読心の令嬢と氷の騎士様〜目が合った相手の心が読める私だけが無表情な氷の騎士様がただの口下手だと知っている〜
私がそのことに気が付いたのは十歳を迎えたある日のことでした。
「イリス様、お茶が入りましたよ」
柔らかな笑みを携えた侍女の目を見たその時。
──めんどくっさ
重く低い言葉が頭の中に響いてきたのです。
「え?」
「どうかされましたか?」
「いえ……なんでもありません」
怪訝そうに首を傾げる侍女からは想像もつかない言葉。
──変な娘。
やはり勘違いではありません。
目を見た瞬間頭の中に言葉が響いてきます。
不思議に思った私はもう一度、侍女の目をジーっと覗き込みました。
──何? 私何かした?
根拠はありません。
だけども三度続いて響いてきたことで私は確信しました。
私は目を見た相手の心の声を聞くことができるのだ、と
※ ※ ※
社交界は建前の世界です。
皆腹に黒いモノを抱えながら、穏やかな笑みという仮面を張り付けています。
例えば今目の前で私と優雅に社交ダンスを踊っている彼だって。
──相手は社交界デビューしてすぐの小娘だ。家は伯爵家と家格も申し分ないし上手く口説けば簡単に堕とせそうだな……
と、何やら不穏なことを考えています。
これを声に出していたら最低な男ですが、あくまでこれは本来相手に届くことのない心の声。
彼を責めるのも酷、というものです。
無論私はこんな下衆な考えで近づいてくる男などお断りですが。
なら誰がいいのか、と言えば言葉に詰まってしまいます。
人間誰しもが人に言えない汚い部分を抱えています──少なくとも私はそう思っています。
良い人、というのはその汚い部分を上手に隠せる人のことを指すのでしょう。
等と考えていたら音楽が止みました。
ダンスの終わりの合図です。
私のお相手だったどこかの貴族の令息は、
「よかったらこの後も少し話さないか?」
と少し顔を赤らめながら、優美な微笑みを被って私を熱っぽく見つめてきます。
きっと夢見がちな少女ならば、恋の予感だと勘違いして彼の良い様にされてしまうのでしょう。
ですがお生憎様。
私は貴方の本心を知っているのです。
その下心にまみれた本心を。
私は初めてのダンスで疲れたので少し休みますから、と取り付く島も与えず身を翻してダンスホールの端へ立ち去りました。
香水の甘い匂いが複雑に交じり合って鼻の奥にへばりつくような空気が、ダンスを終えて少し会場内の蒸し暑さが増したせいで、より一層粘り気を増しているような気がしました。
そのむせ返るような匂いが息をする度に私の脳髄を揺さぶります。
意識的に口で呼吸するようにしていても鼻腔にへばりついた甘さは取れてくれません。
いずれ慣れるから、と人は言いますが本当なのでしょうか?
成人したばかり、初めての社交界に参加した小娘には想像もできません。
給仕の方から果実水を受け取って口に含みます。
少し行儀が悪いですが口に含んで舌で転がすように、へばりついた匂いを押し流すようにしてゴクリと音を立てて飲み込みます。
果実水の爽やかな香りのおかげで少しはマシになった気がしました。
私はグラスを傾けながら、様々な絵画や調度品で絢爛豪華に仕立てられたダンスホールを端から端まで見渡します。
皆一様に紳士淑女の笑顔。
しかしその腹の内は様々です。
純粋にダンスを楽しんでいる者。打算で動いている者。様々な情報を集めようと躍起になっている者。憧れの人に声を掛けようか悩んでいる者。
同じ笑顔の裏にはこんなにも様々な感情が渦を巻いて社交界の独特なゆったりとしているようでどこか張り詰めたような空気を作り上げているのです。
それが分かるのは私に『目の合った相手の考えていることが分かる』という異能にも近い力があるから。
きっとこのことを知れば人は皆羨ましいと言うでしょう。
しかしこの能力はそんなに良い物ではありません。
本音とは人の一番汚い部分。
必死に押し隠そうとしているその汚い部分を少し話しただけで私は分かってしまうのです。
私がそれを望む望まずに関わらず。
まず初めに私が幼いころに信頼していた侍女が実は物凄く打算的で、私に気に入られることでお父様との距離を近づけて最終的に不倫関係に持ち込もうと計画していたことを知りました。
初めての見合いの相手がどうしようもない程女性関係に汚く、側仕えの女性を何人も手籠めにしていたクズだと知りました。
私とやたら仲良くしようと迫ってきた御令嬢が、私の友人とお近づきになるための中継地点として私を利用していることを知りました。
こんなことばかりです。
知らなければよかったことばかり知って私はいつしか人間不信に陥っていました。
目を合わせて話すことは立派なマナーの一つですが、私は大の苦手としています。
何故なら目が合った瞬間に相手の本音が見えてしまうから。
もはや習慣となったこの癖を変えることはできないだろうと思います。
深く重いため息をつきながらボーっと周囲を見ていると、ふと多くの女性の視線が一か所に集まっていることに気が付きました。
その視線の交点を探せば、驚くほど顔立ちの整った憂い顔の美青年が俯きがちに佇んでいたのです。
幸い彼が目を伏せていたので、私でも遠慮なく見つめることができます。
白銀の髪が印象的な彼はどう見ても退屈そうにしていました。
そんな彼の前には心を読まずとも分かる熱っぽい視線を彼に向けて声を掛けようかどうか迷っている御令嬢たちの姿が見えます。
その中でも一際気の強そうなつり目の令嬢がついに彼に声を掛けました。
「ごきげんよう、テオ様」
「ああ……ごきげんよう」
「どうやら元気が無い様に見えますわ。お疲れなのでしょうか?」
「……ええ、まあ」
「……グラスが空のようなので、もう一杯果実水でも口にされるのはいかがでしょうか。ここの果実水は冷たくてきっと体調もよくなるはずですわ」
「……いや、結構だ」
抑揚のない声に気の強そうな令嬢の覇気がみるみると失われていくのが見て取れました。
だいぶ冷たい反応です。
必死でアプローチをかけてくれている女性にその態度はさすがに酷いんじゃないかと思います。
表情だってピクリとも動きません。
きっと彼女もテオ様、という男性とダンスを踊りたいだけなのでしょう。
ですが、女性から男性をダンスに誘うというのは少々外聞がよくありません。
なので彼女もテオ様の方から誘ってもらおうとしているのでしょうが……
全く効果が無い様です。
ついに気の強そうな女性は萎れた花のようにシュンとして彼の前から姿を消しました。
「おい見ろよ、氷の騎士様がまたやったそ」
「ああ、あの御令嬢も可哀想にな」
「冷たい態度にしてもほどがあると思いますがね」
近くにいた若い青年たちがひそひそと噂をしています。
どうやら私だけじゃなく、他にも大勢の方が一部始終を目撃していたようです。
「……なるほど、だから氷の騎士様」
私は妙に納得してしまいました。
世の女性が放って置かなそうな美貌を持っているというのにあの冷たい対応。
きっと彼女にだけではなくて誰にだって同じように冷たいのだろうと感じさせる作り慣れた氷のように変化を見せない表情。
氷の騎士様、確かに彼に、テオ様に相応しい──不名誉ですが──二つ名だと思いました。
──だからそれは全くの偶然でした。
氷の騎士様という二つ名の由来に納得して彼を見ていると、呼吸のために水面に顔を出した水生生物のごとく顔をあげた彼と目が合ってしまったのは。
瞬間、私の頭に声が響きます。
──またやってしまったぁ~。
随分と間の抜けた声です。
一体誰の心の声……と考えても一人しかいません。
氷の騎士様です。
──ああ、胃が痛い。せっかく話しかけてくれたのに緊張でロクに喋れないし……彼女絶対に怒ってるだろうなぁ……
ちょっと待ってください。
これは本当に氷の騎士様と言われている彼の心の声なのでしょうか。
表情は険しいままなのに、本音はこんなにも女々しい感じなのですか?
驚きで私はパチパチと何度も瞬きをしてしまいました。
そして私は一つの可能性にたどり着きます。
(もしかしてこの方、ただ口下手なだけなのでは?)
様々な方の本音を見てきましたがこんなに面白そう……いや、興味深い心の声を漏らした方を見るのは初めてです。
心が読めるようになるまでお転婆娘と騒がれ続けた私の血が騒ぎます。
私は静々と、心の内の好奇心を穏やかな笑みの仮面で隠しながら氷の騎士様の元へ向かうことにしました。
※ ※ ※
一直線に氷の騎士──テオ様の元に向かう私にいくつも視線が注がれます。
チラリチラリと目を合わせて何を思っているのかと確認すれば、
──ええ!? 本気ですの? さっきの対応見ましたわよね?
──あーあ、次の犠牲者はあの御令嬢か。
随分な言い草です。
自分で言うのもなんですが、私見た目にはちょっとだけ自信があります。
お父様ゆずりの陽の温かい光を閉じ込めたようなブロンドの艶やかな髪。
お母様ゆずりのパッチリとした猫目。
鼻筋もしっかり通っていて世間一般で見れば美人令嬢で通るはずです。
ちなみにこれは私が自信過剰なのではありませんよ?
今まで私を見た人が私を見て抱いた第一印象の統計から判断したものです。
客観的に証明されている、ということになります。
とにかくここで大事なのは私が超が付くほどの美形のテオ様の横に立っても著しく見劣りするような容姿ではない、ということです。
美しさは女の武器。
磨いた美しさを誇りたい、と思うのは年ごろの娘なら当然抱く感情のはずです。
この私を見てテオ様が何を思うのか、無表情のままでいられるのか、これは一種のイタズラでもありました。
にしてもテオ様は私が狙いを定めて一直線に近づいているというのに目も合わせてくれません。
これはいよいよこちらから声を掛ける必要がありそうです。
「ごきげんよう」
私は淑女の礼と共に、テオ様に話しかけます。
「……ごきげんよう」
憂いを帯びた瞳は私を捉えないままの素っ気ない返事。
私は次の言葉を発さずにジーっとテオ様を見つめます。
その私の視線を存分に浴びて気まずくなったのか、テオ様はようやく私のことを見てくださいました。
「……何か?」
相も変わらず抑揚のない素っ気ない声。
人によっては苛立ちが現れている──そう感じてもおかしくはありません。
しかし実際のところはと言えば……
──うわぁ……また話しかけてきた……
明らかに狼狽していました。
何となく察していましたが、相当な口下手のようです。
──話しかけてくる人皆狩人みたいな目をしてて怖いんだよなぁ……
──あれ? でもこの人はちょっと違うような……
口下手なだけで中々鋭い方のようです。
一目で私の新しい玩具を見つけたかのような好奇心の片鱗を感じ取ったのでしょうか。
面白い……こんな人初めてです。
私はからかいたい気持ちを抑え、緩みかけた頬を引き締め、問いかけます。
「もしかして……緊張されてます?」
少し踏み込んだ質問です。
氷の騎士様は何と答えるのか、それが楽しみで仕方ありません。
「……まあ、少しな。このような場所は好かん」
「分かります。本音と建前がバラバラで怖い場所ですよね」
──この人はあんまり怖くないかも……?
よし、上手くいきました。
氷の騎士様と呼ばれた彼は怒っているのではありません。
ただ単にこの社交界という場所が苦手なだけなようです。
それに共感を示す形をとったことが効果的だったのでしょう。
「……もし私を気遣っているのであれば、それは不要だ」
──俺なんていいから他の人と踊ってきてくれないかな……
「そういうわけじゃないのです。私、初めての社交界で少し疲れてしまって」
「そうか、なら休むといい」
「つまり壁の花になれ、と?」
「私と話している方が疲れるだろう」
最後の言葉だけは本音でした。
どうやら氷の騎士様と言われているのは外見の様子だけであって実際の姿は気遣いのできる優しい方のようです。
であれば、もう一押しすればいけそうですわね。
おっといけません、淑女にあるまじき嗜虐的なオーラを漏らしてしまいました。
これも全部テオ様が悪いのです。
氷のような見た目に反してオドオドとした内面。
それが妙に私の嗜虐心を煽ってきます。
「私は疲れませんよ」
「そうか」
「あー誰か私と踊ってくださらないかしら」
──すごいグイグイくるな……この人。皆すぐに私に愛想を尽かして去っていったのに。
「私は踊りが得意ではない」
──魔獣との戦闘ならまだしも、ダンスはなぁ……
「私も社交界は初めてですわ。ダンスもまだ半人前です」
──でも確かにずっと壁の前に立っているのは主催者に悪いし……この人となら踊れそう。
どうやら懐に入り込めたようです。
私はニヤリと片頬を吊り上げたくなるのを押さえつけるのに必死でした。
「そうか、では私と踊ってくれないか」
「喜んで」
その言葉に周囲がざわつきます。
──氷の騎士様が躍るだと?
──あの御令嬢はどなたなのですか? 初めて見るお顔ですのに……
注目を集めているおかげで、少し視線を動かせば様々な声を手に入れることができます。
良い所ばかりではありませんが、やはりこういう時には役に立ちますね。
「そう言えば名乗っておりませんでしたわね。私はアーデル伯爵家のイリスと申しますわ」
「……グレイス男爵家のテオだ。王都の騎士団で騎士をやっている」
ちょうど曲が切り替わるタイミングでテオ様はぎこちなく手を差し出してきました。
本心を知っていると面白い光景です。
少し手が震えています。力も入っています。
私はそんな彼の力の込められた手に優しく手を重ねます。
割れ物を握るかのように繊細にゆっくりと手を取ったテオ様に引かれて私たちは壁から抜け出してダンスホールへと繰り出しました。
テオ様は踊りを得意ではないと言っていましたが、きっと身体能力がとても高いのでしょう。
緊張で少し硬くなっていましたが、とてもお上手でした。
さて、私たちは今好奇の目に晒されているわけですが、ダンス中というのは密談に持ってこいの場所なのです。
周囲の人間は踊りに夢中になっていて目の前の相手との話でいっぱいになっているはずですし、壁際で談笑している噂好きな方々からも距離をとれます。
何かを話したとして聞き取れる相手はいないわけです。
だから私は踊り始めてすぐに本題に入ることにしました。
「テオ様?」
「なんだ」
「テオ様は口下手なことで困っていらっしゃる、違いますか?」
「……」
──何故それを!?
テオ様の表情は眉根が少し吊り上がっただけで大きな変化はありませんでしたが、心の内では嵐が吹いた時の子猫のようにあたふたとしています。
黙っているのも単に何て答えればいいか分からずに固まっているだけなのです。
私はテオ様の心の中に浮かんだ言葉に対して返答します。
「なんとなく……ですかね。話していらっしゃる時の所作、瞳の動き、表情はあまりお変わりにならないようですが、本音を全て隠し通すなんてよほどの方でないと無理ですわ」
嘘です。
確かに嘘をついている時、人は独特の所作を見せたりしますが私は『心を読む』というズルをしています。
もちろん心が読めるなんて誰にも言う気はありません。
私はこれからの一生を妙に心情の機微に聡い女、で通すつもりなのですから。
「……そうだ、私はこの通り人付き合いが苦手なのだ……特に異性との会話が」
これは本音でした。
ついに観念してお話してくださったようです。
「両親から結婚を急かされているから早く慣れないといけないとは思っているのだが……」
「私で良ければお手伝いしましょうか?」
心の隙間に滑り込むように、私は提案をします。
こんなに面白い玩具……いえ、困っていらっしゃる方を助けるのは貴族の義務というものです。
最初から、お話しようと決めた時から私はテオ様の力になると決めていました。
彼の本音と実際の姿の差異がとても面白く感じられたからです。
「いいのか?」
テオ様の瞳がわずかに大きく開きます。
その瞳に浮かぶのは期待と疑念。
「私と踊っていただけた、ということは少しは私のことを怖くないと思っているということですよね?」
「ぐいぐい来るな……とは思ってはいるが……確かに怖くはない。本当だ」
「でしたら問題ありませんね」
「あ、ああ……」
曲が終わりに近づきます。
そろそろ二人だけで衆目を集めずに話せる時間は終わりを迎えようとしていました。
「では、今度は二人でお茶をするというのはいかがですか?」
「……私といても話が続かないぞ」
「でも現に踊っている間ずっと話が続いたではありませんか」
──確かに、言われてみれば……
これは私がテオ様の心を読んでいるからなのですが……。
恐らくテオ様に足りていないのは自信と経験なのでしょう。
私であればその両方を提供できる、私はテオ様のような面白い……困っている方を助けることができる、どちらにとっても都合のいい話です。
「分かった……では私の方からお願いしよう。どうか、よろしく頼む」
「ええ、こちらこそ」
こうして氷の騎士、テオ様の口下手な性根を変えるための密約が交わされたのでした。
※ ※ ※
私が再びテオ様とお会いすることになったのはあの社交界での密約を交わしてから一月ほどが経った日のことでした。
テオ様から見合いの打診が私宛に届いたのです。
お父様は氷の騎士様のことを知っているらしく見合いの打診について疑問に思っておりましたが、私が先日の社交界で話すキッカケがあったのだ、と伝えると納得してくれたようです。
父はテオ様のことを悪く思っておりませんでした。
というより私が無知だっただけでテオ様はかなり高名な騎士として名を馳せていました。
寡黙ではあるが、勇猛果敢で騎士団を引っ張る、騎士団長候補としても名前のあがるような方です。
そんな凄い方に私は興味本位で……若気の至りというやつでしょうか。
でも結果的には大成功だったのでそれでよし! 気にしない方向でいきましょう。
そして慌ただしく時が過ぎ、見合いの時がやってきました。
馬車に乗って王都にあるテオ様の邸宅へと向かいました。
刈り揃えられた草花が所狭しと並べられて小さな森を演出している、そんな小さいながらも清らかな庭園。
それはテオ様の人柄が現れているような場所でした。
その庭園の、木立の影に当たる涼し気な場所で私はテオ様と再会を果たしたのです。
相変わらずテオ様は儚げな美貌を無自覚に振りまいておりました。
その美貌に私の侍女が呆けて動かなくなってしまったほどです。
「この度はお招きありがとうございます、テオ様」
「イリス嬢こそ、わざわざ遠方からの来訪、感謝する」
──ああ、やっぱり緊張するなぁ……
表情にこそ出ていませんが、やはりテオ様は硬くなっているようです。
──イリス嬢のような美しい御令嬢を前にして私はちゃんと話せるようになるだろうか……
ななな、なんてことを考えているのでしょう。
私は確かに? 自分でも自分のことを多少は美しいとは思っていますが? 面と向かって言われるとさすがに照れるのですが……?
っていけません。
これはテオ様が心の内で思っていただけのことです。
それを盗み見たことへの罪悪感が膨らんで胸を圧迫します。
そうですか……でも私のことを美しいと思ってくれているだなんて……
悪い気はしません。
「……イリス嬢?」
「は、はい?」
「この度はご助力感謝する」
「いえ、私もテオ様のために微力を尽くしますわ」
そうです。
今日はテオ様が女性との会話に慣れるための訓練でしかないのです。
お見合いだから、とお父様は気合いを入れて新しいドレスを購入してくださいましたが、別にそれはあくまで礼儀であって別に私がテオ様のことを特別に感じているかと聞かれたら別にそんなことはなくて……
って何一人で舞い上がっているのでしょうか。
我ながら馬鹿みたいです。
テオ様が人払いをして、私たちは静かな庭園で二人きりになりました。
お手伝いをする、と言ったものの私も別に異性との会話に慣れているわけではありません。
どうやって話を繋げれば……。
──そのドレス、咲き誇る花のようでとても美しい……
とてもいいタイミングです、ちょうど話の種が転がってきました。
「テオ様、会話に困った時はまず装いを褒めるのが無難でよろしいかと思いますわ」
「……装い、か」
「ええ、多くの令嬢はその場その場に合わせたドレスを毎回侍女と頭を悩ませながら選んでいるのです。それを褒められて機嫌を損ねる方なんていませんわ」
「……そうか。ではそのドレスだが……とても素敵だと思う」
「まあ、最初にしては……上出来だと思います」
やってしまいました。
恥ずかしさのあまり目を逸らしてしまいました……。
本当はテオ様が何を考えていたのか、心を読み損ねるなんて……なんたる失態。
「そ、それでですね。まずは装いを褒めたらきっと世の御令嬢は嬉しくなって何にこだわって、どのような意図でそのドレスを選んだのかきっと話してくださるはずですわ」
「……とするとイリス嬢もか?」
「もちろんです。テオ様は騎士様でいらっしゃいますからあまり華美なのは好まないかと思いまして、素材の良さを出すシンプルなドレスにしました」
「なるほど……」
──確かにイリス嬢に良く似合っている。
つっ────
テオ様……本当に口下手なだけですのね。
微笑みながらその心の言葉を漏らせば、それだけで容易く世の令嬢たちを失神させることができるでしょうに……。
「あとは表情ですわ」
「すまない、普段からこれなのだ」
「なるほど……テオ様、普段から訓練で体は動かしておりますよね?」
「ああ、非番でない日は一日中訓練に励んでいる」
「表情も同じです。訓練しないことには変わらないのです」
「……なるほど」
「ものは試しです。ぎこちなくても構いません。意識的に微笑みを作ってみてはいかがですか?」
「……こうだろうか?」
瞬間、私の息が詰まります。
儚げでぎこちなく、それでいて優美な笑み。
これはもはや凶器です。
気軽に振りまこうものなら国が傾いてしまうかもしれません。
「……そうですね、意識的にその笑みを崩さずにいることから始めましょう」
「すまない……一瞬が限界だ」
「意識的に、誰もいない所で繰り返し練習するのです。そうすれば次第に自然と表情を緩めることができるようになります」
「なるほど……」
さっきからまともに目が見れていません。
そのせいで本当は何と考えているか分からないのです。
めんどくさい、と思われていないだろうか。
いえ……きっとそんなことは思っていないのでしょう。
彼は、テオ様はずっとそうでした。
あの社交界の日も、今日も、誰かを責めるようなことを全く考えたりしないのです。
何て心根が綺麗な人なんだろう、私はそう思っていました。
世の人は大抵何かを憎みます。
私だってそうです。
私を実はよく思ってない侍女に苛立つこともあれば、社交界で踊った相手に対してクズ、などと思ってしまうこともあります。
だけど彼は違います。
責めるのはいつも自分ばかりで、誰かを悪く思うことが一切ないのです。
ただ自分に自信がないだけ……そうかもしれません。
ですが、それでも他人に対して悪感情を抱くことがない、純真な心根は私にとってとても魅力的に思えたのです。
きっと私の役目は餌の取り方を知らない雛に餌を与えて、大空を優美に羽ばたく鳥へと育てることなのでしょう。
その時きっと私は隣を飛ぶことはできません。
同じように優美に空を飛ぶ御令嬢と番になるのです……。
だから、勘違いなんてしてはいけないのです。
※ ※ ※
それから何度か私たちは見合いと称して口下手な氷の騎士様が異性と話すのに慣れるための訓練を行いました。
次第に心の内の本音と……唇の形が重なっていき、一瞬しか続かなかった天上の優美な笑みを私と話している間中ずっと浮かべられるようになっていきました。
そこにはもう氷の騎士様、と呼ばれた無表情で口下手な彼の姿はありませんでした。
そして季節は廻り再びの社交界シーズン。
私にとっては二度目のダンスパーティーにお呼ばれしたのです。
どうやらテオ様も参加するとのことでした。
──いよいよテオ様が大空へと羽ばたくのです。
巣立ちを見守る私は、やり切ったような……寂しいような。
人の心は読めても、私は自分の心が読めません。
分からないのです。
私がテオ様に抱く感情が何であるのか。
胸のうちを複雑な感情が渦巻いて、答えになってくれません。
私は浮かない顔のまま、ダンスパーティーに向かいました。
侍女に、父に急かされて、とびきり上等なドレスを身に纏いながら。
ドレスに着られているような気がします。
このドレスに見合う令嬢に私はなれているのでしょうか?
そして顔を上げられないまま、ダンスパーティーが始まりました。
始まってすぐに会場中がざわめきたつのを感じます。
その視線の先にいるのは誰かなんて、考えなくても分かります。
きっとテオ様の変貌ぶりに驚き、皆テオ様の元へ駆け寄っているのでしょう。
すっかり氷の解けた、物語の騎士様のような素敵なテオ様の元へ。
私は辛気臭さと憂鬱の混じった笑みを浮かべているのでしょう。
その証拠に誰からも話しかけられず、すっかり壁の花になってしまっていました。
俯きながら、無表情に、空のグラスを眺めます。
「イリス嬢……」
ふと、声がしました。
聞き慣れた、この一年何度も聞いた声です。
私は恐る恐る顔を上げます。
──どうして。
そこには優美な笑みを浮かべるテオ様が立っていました。
後ろに大勢の令嬢を引き連れて。
「素敵なドレスですね。まるで妖精みたいだ」
「ありがとうございます。テオ様もその白を基調とされた装い、とても良くお似合いですわ」
──怖い。
目を上げるのが怖い。
彼が、テオ様が本当は何と考えているのか、それを知るのが、知ってしまうのが。
周囲の人間がテオ様と私を見比べて、どう思っているのか。
「イリス嬢……私と踊ってくれませんか?」
驚きに顔を上げます。
目が合ってしまいました。
すると私の頭の中に声が……自動的に響くのです。
──イリスと……踊りたい。
「え?」
思わず声を漏らします。素っ頓狂で間の抜けた声です。
テオ様の言葉は、まごう事なき本音でした。
「わ、私で良ければ……」
断るという選択肢が浮かびませんでした。
私はテオ様の手を取って、あの時と同じように優しく私を引っ張ってくれました。
その日初めての曲が始まります。
弦楽器の柔らかで芯のある音と共に、私たちはゆったりと踊り始めました。
「……」
「……」
会話はありません。
何を考えているのか、それを知りたくなくて私から話しかけることができずにいました。
「イリス嬢……いやイリス。私を見てくれないか」
「はい……自然に笑えておりますよ」
顔をほんの少し、目が合わない程度まで上げます。
彼の口元は、口角は自然に少し上がっていました。
きっと努力をたくさんしたのでしょう。
興味本位で近づいた私の言葉を真に受けて。
愚直で……不器用で……そんなテオ様のことをいつからか……。
「イリス……伝えたいことがあるんだ、真っすぐ目を見てくれないか?」
「……はい」
私は覚悟を決めて顔を上げます。
「好きだ」
─好きだ
「あ……」
本音。
──イリスからしたら気まぐれだったのかもしれない。だけど私にとって、その時間が何よりも大切なものに変わっていった。
──この感情が何なのかと己に何度も問いかけた。そして気付いた。
──私はイリスを愛している。
テオ様は強い。
私が向き合うことを避けてきた感情と向き合って、そして答えを出したのでしょう。
なら、私もこの渦巻く感情から本音を取り出して、答えなければいけない──そう思いました。
本当はずっと気付いていた、渦を巻く事で隠していた本音を。
「私も……テオ様を愛しています。不器用だけど愚直で……何より心根が綺麗な貴方のことが」
テオ様が手の届かない大空に羽ばたいたとしても隣で並んで空を飛びたい。
この気持ちは嘘じゃない。
向き合うことを避けてきた、私の本音だ。
※ ※ ※
──『心が読める私と氷の騎士様』
イリスが晩年に書いた手記は、多くの者の心を掴み、今では誰もが知る演劇の演目となっている。
ありがとうございました。
ブラバする前に感想や↓の★★★★★から評価してくださると嬉しいです。