2.
――そうだ。
10年前の事件のあと。ノクスは本気でビアンカにくっついて、ハーカー家の屋敷を出ていくつもりだった。
〝考え直してはくれないかな。君が頷いてくれるなら、僕は君を、ハーカー家の養子として迎えるつもりだよ〟
屋敷を出ていく。その意志を告げた時、バルトリー伯であったステラの父のエイベルは、そう声を掛けてくれた。しかし、それにもノクスは首を振ったのだ。
自分はもはやヴァンパイヤだ。それも、いつかは両親を殺したヴァンパイヤに復讐をすることを望んでいる。そんな自分が近くにいたら、ハーカー家のひとびとを――ステラを、危険に晒してしまうかもしれない。
だから出ていくのだと。ノクスの意志は、固かった。
だけど、そんな彼を、ステラが変えたのだ。
〝遠くに行くって、ほんとうなの?〟
父親に聞いたのだろう。屋敷から運び出せた数少ない私物をノクスがまとめていたとき、ステラはノクスの部屋に飛び込んできた。
ステラにちゃんと会うのは、事件の前以来だった。ビアンカが巧みにステラを遠ざけていたし、ノクスも意識して彼女を避けていた。だからひさしぶりに会う幼馴染の変わらない姿に、ノクスは不思議と懐かしさを覚えた。
ノクスが旅支度を整えているのに気づいたのだろう。ステラは部屋の中に走り入ってくると、ノクスの手を両手で包んだ。
〝ノクス、行かないで。遠くになんか言っちゃダメ。わたしとここにいて〟
ぎゅっと軋む胸の痛みに、ノクスはとっさに何も答えられなかった。
遠くになんか行かない。ずっと君の傍にいるよ。そう、ステラに答えることが出来たら、どんなにかよかったのに。
だけど自分はヴァンパイヤで、彼女を不幸にするかもしれない存在で。そんな自分が、どうしてステラの傍にいられるだろう。どうしてこれまでのように、太陽のような笑みを浮かべる彼女の隣に、当たり前にいることが出来るんだろう。
〝ごめん、ステラ。そのお願いは、聞いてあげることが出来ない〟
張り裂けそうな胸の痛みを隠しながら、ノクスは彼女の手をそっと外した。
〝おれは行くよ。遠くに行って、父さんと母さんをあんな目にあわせた奴を倒すんだ〟
〝そんなのあぶないよ。ノクスはまだ子供なのに。あんなこと悲しいことがあったばかりなのに。そうよ。お父さまも、おじさまとおばさまにひどいことをしたヴァンパイヤを探しているんだもの。ノクスが遠くにいかなくたって……〟
〝それじゃだめなんだよ!〟
……彼女の明るさが好きだった。お日様みたいに輝く笑顔が好きだった。ちょっととぼけたところも、自由なところも。ノクスひとりでは気づかなかった世界へずんずん突き進んでいく強引さも。ぜんぶひっくるめて、彼女が大好きだった。
自分は不器用だから、感情表現が豊かなステラみたいに、素直に想いを表現することは出来なかったけれども。それでも、ずっと胸の中で育ててきた大切な想い。それを伝えることも出来ないままに、ノクスはそっと心に蓋をする。
〝おれはもうヴァンパイヤだから。普通のひとと同じではいられないから。おれが近くにいたら、ステラまであぶない目にあっちゃうんだよ!〟
気が付くと、ノクスは泣いていた。
女の子の前で泣いてしまうなんてカッコ悪いから辞めたいのに、涙は勝手に溢れてこぼれていく。せめてステラに見られたくなくて、ノクスは背中を見せて彼女を拒絶した。
なのに。もう諦めて、放っておいてほしいのに。
〝だめ。やっぱり、遠くになんか行かせてあげない〟
ノクスは驚いて身を固くした。後ろから、ステラにぎゅっと抱きつかれたからだ。驚くやら照れくさいやらで、ノクスはおろおろと後ろを窺いみた。
〝す、ステラ? あの……〟
〝決めた。わたし、ヴァンパイヤハンターになる!〟
〝はあ!?〟
仰天して、ノクスは思わず振り返った。すると、爛々と輝くライムグリーンの瞳が、情けなく困り果てた自分の顔を映していた。
〝ハンターになって、ノクスと一緒に冒険するの。あちこち巡って、わるいヴァンパイヤを退治しちゃう。もちろん、おじさまたちにひどいことをしたヴァンパイヤもよ。めったんめったんのぎったんぎったんにして、二度としません!ってあやまらせてやるわ!〟
〝ダメだ、ステラ。ハンターになるなんて、そんな危険なことは……!〟
〝それでね、ノクスを人間に戻す方法を探すの!!〟
鈴の音に似た澄んだ声が紡いだ、どこまでもまっすぐで力強い言葉。
パン!と世界が音を立てて開けた心地がして、ノクスは息を呑んだ。
〝ノクスだけじゃないわ。ウォルフレッドさんも、みんなも。ヴァンパイヤになってしまったすべてのひとを、人間に戻すの。そしたらヴァンパイヤに襲われて悲しむひとも、ヴァンパイヤになって苦しむひともいなくなるでしょ。世界はもっとステキになるわ!〟
〝そんな……無理だよ、ステラ。ヴァンパイヤを人間に戻す方法は、ハンターたちが代々探しているのに見つからないんだ。なのに、そんな夢みたいなこと……〟
〝できるできないじゃなくて、やるの!〟
ぱしりとノクスの手を摑んで、ステラは身を乗り出した。愛らしい瞳が、唇が。ノクスが大好きな希望に満ち溢れた満面の笑みで、一人では気づけなかった新しい未来の可能性を照らしてくれる。
〝そしたらわたし、ノクスとずっと一緒にいられるもの!〟
だからノクスは、ハーカー家に残ることを決めた。
人間に戻って、ステラと結ばれる。残念ながらその夢は、やはり夢に過ぎないのだと大人に近づくにつれてわかってしまったけれども。
それでもノクスは、ステラと生きていくことを選んだ。たとえ彼女と結ばれることが不可能でも。ハンターとして、バディとして、従者として。ヴァンパイヤの身のままでも、彼女を愛し、そばで守り抜くことは出来る。
両親の仇を取る以外、生きる意味を見いだせなくなっていた自分に、ステラが新しい可能性を示してくれた。そんな彼女と共にいたいと、ノクスは心から望んだ。
だから。
「俺は自分の意志で、願って、ステラといる未来を選んだ。この先だって、そのための困難はすべて乗り越えるつもりだ。あなただって……あんただって! そうやって11年間、あの村で過ごしてきたんじゃないのか!?」
迫りくる猛攻の向こうで、『ポール』が息を呑んだ。
……その時、彼の瞳に浮かんだのは一体誰の姿だったのだろうか。一瞬、『ポール』は心から幸せそうで泣きそうな、そんな優しい表情を浮かべた。
「――さて。忘れてしまったな」
そこからは、激しいぶつかり合いの応酬だった。
互いに地面がえぐれるほど踏み込むため、蹴散らされて宙を舞った鈴百合の花があちこちに落ちた。それはまるで夢の終わりのようで、露わになった地肌に横たわる小さな白い花は物悲しくさえあった。
「はあああああああ!!!!」
さすがは中級以上のヴァンパイヤらしく、『ポール』は強かった。だが、ある時間を過ぎたところで、その動きはがくんと鈍くなった。そこを逃すノクスではない。大きく叫びながら、ノクスは『ポール』の懐に飛び込んだ。
一瞬動きが遅れた『ポール』の腹を、一際太い荊棘が捕えた。鋭い棘が突き刺さり、『ポール』が小さく呻く。次の瞬間、彼の細い体は空に跳ね上げられた。
すかさずノクスは、新たな荊棘を地面から呼び起こす。投げ出された両腕を青く輝く荊棘が縛り上げ、『ポール』は十字架につるされるように宙に浮かぶ。ようやくノクスは、敵の動きを封じることに成功した。
急所である胸元に尖った荊棘の切っ先の狙いを定めてから、ノクスは肩で息をしつつ、どうにか声を絞り出した。
「……最後の質問です。あなたは自分の利益のため、ジェフリー氏を襲い、身勝手にその命を奪った。このことに、何か申し開きはありませんか」
『ポール』はしばらく俯いていた。やがてすっかり乱れてしまった茶髪を揺らして、彼は小馬鹿にしたような笑みをこちらに向けた。
「何を期待しているのか知らないけど、答えは変わらないさ。いいからさっさと終わらせてくれよ」
それが最後の引き金となった。
ノクスの魔力が荊棘に流れ、鋭い切っ先が『ポール』の胸に突き刺さる。その先にあるのは、ヴァンパイヤの血により結晶化した、核と呼ばれる彼らの心臓。
それを握りしめるように、荊棘が核に巻き付いた。
「さようなら、『ポール』さん。せめて最期は、安らかな夢を」
痛ましげに目を細めて、ノクスは荊棘の先端に力を籠める。
パキリと核にヒビが入る手ごたえがあり、『ポール』の身体がびくりと痙攣する。
その時、荊棘を通じて、彼の意識がノクスになだれ込んできた――。




