2.
ノクス・ウェルゲーツは、かつてステラの婚約者だった。
そして今は、ハーカー家の執事見習いであり、自称:ステラの従者である。
少々込み入った事情が、事態をこう厄介にしている。
「ノクスはいい加減、観念するべきだと思うの」
ステラのさらさらの銀髪を、侍女がブラシで滑らかに解いていく。慣れた手付きに身を任せながら、ステラはぷくりと頬を膨らませた。
「40回よ。40回もうらわかき乙女に恥をかかせたんだもの。そろそろ反省して、責任取って結婚してくれてもいいんじゃないかしら」
「ノクスさんも強情ですからねえ」
髪をすく手は止めずに、のんびりと答えが返ってくる。ハーカー家に仕える、侍女のジルである。
ツヤツヤと整えられていく髪を鏡越しに見守りながら、ステラはむすりと唇を尖らせた。
「だいたい私たちの婚約は、お父さまが決めたことよ。無かったことにするなんて、さすがに神経が図太すぎない?」
「無かったことにはしてないですよ。破棄しただけで」
「破棄の方が悪いわよ!」
「でもですねえ。そうは言ってもお嬢さまの従者ですし、お嬢さまをものすごーく過保護に甘やかしていると思うんですけどねえ……」
言いながら、ジルはステラの髪に編み込みを施し始めた。
――ノクスがステラと婚約したのは、もう10年も前のことだ。
当時はまだ、ステラとノクス両方の両親が健在で、ハーカー家とウェルゲーツ家は親密に交流していた。さかのぼればウェルゲーツ家はハーカー家から分かれた分家のひとつであり、子どもたちの年も近かったことから、ふたりの婚約は自然な流れで決まった。
(なのに、勝手にお父様にお願いして、婚約を破棄するだなんて)
当時の憤りを思い出し、ステラはぷくりと頬を膨らませた。
婚約者をやめて、代わりにステラの従者になる。ノクスはそれを有言実行で叶えてしまったわけだけれど、当然ステラは認めちゃいない。それどころか、何がなんでも前言撤回させてやると息巻いていた。
「私、負けないんだから。ノクスがどれだけ意地を張ったって、絶対に振り向かせてみせる」
「だから、このドレスなんですね」
ちょっぴり頬を赤らめて、ジルはステラを見下ろした。
ステラが身に纏うのは、レースが繊細な水色のドレスだ。上品な雰囲気だが、肩からデコルテラインまでがあらわになる上、ふんわりとした胸元がくっきりと協調される。
ふんすと胸を張るステラに、ジルは困った顔をした。
「似合ってますよ。似合っていますけど。少々、大胆すぎやしませんか」
「だから選んだの。ノクスめ、いつもよりセクシーな私を見て、エスコートできないことを後悔すればいいのだわ」
「色合いに反したまっくろ腹黒ドレスですね」
しげしげと眺めてから、ジルは小首を傾げた。
「けど、お嬢さま。お嬢さまは、ノクスさんの執事姿が好きですよね。あの格好を気に入ってるから、ノクスさんを好きにさせている節がありますよね」
「ぎくっ」
「だめですよ。うまみを享受しているなら、一方的に責めるのは不条理です。ノクスさんはお嬢さまの従者になりたい。お嬢さまはノクスさんのお仕着せ姿がみたい。いわばふたりは、ウィンウィンなのですから」
「ウィンウィンじゃないもの。ノクスが結婚式の白のタキシードを着てくれるなら、そっちの方が好きだもの」
「またそういう極端な喩えをする」
「本当よ。ノクスがうなずいてくれるなら、そのときは私も、純白無垢なドレスを身に纏いましょうとも」
呆れた様に肩を竦めながら、ジルはステラの銀髪をくるくるとまとめあげる。あらわになる首筋に、きらきらと輝く銀の後毛が、星屑みたいに美しい。
手早く髪飾りで止めながら、ジルは苦笑した。
「なんにせよ、ノクスさんにも考えがあるんです。あんまりいじわるをしては、ノクスさんが可哀想ですよ」
答える代わりに、ステラはそっと目を伏せた。
――ノクスがステラとの結婚を拒む理由。そんなものは、言われなくても察しがつく。
わかりはしても、理解はしない。だからこうして、いじめてやるのだ。
「――いいの。文句のひとつも言わないと、逆にノクスが可哀想よ」
「そんな、まるでノクスさんがドMみたいな」
「あと、時にはいじめてやらないと、腹の虫がむずむずおさまらないの」
「なるほどそっちが本音ですね」
ぱかりとアクセサリーケースの蓋を開けて、宝石のネックレスを取り出す。
それをステラの首にかけながら、ジルは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ステラさまはとっても可愛くて、すっごく優しくて。私の自慢の、素敵なすてきなお嬢さまです。ノクスさんにも代わって、私がお嬢さまを褒めてさしあげます」
「……ほんと?」
「ほんとですよ。大好きです、お嬢さま」
ぎゅっと抱きしめてくれたジルの腕は、温かくて柔らかかった。
それからほどなくして、ステラのドレスアップは整った。美しい銀髪は滑らかに結い上げられ、あえて残されたほつれ毛が愛らしさの中にも色っぽさを滲ませる。
できた、と。嬉しそうなジルの声に違わず、出来栄えは完璧だった。
全身を確認するため、ステラは立ち上がり、姿見の前に移る。そんな彼女の横顔を、傾き始めた日の光が赤く染める。
妖精の国にお姫さまがいるとしたら、きっとこんな姿をしているのだろう。そのように見惚れるジルに、ステラは輝く笑みを浮かべた。
「行きましょう、ジル。狩りの時間よ!」