3.
★ ☆ ★
最初に感じたのは、強い喉の渇きだった。
続いて、節々の痛み。けれども体の各所が上げる悲鳴をもってしても、ひりひりと焼けつくような喉の渇きを忘れさせてはくれない。
(喉が、熱い……!)
無意識のうちに、ノクスは喉をかきむしろうとする。けれども力の抜けた指が喉に触れる前に、その手を誰かが摑んだ。
「ノクス坊ちゃん……!」
「ウォル、フレッド、さん……?」
絞り出した声はかすれていて、自分のものじゃないみたいだ。それでも呼ばれた相手、ウォルフレッドは目に涙をためて、手を握ったまま何度も頷いた。
「よく頑張りましたね、ノクス坊ちゃん。まだ幼いのに……さぞ、お辛かったでしょう」
「つら、かった……?」
「ああ、ああ。申し訳ありません。いまはまだ、何も思い出さぬよう。ただただ苦しい夜を耐え抜いた身体を、褒めて差しあげてください」
ぽろぽろと涙をこぼすハーカー家の執事に、ノクスは首を傾げた。
ウォルフレッドがいるということは、ここはハーカー家の屋敷の一室だ。けれどもノクスは、どうやってハーカー家に来たのか思い出せない。
(俺は家にいたはずじゃ……?)
考えようとしたところでズキンと頭が痛んだ。続いてすさまじい勢いで、無くした記憶が瞼の裏を駆け抜けていく。
吹きすさぶ嵐。白い悪魔。母の悲鳴。怒鳴る父。
燃え上がる赤い眼差し――。
「正気は保っているみたいだね」
新たに響いた声に、ノクスはハッとしてそちらを見た。
男――でいいのだろうか。暗がりで腕を組んでこちらを見つめる人物に、ノクスは首を捻る。
喋らない限り、自分はその人物に気が付かなかっただろう。それくらい、相手は自然と闇に溶け込んでいる。
だが、一度姿を目にしたら二度と忘れないだろう。そう思うほどに、彼は美しかった。
夜闇が降りてきたような黒髪は艶やかで、無造作に後ろで結ばれている。その下に覗くのは白皙の面差しと、冷ややかながらも美麗な灰色の瞳。全体的に黒っぽい服装を纏った身体は細くすらりとしていて、中性的な色気を醸し出している。
一体この人は誰だろう。疑問に思うノクスをよそに、ウォルフレッドはその人物に問いかける。
「ヒース、ノクス坊ちゃんは……」
「心配いらないよ。その様子なら、グールとして始末する必要もなさそうだし」
ヒースと呼ばれた男は、組んでいた腕をほどく。ちらりと灰色の視線を投げかけられ、ノクスはびくりと緊張した。それほどに印象的な瞳だったのだ。
けれども彼はノクスには特に声をかけず、すぐにくるりと背中を向けてしまう。
「なんにせよ、食事が先だよ。目覚めたてで、ひどく乾いているはずだからね」
「それもそうですね。すぐに準備ならいたしましょう」
「いや、用意なら俺がする。ウォルフレッドはその子の傍にいてあげて。ついでにエイベルも呼んでくるから」
軽く肩を竦めてから、男は扉に手を伸ばす。
事態が動いたのは、戸が開いた瞬間だった。
「ノクスが目を覚ましたの!?」
「っ、バカ!」
戸が開くのを、扉の前でずっと待ち構えていたのだろう。ほんのわずかな隙間から、すごい勢いでステラが飛び込んでくる。
男は焦った表情で手を伸ばすが、ノクスはいつもと変りない幼馴染の姿に、ようやくホッとした心地がする。
――だが次の瞬間、何やら黒くて大きなものが、体の中で暴れた。
「…………っ!?」
「ノクス!」
ステラが悲鳴をあげるが、答えてやる余裕はなかった。
先ほどとは比べようもない強い渇きが、強烈に全身を掛けまどう。感じたことのない衝動に、瞼の裏でチカチカと光が散る。
いけない。この衝動に、身を任せてはいけない。
そう本能的に察して、ノクスは両手で口を押えた。けれども抗いようのない喉の熱に、両の目からじわりと涙が滲んだ。
「どうしたの、ノクス? 苦しいの!? ねえ!」
「その子を下がらせろ、ウォルフレッド!」
男が鋭く叫び、ウォルフレッドがステラを捕まえる。
尚も暴れるステラが部屋から連れ出される。扉が閉まると同時に、視界を遮るように男の黒いシルエットがノクスの前に立った。
涙に濡れた瞳で見上げると、冷ややかな灰色の瞳が観察するように自分を見つめている。救いを求めるように手を伸ばし、ノクスは無意識のうちに呟いてた。
「血……飲ま……せ……」
「だろうね。……可哀想に」
それまで感情の見えなかった男の瞳に、初めて哀れみの色が宿る。
彼は嘆息すると、なぜか腕を捲り始めた。
「本当は、別の方法でとらせてあげたかったけど、こうなった以上仕方がない。初めての食事で抵抗もあるだろうけど、文句は言いっこなしだよ」
「血……早く……」
「やり方は教えないよ。君は、ちゃんとわかるはずだから」
男は無造作に黒いシャツを捲り、青白い腕が露わになる。
その白肌が、下に流れる熱い血潮が、どうしようもなく意識を狂わせた。
(血を飲みたい……!)
灯りに吸い寄せられる蛾のように、ノクスはふらふらと男に手を伸ばす。
彼の言う通りだった。何をすればいいのかわかる。どうすればいいのかわかる。
――けれども。最後の、あと一歩の、その刹那。僅かに残った理性の欠片が、どうしてもソレをさせてくれない。まさに男の腕にかじりつこうとしたところで我に返り、ノクスは自分の中で暴れる欲望に戦慄した。
「あ、ああ……こんな……嫌だ」
先ほどとは違った理由で、ノクスの両眼からぽろぽろと涙が零れる。
震える手が男の腕を離れ、代わりに涙で濡れる顔を覆った。
「嘘だ……そんな、どうして……」
男はしばらく黙って眺めていたが、やがて小さく嘆息した。
「安心したよ。――身体は変わっても、やっぱり君はふたりの子だ」
「!」
ノクスはびくりと飛び上がった。優しく包みこむように、男に抱きしめられたからだ。
ぽんぽんと宥めるように背中を叩きながら、男は静かに続けた。
「いま君の胸を占めている、その気持ちを忘れないように。それを失わない限り、俺たちは人間と近しくいられる」
「でも、おれは……」
「そう。人間じゃない」
ひくりとノクスの喉が鳴る。それでも取り乱さずに済んだのは、意外にも男の声が優しかったからだ。
「正確には、まだ半分は人間だ。だとしても普通の人間のようには暮らせない。君の命を繋ぐのは、ほかの誰かの血だ。ヴァンパイヤの血が流れる以上、その性からは逃れえない」
「……そんな身体で、生きていたくない」
「ダメだ。君は、あの夜を生き延びた。死んだ者のために――ブラムとミアのために、君は生きる義務がある」
けれども、忘れないでと。
言いながら男は自分の指の先を咥え、歯を突き立てた。白く細い指の先にぷくりと赤い血が浮かび、ノクスの喉が無意識のうちにごくりと鳴った。
「その体は血を求め、絶えず渇きに疼く。衝動に身を任せてしまえば、俺たちはたちまち人間を襲い喰らいつくすグールと化す。それがたとえ大切な――例えば、さっきのあの子のように、かけがえのない相手であっても、牙を突き立てしまう危険性を孕んでいるんだ」
ノクスは息を呑んだ。
目を覚ました直後。部屋に飛び込んできたステラを目にした途端に体の奥底で暴れまわった感情の正体に、ようやく頭が追いつく。
あの時、自分はステラに何をしようとしたのだろう。大きなライムグリーンの瞳を輝かせ、自分に駆け寄ろうとしてくれた大好きな彼女に、なんて恐ろしいことを。
ガタガタと今更のように体が震え出す。けれども震えに反して、再び喉がじくじくと熱くなる。ステラの肌は、どんなに柔らかいだろう。ぷすりと肌を食い破って溢れる血は、どんなに甘く、芳醇な香りだするだろう……。
恐ろしい考えに、ノクスはぎゅっと両目を瞑って体を掻き抱いた。
それだけは嫌だ。欲望に負けてステラを傷つけるなんて、そんなことは。
「大丈夫だ。君は強い子だ。俺が、君をそんな風にしない」
血の球がぷくりと浮く指を差し出されて、ノクスは恐る恐る顔をあげる。すると、思いのほかまっすぐな眼差しで、男は――ヒースはノクスを射抜いていた。
「ブラムとミアの子供は、俺が守る」
初めての食事は、にがくて苦しい味がした。
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