地上にあこがれたお姫さまと、深海へ落ちてきた王子さまの物語
太陽は今日も生き物たちを見ていました。
空を舞う鳥たちを。
果実をもぎ取る人々を。
淡い水の中で泳ぐ魚たちを。
太陽は広い世界を見つめていました。太陽はどこまでも広い世界を見つめることができました。
けれど、毎日毎日長い旅をして世界を見て回る太陽にも、決して見ることがかなわない場所がありました。
それは太陽の光が届かない、厚い水の層に阻まれた、深い深い海の底の世界でした。
太陽が海の底を見ることがかなわなければ、そこに住む生き物もまた太陽の光を知りません。それどころか風に煽られ荒れる海も、嵐に濁る海も知らず、中には、果てのない藍色の闇を息絶える瞬間まで泳ぎ続けても、仲間の姿すら知ることなく生を終えるものもいました。
浅い海にあって深い海にないものは数多くありましたが、また、藍色の闇を乱暴に打ち破るものもありません。
とても静かな海の底で、闇に溶け込んだ生き物たちは暮らしていました。
深い海の底の片隅に、その住処はありました。
住処には様々な海の生き物が集まっていました。クラゲやサメ、タコやイカといった生き物が暮らしていました。
そんな生き物たちが集まる住処の中心に、シャコガイのソファに腰かけた少女がいました。
藍色の闇に包まれたこの深海にあって、彼女は色鮮やかな姿でそこにいました。
南国の海を湛えた瞳に桜貝の唇。真珠のように艶やかな白い肌には太陽の光を宿した豊かな髪がかかり、瞳と同じ色のうろこに覆われた下半身は、波打ち際を写したように繊細に揺れる尾ひれまでが優雅なカーブを描いていました。
魚のような下半身を持つ少女は、人魚のお姫さまでした。
人魚姫は胸の前でふわふわと漂っている大きなクラゲの傘を見つめていました。そこに見えるのは、透き通ったクラゲの細い体ではありません。深海からは決して見えないはずの太陽の光が映り込んでいます。また同様に、海の底と同時に見ることはできない海上の様子も。クラゲの傘は、望んだ遠くの光景を映し出せるように海の魔女の魔法がかけられていました。
「嵐は収まったみたい」
クラゲの傘に映る穏やかな海面を見つめながら、人魚姫は言いました。
「数日続いたひどい嵐だったそうですね」
自分で自分の傘を見ることのできないクラゲが人魚姫に訊ねます。
「そうね、まだ波が少しあるけれど、浅い海の生き物たちはそのうちまた落ちつけるでしょう。でも、海の上にあった人間の船が」
「壊れましたか? 沈んだのですか?」
「そうみたいなの」
人魚姫は声を落としました。
クラゲの傘を通して世界を見ていた人魚姫は、大海原のまん中で大きく立派な船が雨に打たれ、波に煽られているのを目撃しました。それから何度も様子を確認していましたが、今見える光景に船の姿はありません。ただ、波間に漂う破片や何かの品が陽の光を反射していることが、人間が嵐に立ち向かった名残りを示しているだけでした。
「泳げばいいんじゃないの?」
人魚姫の肩の上でクラゲの傘を一緒に見ていたイカの坊やが、帽子のつばを波打たせながら言いました。
「人間は海の中では泳げないわ」
「泳げないのに海に落ちたら、人間はどうなるの?」
「死んでしまうわ」
坊やの疑問に、人魚姫が目を伏せたまま答えました。
「人間は海では生きられないの。あなたが陸に上がったら生きられないように」
「死んじゃうのに海に来るの?」
「人間にも事情があったのでしょう。かわいそうに、人間には荒れる海の中はとても苦しかったでしょうね」
人魚姫は海面が映る傘を撫でながら呟きました。
「姫さまはお優しい。人間たちが安らかに眠れるように、共に祈りましょう」
クラゲは長い手足を絡ませながら、紳士的に人魚姫を慰めます。
そこへ、タコの婦人がスカートをふくらませながら住処に入ってきました。
「姫さま。魔女さまがお帰りですよ」
「おばあさまがお帰りに?」
人魚姫は顔を上げると、優雅に尾を振りながら出入り口へと向かいました。
住処の前には、大きなサメを従えた魔女が立っていました。
「おかえりなさい、おばあさま。サメの旦那さんも」
「ただいま帰ったよ、人魚姫。いい子にしていたかい」
「はい、おばあさま」
「どうした姫さま。元気なさそうだな」
元気よく答えながらもどこかおとなしい人魚姫に、サメが気がつきました。
人魚姫は沈んた船のことを思い出し、心が沈みました。
「実は少し」
「今日は姫さまに土産があるんだ。それで元気だしな」
「お土産?」
「おまえの大好きな人間だよ」
「海の底に人間ですって?」
魔女がサメの背中を示せば、そこには人間の男が仰向けに横たわっていました。
「海上に嵐が来ていたのは知っているだろう」
「ええ、それで人間の船が壊れて」
「その船から落ちてきたようだね」
人魚姫はおそるおそる近づき、人間を観察しました。
若い人間の男は、刺繍がたっぷり縫い込まれた上等な生地でできた立派な服を着ていました。引き締まった体はだらりと力が抜け、今は固く目を閉ざしていますが、意識があれば引き締まった表情ですらりとした立ち姿を見せるだろうと想像できる顔つきでした。
クラゲを通していろいろ見ている人魚姫にはわかりました。地上での彼は大きなお屋敷で暮らし、人の上に立つような立派な人だったのだと。
人魚姫はさらに人間の体のあちらこちらを確認します。
「やっぱり尾が二股に分かれているのね。痛くないのかしら」
「これは足というものだよ。前に教えただろう。人間は生まれた時からこういう体の作りだから痛くはないさ。しかし、人魚であるおまえがもしも地上を歩くことを望み、二本足になることを望むなら、下半身は常に切り裂かれた痛みを感じることになるだろうね」
「いやだわ、おばあさま。恐ろしいことを言わないで」
「脅かしじゃないよ。本当のことさ」
想像して肩を震わせる人魚姫に、魔女は鷹揚に笑いました。
「それで、この方をどうするの?」
「言ったろう、おまえへのお土産だと。ちょいとお待ち」
魔女は皺だらけの手で、人間の顔をゆっくりと撫でました。
すると、青かった顔に血の気が戻り、彼はゆっくりと目を開けました。
意識を取り戻した男は、自分が真夜中のような藍色の空間にいることに気がつきました。周囲には様々な形の光がゆっくりと明滅していますが、光は周囲のなにも映し出しません。
「ここは?」
男は反る背に苦しさを覚えて、少々苦労しながら上半身を起こしました。
そして自分が、ひどく年老いた老婆と、長く伸ばした髪を揺らめかせた美しい少女と、醜怪な顔をした魚や他の生き物たちに囲まれていることを知りました。
「ここは海の底だよ」
自分を囲む奇妙な光景に言葉を失った男に、魔女が声をかけました。
「自分の身になにが起こったかは覚えているかい?」
言われた男は考え、この暗闇でを覚ます前のことを思い出しました。
「俺は国に戻る途中、乗っていた船が嵐に遭って」
「そう。おまえは乗っていた船が大波で沈み、海で溺れ死んだんだよ」
乗っていた船が港を目の前にして沈んだことを思い出した男は、改めて周囲を見回しました。
老婆や少女たちの向こうに見えるのは、小屋ほどの大きさのある棘の生えた巻貝。
目が覚めた時に見た光は、ふわふわと辺りを漂うクラゲの群れ。
辺りに広がる白や桃色のサンゴの林。
そして、どこまでも続く藍色の闇。
どこを切り取っても地上では見られない光景に、男は愕然としました。
「本当にここは海の底なんだな」
「起きたなら、いい加減に降りてくれるかい」
体の下から聞こえた声に、自分が座っているのがサメの背中だと気がついて、男はまたぎょっとしました。
巨体から降りようとすれば、まるで体が軽くなったようにふわりと浮き、海の底にゆっくりと二本の足がつきました。
地上ではありえない浮遊感は、確かに水の中にいるのだと感じられて、もう一度辺りを見回して、男は苦しそうに顔を覆いました。
「俺は死んでしまったのか」
「死んだおまえに、海の中でも暮らしていける命を私が与えてやったんだ。私の言うことを聞いてもらうよ」
男は自分に命令をする老婆を睨みつけました。
「俺を海の底なんかに連れてきて、なにをさせようと言うんだ」
「なに、難しいことじゃない。この姫の相手をしてやっておくれ」
男は自分をまっすぐに見つめている少女の姿を改めて見て、彼女の腰から下がうろこに覆われ、つま先が魚の尾になっていることに気がつきましたが、さすがにもう驚きませんでした。
「この姫はなんでも知りたがりでね。しかも今最大の関心ごとは地上と人間ときたものだ。私も魔法を使っていろいろ教えてやってきたが、限界がある。人間であるおまえがいろいろ教えてやっておくれ。タコや、この人間の世話も頼んだよ」
「お任せくださいませ、魔女さま」
魔女を出迎えるために外にいたタコは、巻き貝の住処へ入っていきました。魔女も住処へ入り、巨体のサメもこの場を離れていきます。
後には数匹の生き物を連れた人魚姫と、まだ少しだけこの状況に戸惑っている男が残されました。
「こんにちは、人間さん。あなたはどこの誰で、どんな人なのかしら?」
人魚姫は目を輝かせながら男に訊ねました。
男は自分はとある国の王子だと名乗りました。船が沈んだ海域より北にある国を治める聡慧王の息子であると。
男の話に、人魚姫はとても驚きました。
「地上にも国があるのね。交流がないのに国と国が接しているなんて不思議だわ」
「海の中にも国が?」
「わたしのおじいさまが海の王なの」
「海の国はこんな海の底にあるのかい?」
「いいえ。おじいさまたちは浅い海で暮らしてるわ。私はあまりに地上に行きたがっていたから、海の生き物らしくないと怒ったおじいさまから、おばあさまに預けられてしまったの。今はこうして深い海の底に繋ぎとめられていて。でも、おばあさまは優しいし、みんなもいてくれるから楽しいわ」
「いつも一緒にいてあげるからね、人魚姫」
みんながいてくれるから楽しいと言われて、人魚姫の側で泳いでいたイカの坊やは嬉しくてはしゃぎました。
しばらく人魚姫と話していた王子でしたが、段々と表情が苦しげになり、胸を押さえてしまいました。
「すまない。少しだけ待ってくれないか」
体は苦しくありません。さすが海の魔女の魔法といったところでしょうか、海の底でまったく不自由なく暮らせる体に変えられたようです。けれど、気持ちがまだ体に追いついていませんでした。
なにより、一度死んだ身であり、国と国は接しているのに二度と自国の地を踏めないという事実が、王子の胸を苦しませていました。
苦しげな王子の顔を見て、人魚姫ははっとしました。王子が本来はここにいられるような生き物ではないこと、そして王子がどうしてここにいるのかを思い出したからです。
「ごめんなさい、はしゃいでしまって。あなたはあの船で大変な目に遭ったばかりなのに」
「あなたは海上で嵐があったことを知っているのか」
こんな海の底にいるのにどうやって知ることができたのかと、王子は不思議に思います。
「クラゲの傘を通して見ていたの」
人魚姫は、魔法によって遠くの光景を見ることができることを説明しました。
王子は話を聞けば聞くほど、魔女には大変な力があり、そして人魚姫のために、深海でも不自由なく暮らせるように手を尽くしていることがわかりました。
「あの老婆はあなたの祖母なのか」
「祖母ではないわ。おばあさまはこの海で一番力のある魔女なの」
「なるほど。俺のばあやみたいなものかな。俺を育て、ずっと身の回りの面倒をみてくれていたばあやみたいな」
地上のことを思い出して、王子はまた苦渋に顔を歪めました。
そこへ、ベッドの用意ができたとタコが二人を呼びに来ました。
王子が巻貝の家へ入ると、そこには人の体よりも大きなイソギンチャクが二つ、花のように広げた触手をゆらゆらと揺らめかせていました。そのイソギンチャクが二人のベッドでした。
「とても気持ちいいのよ。どうぞ王子さまもゆっくり休んで」
絡みついて引きずり込みそうな触手に王子が腰が引けていると、人魚姫は隣のイソギンチャクに横になりました。
無数の触手に包まれて、人魚姫はとても気持ちよさそうに目をつぶります。
「僕も一緒に寝るよ」
ずっと人魚姫の側にいたイカの坊やも、人魚姫の顔の近くに入ります。
それを見て、王子も覚悟を決めました。
「俺はもう死んでいるんだ。なにが起こってもかまいやしないか」
思い切ってイソギンチャクに横になると、触手は見た目以上に柔らかく、優しく王子の体を受け止めました。
イソギンチャクのベッドに問題がないことはわかりました。けれど、人間でなくなった身で寝られるのだろうかと悩んだ王子でしたが、辺りをただようクラゲたちを眺めているうちに、眠りに就いていました。
イソギンチャクのベッドの上で目を覚ました王子さまは、時間もわからない闇の中で、今の境遇をこう考えることにしました。乗っていた船が嵐に遭って海に落ちたものの、浜に流れ着いて命は助かりました。けれど、そこは国の海図に載っていない場所で、決して助けは来ないのだと。
国にいた頃に読んだ本には、長い航海に出た船が、植物も建物もまったく見たことがない、現地人と言葉も通じないような遠くの地で、昔遭難した自国の人間を見つけて連れて帰ってきたという話もありましたが、ここには人間が乗る船は決して立ち寄ることはありません。
王子はこの海の底で暮らしていく覚悟を決めました。
「おはよう、王子さま。お加減はいかが?」
目を覚ました王子に気がついて、人魚姫が泳いできました。
王子はイソギンチャクから下りると、うやうやしくお辞儀をしました。
「おかげでよくなったよ。さあ、お姫さま。あなたの話相手を務めよう。俺はそのためにここに招かれたのだからね」
人魚姫は王子が元気になったことに喜び、シャコ貝のソファに腰掛けた王子の前にクラゲを連れてきました。
クラゲは人魚姫が望む光景を次々に映し出します。
畑で働く農民や、
川で布をさらす女性や、
分銅と銀塊を秤にかける商人。
馬に乗り大地を駆ける騎士に、
獲物を捕まえた大きな鳥を腕に受け止める狩人。
あるいは、膝に猫を乗せて玄関先で居眠りをする老婆の様子を。
人間の暮らしを映し出しては、人魚姫はこれはなにをしているのか、どんな意味があるのかなど、次々に王子に訊ねました。
初め王子は、海の底で本当に地上の様子を見られることに驚きましたが、やがて慣れてきました。そして、疑問の尽きない人魚姫に根気よく答え続けました。
答えても答えても止まらない人魚姫の質問に、彼女が本当に人間に興味を抱いていることが王子にはわかりました。
今まで溜まっていた疑問が一段落ついた人魚姫は、新しく気になることができました。
「地上の王子さまの住処も見てみたいわ」
「俺の住処を?」
人魚姫のお願いに王子は戸惑いました。死んだ身で地上の様子を知ってもいいのだろうかと考えました。
「わかった。姫にご覧に入れよう」
悩んだ末に、王子は人魚姫のためにクラゲの傘に触れました。
傘に映し出されたのは、広い室内に人々が集まっている様子でした。
もっとも立派な服を着た人物を中心にしてなにか話し合っていますが、声は聞こえません。クラゲの傘は遠くの光景を映し出すだけで、音やにおいは伝えてきませんでした。
「この方、王子さまに似ているわね」
人魚姫は中心に座る男を見てそう感じました。しかし、王子はなにも答えません。
王子は食い入るように見入っていました。
中心の男は、眉間に皺を寄せて難しい表情を浮かべています。王子がいくら耳を寄せても、男の声が聞こえることはありませんでした。
人魚姫が次になにか言う前に、傘に映る光景が変わりました。そしてまた光景が変わります。
次々に変わる光景を前にして、人魚姫には王子が見ている光景がどんな状況かまったくわかりませんし、王子の厳しい顔を前にして、疑問を投げかけることもできませんでした。
そしてクラゲは、愉快そうに語り合う男たちを映し出しました。男たちの服の質は王子や王子に似た男には劣りますが、きらびやかな宝飾品を過剰に身につけていました。
その様子を見つめる王子の表情があまりにも恐く、人魚姫は心配になりました。
「王子さま。いったいなにが起こっっているの」
人魚姫が何度も呼びかけて、ようやく王子は我に返りました。
クラゲの傘はもう地上を映してはいませんでしたが、王子の顔は強張ったままでした。
人魚姫は、王子に見せてはいけないものを見せてしまったことを悟りました。
「具合が悪そう。横になった方がいいわ」
「大丈夫だ。それより人魚姫、あなたの次の望みを」
王子はそう言いますが、とても大丈夫そうではありません。
人魚姫は王子の手を引きました。
「出かけましょう。今度は私が海の底のことを王子さまに教えてあげる」
巻き貝の住処を出ると、人魚姫はサメを呼び出しました。
「姫さまが俺に乗って移動したいとはなあ。立派な尾っぽをお持ちなのに」
サメは背中に人魚姫と王子を乗せて泳ぎながら、面白そうに言いました。
いつも魔女を乗せて泳ぎ回っているサメですが、人魚姫を乗せるのは初めてです。大事な姫に頼られて、まんざらでもありませんでした。
「人間は馬という生き物に乗って大地を素早く移動するんですって。それを真似してみたくなったの」
「なるほど、人間の真似か。で、どうだい姫さま。俺の乗り心地は」
「少し揺れるけど、それが楽しいわ」
「楽しすぎて自分で泳ぎたくなくなっても知らないぜ。王子さまはどうだい?」
「悪くないんじゃないか」
サメの背中はとても広く、ゆったり座ることができ、馬の背よりも心地よいぐらいでした。
「王子さまはなかなか肝が座っているなあ。この海じゃ、俺がサメだっていうだけでビビる奴ばっかりだ。そのツラでこっちのことばかりよくぞまあ言えるなって奴ばかりのくせによ」
「王子さまは人間だからやっぱり泳げないの?」
人魚姫の肩の上で、イカの坊やが訊きました。
「そのようだね。海の底で生きる身となったのに、あなたたちのように浮くことができないな」
巻き貝の住処から出た時にいろいろ試してみましたが、王子の体は跳んでも水をかいても浮きませんでした。少し体が軽いと感じますがそれだけで、移動には自分の足で歩くしかなく、地上にいた頃とはあまり変わらない状態でした。そのため、サメの背に乗る時は人魚姫に腕を引っ張ってもらわなければならず、きまりが悪い思いもしました。
「そうすると、俺が今王子さまを振り落としたら、そのまま置いていっちまうことになるわけだな」
「そんなひどいことしないで」
「おお、おお。姫さま、すまんかったよ。本当にやりゃしないって」
「当たり前じゃない」
いじわるな冗談に人魚姫が怒っても、サメはこんなやり取りが楽しくて仕方なく、笑いをこらえられませんでした。
深くて広い海の底では多くの生き物たちはまばらに暮らしていますが、よく集まっている場所もあります。人魚姫が王子を案内しようとしているのは、そんな場所の一つでした。
「あそこよ」
人魚姫が示す方を見て、王子は驚きました。
そこには、王子が乗っていた船ほどの大きさがある骨が横たわっていました。
小舟を丸呑みしそうなほど大きな顎に、細長い胴体。地上では見ないような巨大な生き物に、王子は驚きを隠せません。
「あの骨はいったい?」
「クジラよ」
王子はさらに驚きました。王子にとってクジラとはランプの燃料であり、その姿はランプに注入されたオイルでしか見たことがありません。海図に書き込まれた化け物の絵は見たことがありますが、実際にこれほど大きい生き物だとは想像していませんでした。
骨となったクジラには、小くてヒレのない生き物が群がっています。
ここは終焉を迎えるクジラがたどり着き、眠りに就く場所であり、生き物たちはその亡骸で命を育み、子孫へと繋ぎます。クジラは死してなお生き物を育てているのです。
「人魚姫だ」
「姫さまだ」
ざわざわと声が起こりました。
骨に群がっていた生き物たちはぞろぞろと地へ降り、人魚姫を見上げました。
「姫さまの歌が聞きたいな」
「人魚姫、歌って」
「歌って」
生き物たちの声がさざ波のように響き渡ります。
「姫が歌うのかい?」
「海の上に遊びに行っていた頃、人間の歌を覚えたの。王子さまもどうぞ聴いてね」
人魚姫はサメの背から下りると、生き物たちの頭上を越えて行きました。
「人魚姫の歌はかっこいいんだよ」
王子の肩に移った坊やが自慢げに言います。
「それは楽しみだね」
王子が言えば、坊やも楽しみだと、帽子のつばを激しく波立たせました。
人形姫はクジラの骨を背にして振り返り、周囲を囲む生き物たちを見回し、最後に王子と目が合うと笑みを浮かべ、歌い始めました。
それは船乗りの歌でした。
王子にはその歌に聞き覚えがありました。王子が乗っていた船でも、船乗りが甲板で肩を組みながら歌っていたのです。
姫の声は澄み切って美しく、けれど力強く高らかに、船乗りの荒々しさ、たくましさを歌い上げます。目を閉じて聴いていると、まるで女船長に鼓舞される船乗りになったような気分です。そして瞼を上げれば、目に映る光景はまるで、ドラゴンを倒した古の英雄が喝采を浴びているようでもありました。
歌い終えた人魚姫は王子の側へ戻ってくると、期待に目を輝かせながら訊ねました。
「私の歌はどうだった?」
「素晴らしかったよ。劇場で大勢の観客の賞賛を受けるにふさわしい歌声だ」
王子に絶賛されて、人魚姫は顔を綻ばせます。
「ぼくたちが人魚姫の一番のカンキャクだよ」
人魚姫の肩に戻った坊やも嬉しくて、手足をくねらせながら踊っていました。
再びサメの背に乗った人魚姫たちが戻ると、タコの婦人が慌てた様子で泳いで来ました。
「姫さま。姉姫さまたちがおいでです」
人魚姫が巻貝の住処に入ると、三人の人魚がシャコガイに腰かけていました。
「お久しぶりね、お姉さま方。お元気そうでなによりだわ」
「私たちはあなたが上にいなくて寂しいわよ」
「本当に。こうして姉妹そろって顔を合わせるのは三年ぶりね」
「お姉さま方は今日はどうなさったの?」
「おじいさまのお許しをいただいて、あなたに会いに来たのよ」
姉妹が楽しそうに言葉を交わし合います。
姫たちの邪魔をしてはいけないと、イカの坊やは王子を外へと誘いました。
しばらく姉妹水入らずの時間を過ごして、やがて姉たちが帰る時になりましたが、姉たちを見送る人魚姫は笑顔でいるのに対して、姉たちは一様に困惑した表情を浮かべていました。
浮上しながらも、妹のいる海の底を名残惜しく見下ろしていた姉たちは、巻き貝を取り巻くサンゴの森に王子の姿を見つけました。
魔女の住処に人魚姫以外の人魚がいるとは聞いていません。気になって戻る途中、姉たちはそれが人魚ではないことに気がつきました。
海の底へ戻った姉たちは王子を取り囲むと、次々に疑問を投げかけました。
「あなたは誰? なんという生き物なの?」
「顔は私たちにそっくり。でも尾が深く裂けていて、ヒレがないわ。まさか人間なの?」
「人間のはずがないわ。でも、人間にしか見えないわ」
突然現れた人魚たちに王子は驚きましたが、そつなくあいさつしました。
「ご機嫌よう、美しい人魚の姫君たちよ。妹君との時間は楽しく過ごせたかな?」
けれど、姉たちは王子の言葉も耳に入らずに周囲を泳ぎ回ります。
「なぜ人間がこんな所にいるの? 人間は海では生きられないのよ」
「人間でないなら、この生き物はなに?」
「どう考えてもこれは人間だわ。でもありえないことよ」
興奮して泳ぎ回る人魚たち囲まれて、イカの坊やは怯えて王子の肩に張り付きます。
そこへ、騒ぎに気がついた人魚姫がやって来ました。
「この方は人間の王子さまよ」
王子と姉たちの間に入ると、人魚姫は事情を話しました。彼は確かに人間であり、人間の国の王子であること。乗っていた船が嵐で沈み、海に落ちたところを魔女が連れてきたこと。海の底で暮らしていても地上のことが知りたくて堪らない人魚姫に、様々なことを教えてくれることなどを語りました。
けれど、話を聞いた姉たちはますます興奮しました。
末の妹が寂しい思いをしてはいないかと心配して暗い海の底まで訪ねて来てみれば、妹は楽しそうにこれまでのことを話し、帰りたいとはひと言も言わなかったのです。おかしいと思っていたところへ打ち明けられた話に、姉たちの疑いは深まりました。
「おかしいと思ったのよ。あなたがまったく帰って来ようとしないなんて。あなたは魔女に騙されているわ」
「あなたをこんな場所に繋ぎ留めておくために、魔女があの手この手で誘惑しているのね」
「溺れたのなら、その人間はもう死んでいるのではなくて? なんて穢らわしい」
口々に魔女を非難しながら、王子へ侮蔑の視線を投げつけます。
「やっぱり、こんな暗くて寂しい場所にいてはいけないわ。地上や人間への憧れなど捨てて戻っていらっしゃい」
姉たちは人魚姫の手を取りながら、戻ってくるように言い始めました。
「おばあさまも王子さまも、私によくしてくださっているのよ」
人魚姫が訴える言葉は、姉たちの心にはまるで届きません。
「私たちからおじいさまになんとしてもお願いするから、あなたも明るく澄み渡った海へ帰りましょう」
姉たちは必ず人魚姫を助けるからと言って、今度こそ海の底を後にしていきました。
藍色の闇の向こうに姉たちの姿が見えなくなってから、人魚姫は申し訳なさそうに王子を振り返りました。
「騒がしくしてごめんなさい。きっとお姉様たちは人間が珍しかったの。お姉さまたちは私と違って地上に興味を持たなかったのだけど、今も変わらないのかもしれないわ」
「いや。俺がここにいるのがおかしいことは事実だから仕方がない」
謝る人魚姫に、王子は首を振りました。
姉たちが言っていた、王子はもう死んでいるという言葉はまぎれもない事実です。それなのにこうして海の底で、海の生き物にもなれずに生き物と交わっています。物言わずに朽ちていくクジラの骨を見た時に、王子は今の自分が不自然な存在だとは感じていました。
そして、姉たちの話をきっかけに、王子は人魚姫の境遇を知りたいと思うようになっていました。
次の日、巻貝の住処は激しい渦に取り囲まれていました。姉たちの話を聞いた海の王の仕業であることは間違いありませんでした。
巻き貝の中ではクラゲが不安そう揺れ、タコの婦人は震えるイカの坊やをなだめていました。魔女の力に守られているサンゴの森には、辺りにいた生き物が逃げ込み、ごった返していました。
魔女は出かけていました。海の王に会うためです。
「ちょっと王の所に行って来るよ。あんたたちは外に出たりしないで、決しておとなしくしてるんだよ。姫はこんなことをやらかした王の話を聞くまでは、余計なことは考えなくていい。わかったね?」
出かける前の魔女は、青ざめた顔ですがりつく人魚姫にそう言っていました。
しかし、ただ待つしかできない時間をなにも考えずに過ごしているなんて無理です。生き物たちに囲まれながら、人魚姫は落ち込んでいました。
「憧れることはそんなにいけないことなの? 私は見ているだけで楽しかった。見ているだけで幸せだったのに」
人魚姫は両手で顔を覆ってしまいました。
「あなたが考えるのは、魔女が言っていた通り、王の判断がわかってからでも遅くないだろう。今は魔女の帰りを待つんだ」
王子は落ち込んでいる人魚姫をなぐさめて、二人は様々な話をしました。
「あなたがここで暮らすようになってから、すでに三年も経っていたのだね。そんなに長く離れているのなら、姉君たちがあれほど心配していたのも無理ないだろう。しかもあなたが幼い頃からなら、なおさらだ」
「三年前には私はもう子供じゃなかったわ。人魚の寿命は数百年あるの。人魚の一生の中では、三年はほんの短い時間よ」
驚いた王子は人魚姫の顔を改めて見つめましたが、そのあふれ出る若さの印象が変わることはありませんでした。
しかし、と王子は考えました。それほど人魚の命が長いのなら、一刻も早く王に許しを願い、姉たちもいる浅い海へ戻るべきではないかと。このままでは、地上をはるかに思いながら、長い時をここで過ごすことになってしまうと。
けれど、人魚姫は首を振るばかりでした。
「私がおじいさまに許されるには、地上への憧れを捨て、海の上へ出ることも、地上の話をすることも、二度としてはいけないと言われているの。無理よ、そんなこと。とても堪えられないわ」
「ここにいても、海の上へ出られないことには変わらないだろう」
「おばあさまの魔法が地上を見せてくれるわ。直接ではなくても、知ることはできるの。ここでなら、好きなだけ地上を思うことができるのよ」
初めて海の上へ出た日のことを、人魚姫は今でも鮮明に思い出すことができます。
地上のことは、海の生き物も知っておかなければならないこととして、幼い頃からの繰り返し聞かされていました、けれどその頃の人魚姫はいくら聞かされても、見たことのない世界の話を理解することができませんでした。
やがて人魚姫も成長し、自分の目で地上を確かめに行く日がやって来ました。
人魚姫はかなたに見える白い輝きに向かって泳ぎ続けました。それは海の中からもよく見えて、幼い頃から気になっていたものでした。
海面が近づくにつれて水は段々と温かくなり、色は薄まっていきます。白い輝きはどんどん大きく、強くなっていきます。
そして揺らめく海面から顔を出した瞬間、目に激しい痛みを覚え、とても開けていられなくなりました。人魚姫は思わず海の中へ逃げ込み、見知らぬ世界への恐怖に震えました。
けれど、このまま帰るわけにはいきませんでした。
痛みが引いた頃、もう一度おそるおそる顔を出して、人魚姫ははるか遠くまで広がる空を初めてその目に映したのでした。
水から出している顔や肩にじりじりとした痛みを感じましたが、不思議とつらくはありませんでした。
人魚姫が顔を出したのは大海原の真ん中であり、いろいろと聞かされてきた地上の生き物の姿はまったく見当たりませんでした。なにかないかしらと辺りを見回して、今まで気になっていた輝きの正体を確かめようとして、それが話に聞いていた空に浮かぶ火の玉であり、目を突き刺してきたものだと気がつきました。
輝きを見ようとすれば目が痛い。けれどよく見てみたい。葛藤していた人魚姫のはるか頭の上を、水もないのに生き物が滑るように泳いでいきました。
惹かれるように人魚姫は鳥を追いかけ、やがて陸地へ近づき、多くのものを目にすることになりました。
見たことのない色。
見たことのない生き物。
見たことのない植物。
嗅いだことのないにおい。
聞いたことのない音。
初めてづくしの世界は眩しくて、熱くて、めまぐるしいものでした。刺激の多さにめまいすら覚えても、人魚姫はもっと近づいてもっと見ようとしました。
なにより、自分たち人魚と姿が似ているけれど、異なる生き物である人間たち。彼らが海の中とまったく違う世界でどんな風に生きているのか、知りたくて知りたくて堪らなくなりました。
人魚姫はそれから何度も海の上を見にいきました。
大海原ではこっそりと船を追いかけ、人間の歌を覚えました。
海へ突き出た崖下の岩に座っては、近くの教会の鐘の音に耳を傾けました。
港で並ぶ小船の影からいつも見かけた子供たちは、あっという間に人魚姫よりも大きくなると、その姿を見かけることはなくなりました。
いつもいつも、めまぐるしく起こる地上の出来事を楽しんでいました。
地上への憧れを捨てるということは、太陽の白い輝きも、鮮やかな思い出も、胸を震わせる感動も、すべて忘れ去らなければならないということです。
そんなことはとてもできないと、人魚姫はただただ首を振るばかりでした。
魔女を乗せたサメの大きな姿が見えた時、ずっと外で待っていた人魚姫はいてもたってもいられなくなり、泳ぎ出しました。
「おばあさま。おじいさまはなんておっしゃってたの?」
「その話はひとまず下まで降りて、落ち着いてからにしようかね」
魔女は焦る人魚姫を宥めながら、巻き貝の住処の前まで降りてきました。
辺りにはまだ留まっている生き物も多くいましたが、水の流れは穏やかな状態に戻っていて、魔女はほっとしました。
人魚姫をソファへ座らせて魔女が語ったことは、だいたい人魚姫や王子が予想していた通りでした。
「おまえのことを許すから、地上のことも人間のことも諦めて、今後一切口に出すこともないようにあたしに説得しろだとさ」
話は予想どおりでしたが、実際に聞くと、人魚姫は胸が苦しくなって俯いてしまいました。
「まったく、注文ばっかりの王さまだよ。おしゃべりなお姫さまを一方的に寄越し、海の底に拘束しておけと勝手を言っておいて、今度は帰せと来たもんだ」
呆れて頭を振る魔女に、王子は人魚姫を隣で支えながら訊ねました。
「海の王は俺のことはなんと?」
「なにも。もしかしたら聞かなかったか、かわいい孫のこと以外はどうでもいいのかもしれないね」
「あの渦に関しては?」
「そっちもはっきり言わなかったけど、言うことを聞かないと、この辺りを荒らすという脅しだろうね。まったく、かわいい孫のこととなると見境がなくなっちまうんだから」
話を聞けば聞くほど、人魚姫の顔は悲痛に歪み、握る手は震えていました。
地上を諦めることも考える人魚姫に、魔女はそんなことをしなくいいと告げました。魔女は人魚姫がどれだけ地上のことを思っているか、この三年間でよく知っています。説得でどうにかなるような思いではないことを、身近でずっと見てきたのです。
「ずっと放っておいたくせに、他の孫から話を聞いた途端にやらかしたことが脅しだなんて、あたしも舐められたもんだよ。深海はあたしの領域だ。あのじいさんがいくらこの海の王だと言っても、あたしの領域で好きにさせないよ」
「魔女さまに任せておきな、姫さま。きっといいようにしてくださるだろうからよ」
巻き貝の口からサメが顔だけ覗かせて、人魚姫を励まします。それを聞いて、魔女は眉をひそめました。
「おだてたって、あんたにはなにもしてやらないよ」
「いやあ、魔女さまは大したもんだからな」
「ああもう、あんたはあっちへ行っておしまい。図体がでかいのがいつまでもいたら、窮屈で仕方がないよ」
「姫さまは乗り心地がいいと言ってくれたんだがなあ」
魔女に押された顔をしかめつつ、サメはどこか楽しそうにしながら、巻き貝から離れていきました。
サメは海の王に対する魔女の怒りを側で見ていたので、なにかあっても魔女が必ず人魚姫を守ることはわかっていました。
人魚姫はここにい続ける場合のことを考えていました。
海の王の怒りが続けば、また渦が起こることがあるでしょう。もしくは違う現象で浮いの底が荒れるかもしれません。それが明日か、また三年後になるかわかりませんが、そのたびに海の底に住む生き物を脅かすことになります。魔女にも力はありますが、渦を消したりできないことは、渦はそのままに海の王へ向かったことからわかっています。自分が長く留まるほど、自分を慰め、楽しませてくれた生き物たちを苦しませることになってしまいます。
自分がどうするべきか、一つの答えにしか辿り着かず、人魚姫は絶望から顔を覆ってしまいました。
「とにかく、あたしはこんなきっかけでおまえを帰すのは反対だよ。地上にどれだけ憧れていようと、おまえが人魚であることには変わらないんだ。じいさんの方こそよく考えろと言っておいたよ、本気で孫に帰ってきて欲しいなら、王自ら説得しに来いとね」
そうして魔女はサメを呼び戻すと、本当にサメ使いが荒いと笑うその背に乱暴に座り、辺りの様子を確認しに行きました。
「今日はもう眠ろう、人魚姫。眠れば少しは楽になる。俺がここに来たばかりの時もそうだった」
王子は憔悴しきった人魚姫の肩を抱いて、ベッドまで連れていきました。
考えても考えても頭の中がまとまらず、人魚姫はなかなか寝付くことができませんでした。
一晩眠っても、人魚姫の心は晴れませんでした。
「姫。今日はなにをして過ごそうか」
ぼんやりとしているところへ王子が声をかけてきましたが、人魚姫は首を横に振りました。
「今はなにもする気が起きないわ」
「もしかして、俺はもうお役ご免だろうか?」
言われたことに驚いて人魚姫が顔を上げると、王子は優しく笑っていました。
王子が本気でそんなことを思ったわけではなく、人魚姫の気を引きたかっただけだとわかり、人魚姫は泣きそうな顔で笑いました。
「いじわるね」
「すまない」
謝りつつも、王子はやっぱり楽しそうです。
「罰として、このまま少し側にいて」
「少しと言わず、いくらでも」
「人魚姫、僕も一緒にいてあげるよ」
人魚姫が王子と言葉を交わしたのを見て、ずっと遠巻きに泳いでいたイカの坊やも近づいてきました。
「ありがとう」
小さな体を両手で抱きとめて、人魚姫は久しぶりに心からの笑みをこぼしました。
それからの人魚姫は、いつまた渦が起こるかと恐れ、一人で暗い海を見上げることが増えました。
そんな時はイカの坊やも人魚姫の側にはいられず、王子と一緒に悲しそうな背中を見つめていました。
ある日、いつものように海を見上げていた人魚姫のところへ、イカの坊やが慌てた様子で泳いできました。
「人魚姫、大変だよ。王子さまがなんだか苦しそうなんだ」
それを聞いて人魚姫も慌てました。王子は一度死んでいる身です。魔女によって魔法をかけられていますが、そのことでなにかあったのかと思いました。
人魚姫は王子の所へ向かいながら、坊やに話を聞きました。
坊やは人魚姫になにか楽しい話を用意したくて、王子を誘ってクラゲを通して地上を見ていました。どこのなにを見るかは王子に任せていたのですが、いろいろ見ているうちに王子がなにかに驚き、なにも言わなくなってしまったのです。
人魚姫は、以前にも王子の様子がおかしくなったことを思い出しました。
あの時、王子はなにを見ていたのでしょうか。
巻き貝の住処の中では、王子が今にも倒れそう顔をして立っていました。側にはクラゲやタコの婦人もいて、王子に声をかけていましたが、彼らの声も耳に届かないようでした。
「しっかりして、王子さま」
人魚姫が何度も肩を揺さぶって、王子はようやく気がつきました。
「なにがあったの?」
「戦争が起こる」
人魚姫の顔を見つめながら、王子は呆然とした顔で言いました。
王子の国では、隣国が戦争を仕掛けてくるという噂がしばらく前から流れていました。海を挟んだ隣国とは長らく同盟関係にあるため、なにかの間違いだろうと確認するために、王子は特使として送られたのです。そして、辿り着いた隣国では反対に、王子の国が攻め込もうとしているという噂が立っていることを知りました。
どちらの噂も事実無根であり、両国の関係は確かなものだと確認しての帰路で、王子の乗った船は沈んだのでした。
「俺が返書を持ち帰れなかったばかりに」
王子が坊やと一緒に見たのは、港に停泊した船に大砲や弾が積み込まれる光景でした。
各地を見ても、王子の国でも隣国でもみな一様に厳しい表情で、戦争への気運は高まり、もはや避けられないという雰囲気でした。
「大臣が謀っているという噂もあったんだ。以前に見たあの商人、大臣と会っていたあの男がきっと知っている。引き出しの中に入れていたあの印章が謀反の証拠になる。なのに」
王子は頭を抱えてしまいました。
人魚姫には王子がなんの話をしているのかまったくわかりませんでした。ただ、地上で大変なことが起こるということだけはわかりました。
「わかっているのに止められない。わかっているのに伝えられない。この声が届けば、止められるかもしれないのに」
王子はふらつきながら巻き貝から出ると、地上を仰ぎ見ようとしました。けれど目に映るのは、どこまでも暗い藍色の海でした。
この海から抜け出そうとどれだけもがいても、王子の体が浮かびあがることはありませんでした。
立ち尽くす王子に人魚姫が近づくと、声をかけるよりも先に王子が振り返りました。
「とっくにわかっていたことなんだ。一度死んだ俺はもう、地上とは関係ない。これから先は海の生き物として、この身が朽ちるまであなたに尽くそう。そのために俺はここにいるのだから」
声は力強いものでしたが、表情を見れば王子が無理をしていることはわかりました。
人魚姫には王子にどんな言葉をかければいいのかわかりませんでした。ただ、力なく巻き貝の住処へ戻っていく後ろ姿を見つめながら、考えていたことはありました。
その晩、王子が眠った後に、人魚姫は魔女の所へ向かいました。
「おやおや。いい子がこんな時間にうろついているもんじゃないよ」
魔女は軽口を叩きましたが、真剣な人魚姫の表情は動きませんでした。
「王子さまを地上へ帰してあげることはできないかしら」
魔女は驚きました。
これまでに人魚姫が魔女へ求めたことと言えば、この深い海にいても地上と触れられるなんらかの方法だけでした。それが、人間のためとはいえ、とんでもない願いを言い出したものです。
「王子さまはきっと地上にいなければならない人なの。だから帰してあげないと」
人魚姫は、海を見上げた王子の後ろ姿を思い出しながら、何度も何度も考えていました。
行きたくても行けない地上の世界。なぜ行くことができないのか。
人魚姫は人魚であるから。
王子は死者であるから。
二人とも、地上を求めるには無理のある体です。
だからこそ人魚姫は、王子のために自分がなにかできないかと考えました。
「あの王子はすでに死んでいるんだよ。ふらっと帰っていい身分じゃないんだ」
「それでも、おばあさまならなにかできるのではないの? サメの旦那さんも前に言っていたわ」
「おだてたってなにも出やしないよ」
「でも、できないとは言わないのね」
わざと答えを避けていたことを指摘され、魔女は黙ってしまいました。
人魚姫は魔女の所へ来てから、一度も笑っていませんでした。それだけ真剣に相談をしにきたのだとわかった魔女は、人魚姫に訊ねました。
「おまえはずっと、地上への憧れを捨てられずにいた。王子を地上へ帰したいという願いは、地上への憧れを捨ててでも望むことかい?」
「それで王子さまを地上へ帰すことができるのなら、喜んで捨てるわ」
人魚姫の答えを聞いて、魔女はまた黙ってしまいました。魔女自身が心を落ち着かせなければ、人魚姫の覚悟と向き合って立っていることもできなくなりそうでした。
やがて魔女は、人魚姫に向かって手を差し出しました。
「人魚姫。おまえのうろこを一つおくれ。とびっきり大きくてきれいに光るうろこをね」
人魚姫はすぐに自分の体を見回すと、一番大きくてきれいに光るうろこを剥がしました。一瞬、ちくりとした痛みが走りましたが、これで王子を帰せるかもしれないという興奮が優っていました。
魔女は受け取ったうろこを魔法で加工し、一つの道具に仕上げました。そして、それを人魚姫へ差し出しました。
「おまえになにを犠牲にしても王子を帰したいという覚悟があるなら、これを手に取るといい」
人魚姫に迷いはありませんでした。わずかに震えている手からすぐに受け取り、その瞬間、人魚姫には道具の使い道がわかりました。
魔女は空になった手を力なく下ろしました。
「使い方ももうわかっているようだね」
「ええ、ええ。おばあさま」
うろこを胸に抱いた人魚姫の顔は輝いていました。これで王子を地上へ帰すことができる。ただただ、その喜びで胸がいっぱいになっていました。
「ありがとう、おばあさま。いつもわがままばかりでごめんなさい」
「なにを言うんだい、この子は。全部、あのじいさんのせいだろう」
「私、おばあさまの所へ来られてよかったわ」
「こんな暗い場所のなにかいいんだか」
「おばあさまがいたわ。みんなもいてくれたわ。深い海にも、浅い海にはない楽しいことがいっぱいあったわ。私、すごく楽しかった」
「いいからもうお帰り。子供がいつまでも起きているんじゃないよ」
魔女は人魚姫のおしゃべりを無理やり止めると、まだしゃべり足りないという様子を無視して追い出しました。
うろこを抱えて手を振る人魚姫の姿が見えなくなると、魔女は力なく肩を落としました。
そこへ、サメが近づいてきました。
「さっき、姫さまの姿を見かけたんだが、こんな時間にどうしたんだい」
「さあね」
素っ気ない魔女に元気がないことは、サメはすぐにわかりました。それは人魚姫が原因であることも想像がつきましたが、なにがあったのかは想像がつきませんでした。
サメは魔女が落ち込んでいるのを見るのは初めてでした。気になってそのまま魔女の様子を眺めていると、魔女はふわりと飛び上がり、サメの背中に乗ってきました。
「今夜は眠れそうにないから、適当に泳ぎ回っておくれ」
「見回りかい?」
「そんな気分じゃないよ」
魔女の声にも元気がありません。
サメは魔女が人魚姫となにがあったのか気になりましたが、この晩はただ、魔女の求めるままに泳ぎ続けました。
黙って運ばれるままでいた魔女でしたが、途中で少しだけ、サメと話をしました。
「人魚姫は本当に素直でまっすぐな子だねえ」
「それは自慢かい。魔女さまがこの三年間、面倒みているんだもんなあ」
「そんなんじゃないよ。ただ、あの子があんまり素直で可愛いから、どんな願いも叶えてやりたくなってしまうんだよ。どんな願いでもね」
「わかるなあ。前に頼まれて背中に乗せた時は、俺も楽しかったもんな」
サメは笑いながら答えましたが、魔女はそれっきり黙ってしまいました。
人魚姫は巻き貝の住処へ戻ると、興奮したままベッドに横になりました。
ベッドの中で眠っていたイカの坊やが、イソギンチャクのゆらめきで目を覚ましました。
「人魚姫、どこか行ってたの?」
「おばあさまの所へ行っていたの」
「こんな時間に?」
「少しでも早くしたいことがあったのよ」
人魚姫たちは、隣の王子を起こさないように小声で話していました。
坊やは人魚姫の声が弾み、その顔がとても楽しそうなことに気がつきました。
「なんだか嬉しそうだね、人魚姫」
「王子さまに素敵な贈り物ができるかもしれないの。それが楽しみで」
「それはいいかもね。王子さまもなんだか大変みたいだから」
坊やは嬉しくなって手を叩きました。
人魚姫はその音で王子が目を覚まさないように坊やに軽く触れ、そのまま頭を撫でました。
「あなたもいつも一緒にいてくれてありがとう」
「どうしたの? 僕たち、これからもずっと一緒だよ」
「ええ、ありがとう」
人魚姫は幸せな気分のまま、ずっと坊やを撫でていました。
次の日、目が覚めた王子は、やはり地上のことが諦めきれず、暗い海を見上げていました。
その後ろへ、人魚姫は静かに近づいていきました。
「王子さま。地上へ帰りたい?」
唐突な質問に、王子は戸惑いました。
「戻ると言っても、俺はもう死んでいるのだから無理だよ」
「死んでいるとかは関係ないわ。帰れるのなら帰りたい? それだけが聞きたいの」
王子は悩みましたが、人魚姫のためにここにいる限り、人魚姫の望むことは答えると決めていました。だから、はっきりと口に出すのはつらいことでしたが、答えました。
「そうだね。帰れるものなら」
「わかったわ」
王子の返事を聞き、人魚姫は後ろ手に隠していたナイフを王子へ見せました。
人魚姫のうろこでできたナイフは、王子が見たことのあるどんな武器よりも鋭く、美しく輝いていました。
息を呑んだ王子の眼の前で、姫は握ったナイフを逆手に持ち直すと、自分のの胸に突き刺しました。
「いったいなにを」
驚いた王子は人魚姫に駆け寄り、傷の具合を確認しようとして、傷口から泡が漏れているのを見ました。
よく見ると、傷からだけでなく、体のあちらこちらから小さな泡が吹き出していました。
「私の命をあげる」
人魚姫は胸の痛みに顔を歪めつつ、王子へ向かって微笑みました。
「おばあさまの魔法だけでは、一度死んだあなたを地上へ帰すことは無理だったの。私の、人魚の長い命を魔法に変えて、あなたを地上へ帰すわ」
「俺は死んだ身だ。あなたこそ、王のお許しを得て帰るべきだ」
「浅い海へ戻ることは許されても、もう海の上へ出ることはできないのよ。地上をこの目で知り、あなたのお話を聞いた今、この先数百年をなにもなかったふりをして生きていくなんて、もうできないわ」
「だからと言って、俺のために姫の命を犠牲にするなんて」
王子は人魚姫の肩を掴もうと手を伸ばしました。
すると、触れた箇所から腕がぼろりともげました。
握る力がなくなった手からナイフがこぼれ落ち、先が失われた肩から勢いよく泡が溢れます。もげた腕やナイフからも泡が吹き出ていました。
もはや後戻りはできないことを悟り、王子は顔を歪ませました。
「姫に地上の話を聞かせるべきではなかったか」
「私はとても感謝してるの」
腕を失っても、人魚姫は王子の顔を見つめて語り続けます。
「あなたがいろいろとお話を聞かせてくれたことも、おばあさまが地上の様子を見せてくれて、あなたを連れてきてくれたことも。知らなかった頃には戻れないのよ。あなたもそうでしょう? 残してきた人たちのことが気になって、あなたは今の地上の様子を知ってしまった。もう、知らなかった頃には戻れないし、知らないふりもできないでしょう?」
話している間にも、姫の体から吹き出る泡の勢いは増していきます。腕ばかりでなく、全身の輪郭も崩れ始めていました。
人魚姫に残された時間が残り少ないのを見て、王子は決断しました。
「そうだ、俺はすでに死んだ人間であるのに、地上の様子を知ってしまったばかりに、残してきた国をどうにかできないものかと悩んでしまう」
「私がその願いを叶えてあげる。私の憧れる地上を、人間の国を、あなたの手でより素晴らしいものにして」
「必ず。しかし、その世界を姫に見せることができない」
「ええ、だから、私の気持ちだけでも、地上へ連れていって」
そう言って人魚姫が目を閉じると、白い体が一際大きく崩れました。
思わず抱きとめようと王子が一歩踏み出した時、その口に大きな泡が入りこみました。
すると王子の足は海の底を離れ、体が浮上し始めました。あれほどもがいても浮びあがらなかった体が、羽根が生えたように軽くなりました。
みるみるうちに巻き貝の住処が遠ざかっていきます。
目を凝らしても人魚姫の姿はもう、泡の向こうに見えなくなっていました。短い日々を過ごした海の底との別れの時でした。
そこへ、海の底での友人たちが、王子を追いかけてきました。
「お元気で、王子さま」
スカートを膨らませながら、タコが言いました。
「二人ともいなくなったら、家が寂しくなっちゃうよ」
帽子のつばを波打たせながら、イカの坊やが通り過ぎました。
「姫さまをずっと忘れないでくれよ」
サメがぎょろりと王子をにらみました。
「姫さまの分まで、王子さまの新たな門出をお祝いしましょう」
クラゲは絡ませた長い手足を王子へ向けました。
みんなはしばらく周囲を泳いでいましたが、やがて上昇する王子についていけなくなり、藍色の帳がみんなの姿を王子の目から隠してしまいました。
泡は王子を運び続けます。上も下も右も左もわからない深い藍色の世界で、ただ泡が作る筋道だけが、王子が向かう先が海の上だと教えます。
自分が向かう先を仰ぎ見ていた王子でしたが、たくさんの泡に包まれているうちに、いつしか意識を失っていました。
王子は自国の浜辺で倒れているところを、近くの教会の神父に発見され、介抱されました。そして教会で目を覚ますと、すぐに宮殿へ駆けつけ、戦争が一人の大臣とある大商人による謀りごとだと、隣国との同盟関係は保たれていると王へ訴えました。
船が沈んで日が経ってからの王子の帰還はたいへん不思議がられましたが、必要のない戦争を止めようとする王子の訴えにより、王による取り調べが行われることになりました。開戦も目の前になっていたところへの突然の取り調べに、大臣も商人も謀りごとの証拠となるものを隠す時間がなく、すべては王の前に明らかにされました。
真実が明らかになったことで戦争は回避され、両国の同盟関係はより強固なものとなりました。
「しかし、あの大臣が謀りごとを企てているとは、よくおわかりになりましたね」
王子の前に紅茶を淹れたカップを置きながら、王子よりいくつも年の離れた婦人が言いました。
王子がばあやと呼んでいる婦人は、王子が乗っていた船が沈んだと聞いた時はその場で倒れ、ベッドから起き上がれなくなっていたほどでしたが、王子の帰還を知ると、今度は喜びで涙を枯れさせました。そして、以前はとても厳しい人だったのが、今ではすっかり王子に甘くなってしまいました。王子も心配をかけてしまったことを申し訳なく思い、ばあやには優しく接していました。
それに、ばあやと一緒にいると時々、無性に懐かしい気分になるのでした。
「そうだね。なぜわかったんだろう。噂は確かに聞いたことがあった。しかし、あの商人の屋敷になど行ったことはなかったのに」
帰還した王子は、知らないはずのことを知っていました。自分でも不思議でしたが、なぜか間違いないと確信があり、そのおかげで謀りごとを暴くことができたのです。
「行方がわからなくなっていた間、実は隠密活動をされていたとか」
冗談ではなくそう考えているらしいばあやの真剣な表情に、王子は苦笑しました。
その時、遠くでかすかに赤子の泣き声がしました。
ばあやがにわかに興奮し始めました。
「おめでとうございます、王子。父親になられたのですよ」
王子は同盟を確認した隣国の姫を妻に迎えていました。そしてたった今、二人の間に子供が生まれたのです。
ばあやを伴って母子の所へ向かうと、妻は疲れているものの健やかでした。
王子はまず妻を労い、そして、その隣で眠る赤子の顔を覗き込みました。
生まれたばかりの赤子は穏やかな顔で眠っていました。その顔を見て、王子の口から自然に言葉が漏れていました。
「おかえり、姫」
それを聞いて、妻が笑みをこぼしました。
「あなたったら。生まれたばかりの赤子におかえりはおかしいわ」
言われて初めて、王子は自分が口にした言葉に気がつきました。
「確かに。どうしておかえりなんて言ったのだろう」
「不思議ね」
「初めての御子の誕生に慌てなさいましたか」
妻とばあやに笑われて王子は頭をかきますが、自分でも不思議でした。
「なぜだろう。俺はずっとこの子を待っていた気がするんだ」
王子は生まれたばかりのわが子を抱えると、バルコニーに立ちました。
見下ろせば街が広がり、その向こうには青い海がどこまでも続いています。
空には太陽が昇り、輝く腕で世界を包み込んでいました。
王子は我が子へ祝福の言葉を送りました。
「誕生おめでとう、プリンセス。世界のすべてはあなたを歓迎している。
太陽はあなたに色を与え
大地はあなたの足を支え
風はあなたへ歌を運び
大海原はあなたを広い世界へと導くだろう。
それらに答えてあなたがすべきことは、その生を謳歌することだ。
あなたはそのためにこの世界に生まれてきたのだから」
太陽は暖かなその手を、眠る赤ん坊にも伸ばしました。
やわらかな頬を優しく包み込みながら、光が届く場所で新しく生まれた命に微笑むのでした。