいんじゃないの?」
痴漢は動かなかった。手や足がたがいちがいになっていた。声も出せないようだった。上顎がめり込んでいた。じっと見ている愛菜の背後から声が聞こえた。
「あんたは何も見なかった。」
心臓を掴まれるような冷たさがあった。恐る恐る振り返ると優しい笑顔があった。
「災難だったね。今回はあたしらが助けてあげられてよかった。次助けてあげられないとは思うけど、でもこのゴミは二度とあんたの前に現れないから。安心してほしい。」
愛菜はコクコク首を動かした。目が熱くなったと思ったら後から後からこぼれてきた。宥めるようにぷわっとした髪がまた揺れて輝いた。愛菜は深呼吸すると晴れやかな顔で頷いた。「これ以上、あんたみたいな子が嫌な思いすることがないといいのに」
「いくよ。長居は危険だわ」
ぷわ髪の女が、もういくけど、今日のことは忘れて、忘れられないかもしれないけど、忘れるんだよ、とウィンクした。愛菜はまたコクコク首を動かした。忘れたくないと思いながら。
二人の背中が見えたと思ったらもういなかった。愛菜も走り出した。男が小さく動き出した気がしたから。
学校には遅刻した。担任は渋い顔をしていたが、生理なんで駅のトイレで休んでました、というと、まあ仕方ないねとため息をついた。
授業中も休憩時間も上の空だった。今思い返しても現実とは考えられない。耳の底にまだあの肉が踏み潰される音が残っている。忘れるんだよ、か。
仲の良い子が声をかけてくれたけど、とてもそんな話をする気にはなれなかった。今日生理痛がひどくてさーと苦い顔をすると、あーわかるーごめんねと離れてくれた。窓の外を見た。絵の具で一気に塗りつぶしたような青空。ぷわっと揺れる明るい色の髪を思い返して、愛菜は、お兄ちゃんにトレーニング方法を教わろうと決意した。あの人たちになれないだろうけど、近づきたい。私も誰かを助けたい。
救急車で運ばれた男がどうなったか、誰も知らない。
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「女だけの都ぉ~!?」
ターコが素っ頓狂な声を上げた。会話の相手は、そう、と短く返事をしてお茶をすすっていた。
ターコとあーちゃんの「事務所」に珍しく来客があった。代理人の央だった。
「前にネットで話題になったでしょ、女だけの都」
そういやそんなことがあったっけ。女だけの都があったら住みたいと書き込んだ女性が男どもによってたかって袋叩きにバッシングされたことが、かなり前にあった。それを聞いてターコは、こんな男どもがいない女だけの都があったら自分も住みたいとつぶやいたのをあーちゃんは覚えていた。
「アンタ、女だけの都にいったらモテモテだと思ってるんでしょ」
央はあきれ顔でいった。
「そうじゃないよ。モテたいのは事実だけど、あんなうざいのを見たらそう思うのは当然ですよ。」
あーちゃんの睨みを意識しながら口を尖らせた。
「あるんだなーこれが」
央がニカっと笑った。
「なによそれ」
あーちゃんは目を見開き、ターコは鼻を鳴らした。
「東南アジアの…Qって国があるでしょ。最近、政治体制が変わって、」
「軍部による独裁が行われているという報道の後は特に続報もなかったけど」
ま、そーなんだけど……と央は言葉を切った。
「その国のある地方が、女だけの都になった。行政官も女だし、居住者も女だけ。インフラの整備も女がやってんだって」
「なんでそんなに女ばっかりいるんだよ」
「皆兵制だから女を集めて治安守らせてんの?急にそんなことされても公共交通機関とかどうなってんのよ」
二人が一斉に疑問点を捲し立てるが央は、そう、それなんですよ、と制した。
「で、まあ同じような疑問を抱いてですね、実際に行ってみてこようと思った人がいたんです。」
央が優雅にお茶を啜る横で絶句する二人。
「国交のない国に!?」
声が同時だった。
「そ。まさに蛮勇ってやつよ」
「はー……呆れたもんだね。で、どうなったの。」
「帰ってこなかった」
央は視線を下に向けた。
「正確には、まだ帰ってきてないってとこだね。問題はその勇敢なお嬢さんが某与党の有力議員の娘だったってことよ」
話が本題に入ってきたなと二人は生唾を飲み込んだ。
議員の名前は二人も知っていた。3世議員でスキャンダルをかきたてられたこともあったしテレビで派手に論戦することでも有名だった。スマートよりは清濁併せ呑むことが売りのタイプだ。
「お嬢さんは自分の祖父も親も出鱈目な私生活を送っているのにつくづく嫌気がさしていた。祖父母の時代からいわゆる“妻妾同居”に近い状況で、母の違う家族が公表されてる以外にも何人もいる、そんな状態だったからお嬢さんは大学でフェミニズムを学び、親の手を借りず政治家になろうと決意していた。そこへ風の噂で“女だけの都”の話を聞いた。あんたたちみたいにこれぞ理想とばかりに、親には内緒で旅立った。ケツの青い世間知らずのやりそうなことだが」
あーちゃんのムッとした顔を無視して央は続ける。
「帰国予定日になっても戻らない。そうなってはじめて親は状況を把握した。最後に立ち寄ったところまではわかったがそこから山越えで密入国したらしく、外務省を動かそうとしたが、国交がないためどうにもできない。」
「で、アタシらにおはちがまわってきたってことなんね」
そーゆーことよ、央は湯呑みをテーブルに甲高く置くと二人を見据えた。
「潜入するならあーちゃんにやってもらうことになる。」
「そうだね」
「ターコじゃ目立ちすぎて工作員ですと看板出しているようなもんだ。幸い、隣国までは行ける。そこから商社ルートでツテ辿れば入国まではいける。前政権までは第二公用語が英語だったからなんとかなる。」
「アタシは?」
「ターコは隣国で待機。」
待機かよと不服を全面に出した顔を見ないで央は指示出しする。
「衛星電話持たせるからターコ経由で報告。現地通貨は商社に用意させた。とりあえず経費は使い放題だけど別ルートでの資金も確保したから、最悪の事態になっても」
今回は持ち出しは少なくすみそう……と半泣きになる央を尻目にあーちゃんはニンマリと微笑んだ。微妙な顔つきのターコに構わず。