3.
〝はじめまして。僕はポール。君の遠い親戚、おじさんだよ〟
屋敷の隅、屋根裏部屋の方がまだましかと思われるような、暗くじめじめとした小さな部屋。その中を覗き込んで、ポール・ラプラントはしゃがみ込み、誰かに話しかけている。
〝僕はリスター村っていう綺麗な村に住んでいるんだ。だけど家にひとりぼっちで、毎日とても寂しい思いをしている。君みたいな可愛らしいお嬢さんが我が家にきてくれたらとても素敵だと思うんだけど、君はどうかな?〟
〝わたしが、おじさまのおうちに……?〟
〝そう! 僕と君。ふたりで一緒に〟
にっこりと笑って、ポールは明るく声を弾ませる。その視線の向こう、重く淀んだ空気の中には、小さな小さな少女がいる。
亜麻色の髪はところどころ灰を被って白くなり、着ている服もぼろぼろだ。手足にはあかぎれが目立ち、年齢の割に細く頼りない。
少女は捨てられた子猫のように怯えていた。けれども一方で、ふいに目の前に現れた救いの手をとるべきか、期待と不安に揺れていた。
そんな彼女の不安を丸ごと抱きしめるように、ポールは笑って両手を広げた。
〝おいで、リリア。僕とこれから、家族になろう!〟
ノクスは混乱した。
違う。これは、『彼』の記憶じゃない。
『彼』が血液と共に体内に取り込んだ、本物のポール・ラプラントの思い出だ。
場面が変わる。
どうやらリリアは、無事にポールに連れられリスター村に来たようだ。
けれども屋敷の中に、愛らしい少女の姿はない。固く扉は閉ざされていて、中から聞こえるのは押し殺したようなすすり泣き声だけ。
〝ねえ、リリア。コロンジュ爺さんのところで、また金平糖を買ってきたんだ。星の形をした、甘くて可愛いお菓子だよ。よかったら一緒に食べないかな〟
扉に向かって呼びかけるが、返事は戻ってこない。少しだけ待ってから、ポールはトボトボと扉の前を離れる。
馬車の中では気丈に振舞っていたけれども、まだ9歳の少女なのだ。いくら冷遇されてきたといっても、家族のもとを離れて別の家にもらわれていくというのは、なかなか受け入れがたい現実だろう。
何か、リリアを元気づける方法はないものか。そう首をひねり、ポールは書斎の中をぐるぐると歩きまわっていた。
視界が悪くなる。
ひゅーっ、ひゅーっと。今にも途切れてしまいそうなか細い音色は、どうやらポールの口から漏れ出しているようだ。
これは鈴百合の原での記憶だ。おそらくポールは倒れていて、ぼやけた視界が時折焦点を結んだ先に、鈴の形をした小さな百合がゆらゆらと揺れている。
〝こんなところに怪我人が? おい、大丈夫かい!〟
すでに世界は暗転している。誰かがこちらに歩いてきて、顔を覗きこんだ気配だけを感じる。せめて花を託せそうな相手の登場に、傷ついたポールの胸に安堵が広がる。
最後の力を振り絞り、ポールは握りしめた鈴百合の花を差し出した――。
そしてあふれ出した幸せな光景の数々に、ノクスは目を見開いた。
それは果たして、同情だったのだろうか。
暗がりの中で怯えたようにこちらを見つめる、幼い少女への哀れみ。そんな彼女をひとり残して去らなければならない、心優しき村長への情け。
始まりはそうだったかもしれない。たまたま通りがかったひとりの異形の、ほんのちょっとした気まぐれと気遣い。それが偶然にも少女と彼を出会わせた。
たとえそれが運命のいたずらでも、ヴァンパイヤと少女は確かに心を通わせた。
〝おじさま……。おからだの具合は、いかがですか?〟
〝おじさま。ターニャさんに助けていただいて、りんごの皮をむいてみました。よかったら、わたくしと一緒に食べませんか?〟
〝おじさま! 今日もこちらを読んでください。リリアはこの物語が気に入りました!〟
〝おじさま、起きていますか……? ち、ちがいます! 雷なんかこわくないです!〟
外で雷鳴がとどろき、幼いリリアが〝きゃっ!〟と悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。それに思わず笑ってしまってから、『彼』は優しく手を差し出した。
〝今日は一緒に眠ろう。君が眠くなるまで、お話をしてあげるよ〟
少女は大きな瞳に涙を滲ませ、悔しげにこちらを見ていた。「雷なんか怖くない!」というプライドと、素直に甘えてしまいたい欲望との葛藤に悩んでいるようだ。
けれども最終的に、少々は飛びつくように『彼』のベッドに潜り込んだ――。
――幼い少女は小さなレディになり、やがて美しい淑女となった。
さなぎが蝶となり羽ばたいていくように徐々に花開いていく彼女の隣で、『彼』は変わらずそこにいた。寄り添う彼の瞳には深い情があり、確かな家族の愛があった。
そうして今、『彼』は思う。
人間とヴァンパイヤは、永遠にはそばにはいられない。
だからこれは、重なった偶然が奇跡的に導き出した、美しくも儚いひとときの夢。
もうそばにいて、君の涙を拭いてあげることは出来ないけど。最後の最後に、これだけは願う。
どうか、君がこれからも幸せでありますように。
どうか、君が僕の正体を知らずにいますように。
ようやく手に入れた平穏な日々が、人ならざるものが見せたまやかしだったなんてあんまりだ。だから僕は、ひとり夢幻を抱いて眠ることにする。
――大丈夫。僕が昔から知る心優しいふたりは、きっと君に真実を告げないだろう。それでいい。それがいい。
君は何も知らず、何も気づかず。僕ではない『ポール・ラプラント』を想い、優しい涙を流して欲しい。そしていつかは、その輝く瞳で、まっすぐ前を向いて生きて欲しい。
これが僕の願い。ひとり残してしまう君に願う、最後のわがまま。
もう終わりかけの鈴百合の花々に見守られ、11年間を『ポール』として生きたヴァンパイヤは、満足げに微笑む。
ようやくノクスにも理解できた。彼がなぜ弁明のひとつもしないのか。なんのために彼が、決着を急いだのか。
「だめだ。待って――……!」
今にも散ってしまいそうな彼に、ノクスは手を伸ばす。
だけど、この手は届かない。時計の針は逆巻することは出来ず、一度壊れたものは直すことができない。ノクスにはそれがわかる。わかってしまう。
――はあ、と。なにひとつの悔いもなく、ヴァンパイヤは少女と初めて出会ったのと同じ、灰色の空を見上げた。
リリア。
長い旅路の果てに、君に会えてよかった。
リリア。
鈴百合のように可憐な君は、まぎれもなく僕の『幸せ』だった。
リリア。君は、どうか。
どうか君は、誰よりも幸せに。
「だめだーーーーーー!!」
ノクスが叫ぶのと、『ポール』の核にひときわ大きな亀裂が入るのとが同時だった。
ヴァンパイヤは一瞬硬直し、――全身の力が抜けた。役割を終えた身体は、風に溶けていくようにゆっくりと崩壊をはじめた……
はずだった。
「――光の弾丸!!」
凛と澄んだ声が崖下に響き渡り、曇天を引き裂くような光の弾丸が空から降り注いだ。
それらは的確にノクスの青の荊棘を撃ち抜き、消滅させる。そのうちの一発は、いままさに核を砕こうとしていた荊棘をも霧散させた。
呆然と見守るノクスの視線の先で、『ポール』の体がゆっくり落ちる。我に返ったノクスが彼を受け止めようとしたその時、ノクスの横を凄い勢いで誰かが飛び出した。
「おじさま!!」
今度こそノクスは、ぽかんと呆けた。それはリリアだった。オレンジに近い茶色の髪を靡かせて『ポール』に駆け寄った彼女は、ぐったりと横たわる彼の頭を膝に乗せた。
間一髪で間に合ったとはいえ、『ポール』の核にはあちこちヒビが入り、いわゆる虫の息状態だ。それでも彼は、突然目の前に現れた愛娘の姿に、驚きを隠せない。
力の抜けた体を娘に預けつつも、『ポール』は信じられないといった様子で、ゆるゆると首を振った。
「り、りあ……。なん、で。どうして……」
「そんなことどうだっていいでしょ!?」
リリアらしくもない叫びに、『ポール』が目を見開いた。
リリアは泣いていた。澄んだ大きな瞳から、ぽろぽろと透明な涙をいくつもこぼしていた。
言葉をなくす『ポール』に、リリアは腕を突きつけた。
「血! 呑んで!」
「っ、なぜそれを……」
「いいから早く!」
「大人しく言う通りにするべきじゃない?」
新たに響いた声に、『ポール』、そしてノクスもハッとして振り返った。もっとも、ノクスは振り返るまでもなかった。放心して見守るノクスを宥めるように、彼女がノクスの手をそっと掴んだから。
「ステラ……」
「ただいま、ノクス」
明るいライトグリーンの瞳を向けて微笑むステラに、ノクスは理解した。
ノクスが偶然にも『ポール』の記憶を覗き見て知った事実の大半を、おそらく彼女は本能的に察したのだ。だから一時戦闘を離脱し、リスター村からリリアを連れて舞い戻った。『ポール』のあまりに悲しすぎる計画を阻止するために。
呆れたやら腹立たしいやらで、ノクスはしばし美しく整った顔をしかめて唇をワナワナとさせた。けれどもやがて諦めて、ぽすんとステラの肩に額を寄せた。
「……作戦があるなら、事前に伝えてください。いつも言ってるでしょ。後から知る、俺の身にもなってくださいよ」
「ごめんね。だけど、ちゃんと間に合ったでしょ?」
「それは結果論というものです」
申し訳なさそうに笑って、ステラはノクスの背中をぽんぽんと叩く。それからステラは、いまだに戸惑った様子の『ポール』を見下ろした。
「リリアさんには全部話したわ。あなたがヴァンパイヤだということも、11年前に本物のポールさんと入れ替わったニセモノだということも。――それをリリアさんに隠したまま、この世を去ろうとしていることも」
『ポール』の表情が強ばった。なにを余計なことを。おそらく彼は、そう声をあげようとしたはずだ。
けれども抗議の声が飛び出す前に、リリアの大粒の涙が、ぽたりと『ポール』の頬を濡らした。
不思議そうに娘を見上げるヴァンパイヤに、ステラは苦笑した。
「真実を知って尚、死なないでと泣いてくれる家族がいるのよ。あなたが死に急ぐ理由も必要も、もうこの世界のどこにも存在しないんじゃないかしら?」
「……いい、のかい?」
途切れ途切れの声で、『ポール』がリリアに問いかける。うまく言葉が出てこないのは、おそらく深い傷のせいだけではなさそうだ。
「僕、は、君に鈴百合を渡そうとした『ポール』じゃない。君をあの家から連れ出した男は、もうこの世にいないんだ」
「……だとしても」
はらはらと涙を流しながら、リリアは『ポール』の力の抜けた手を包み込んだ。それを頬にあてて、リリアは愛おしげに微笑む。
「私を救い出してくださったおじさまに、もう会えないのは悲しいけれど。……だけど。11年間、私に光を与えてくれたあなたも、私の大切な『おじさま』なんです」
『ポール』が微かに息を呑み、柔らかな風が鈴百合の花々を揺らした。
一筋の涙が、彼の頬を滑り落ちた。
ありがとう。そう呟いてから、『ポール』は大人しく、リリアの血を呑んだのだった。




