これ消せませんか?
そろそろ就職活動に本腰を入れなければならない時期をとうに過ぎていたけど、いくつものエントリーシートを書いては送る作業は20社を越え、一向に良い返答が返ってこない。せめて一次選考を通ればなんとかなると、早計していたわたしのもとにようやく面接の連絡が入った。
そこでわたしには重大な問題が起こった。在学中にやったリスカ痕が、はっきりと手首に白い線を残し、わたしは面接の日取りを考えると無性に不安になる。
どうにかして、これを隠さなければならない焦りから、いろんな方法で痕を隠すことを試みた。ファンデーションで隠してみたりもしたが、完全には消えない。赤く隆起した部分はどうやってもごまかせない。いっそ整形外科にでも相談してみようと試みたものの、外科医の言葉はとても冷淡で、わたしの思いつきの行為までたしなめられ、どんな治療を施してもリスカ痕を完全に消すことなどはできません、とはっきりとした口調で告げられ、保険も適用外だということに消沈し、わたしはしだいに迫ってきた面接の日に気が気でなく迷走し、ある日自動車の車体の傷を目立たなくする修正ペンを見つけ、肌色のペンを購入した。わたしの肌の色に近いと思ったからだ。
実際に、手首の白くなった線をなぞるように修正ペンをはしらせる。ペンの肌色はわたしの肌の色とはかけ離れていて、そこだけはっきりと色の差が顕れているのが分かったことに気落ちし、そのまま部屋で横たわっていたら、いつのまにか眠り込んでいて、次に目を覚ました時は塗料が固まり、わたしの肌は赤く腫れ、かぶれたリスカ痕はよけい目立つようになってしまった。
もう面接までの日にちは一週間をきっていた。わたしは冷静さを失っていて、整形外科に最後の望みを託した。
訪れた整形外科医で、中年の医師に、
「一時の過ちが一生の後悔につながるのです。うちに来られる方のほとんどはあなたのような若い女性で、短絡的な行動の責任を医者に押しつける。あえてきつい言い方をしますが、それは自業自得です。レーザーで赤みをおさえることも現在では可能にはなりましたが、それはあくまで応急処置のようなもので、あとには白い線のようなものが必ず残ります。それはあなたの過ちの証なのです。それを真摯に受け止めて、もう一度前向きに人生を歩むことを考えると誓われるのでしたら、わたしは整形外科としての最善を尽くしあなたの傷跡を最大限に目立たなくしてあげましょう。もう二度とリスカなんてしないと誓えますか?」
その言葉には強制的な同意を求める威圧感を覚え、なぜ説教をされるのか、その理不尽さに沸き起こる怒りを必死にこらえ、いまのわたしにはこの医師にしがみつく以外の道が考えられなくて、表面だけはおとなしく心底から後悔しているふりをし、整形手術を受けることを決心した。
治療の値段は高く、わたしのアルバイトで貯めた額では現金での支払いは無理で、両親に事情を打ち明け、なんとか治療費を工面してもらえることになった。
治療はおもに、赤みの部分にレーザーを当て、ちくりとした痛みを感じながら、数回に分けて行われることになった。半年ほどかけて治療は終えると告げられた。しかし、面接の日は延期できない。わたしは苦肉の策で、腕時計で痕を隠すことにした。
幸い手首だけしか自傷はしてなかったし、スーツの裾が長かったこともあり、どうにか無事に面接を終えることができた。面接での手ごたえを感じていたわたしは、卒業までの間整形外科に通い続け、医師のいったように、傷が完全に消えることはなかったが、白い線は薄く、ファンデーションを使えば、遠目からではほとんど分からないほどになった。
入社した会社は内勤で、夏場はエアコンの効き目が強すぎるからといい、つねにカーディガンをはおり、周りの女子社員のように肌を露出することはしなかった。だれもわたしの行動を不審に思う者はいなかった。
わたしは新しい人生を歩めることの嬉しさと、過去の一時的な自分の愚かさを反省できるようになり、少女時代の未知なるものへのあこがれがこんなに自らを苦しめることになるのだと今更ながらに学んだ。
思春期の重苦しい感情や、社会に対する理不尽な大人の行動にいくら絶望しても、決して自分を傷つけることなどない。社会の暗部に直面しても、いまのわたしはそれほど憤りを感じないようになった。鈍感になることには寂しさがないこともなかったが、社会はそれほど単純ではないことも、働きだしてから知った。
わたしの左手首にある白く薄い幼いリスカ痕は、愚かな少女時代の戒めとし、わたしはそれを素直な気持ちで受け止めることにして日々の生活をおくっていた。時々思い通りにいかないいら立ちからリスカの誘惑に流されそうになることもあったけれど、わたしは精神的にほんのすこしだけ成長できていたみたいで、なんとかその誘惑を振り払う勇気を身につけることができていた。
これから長い人生たくさんの“いやなできごと”に直面することもあるだろうけれど、わたしはなんとかやっていくつもりで、この困惑した世の中で、一生懸命、時には適度に手を抜きながら、それでもなんとか前向きに生きることを心の教訓とし、わたしはできるだけ幸せな方へ進んでいきたいと切実に願っていた。
そんな毎日をおくるある日、わたしはある男性に恋をした。彼のことを強く本気で愛してしまうのに比例して、それは成し遂げられない片思いにしかならない結末の予感もあった。
こんな手首の痕ひとつのために恋愛すらまともにできないことに、わたしは悩み苦しむ日々をおくった。
彼と親しい間柄になりたいと切望するほどに、左手首の“楔”がわたしを幸せにはさせないことが、過去の過ちにいつまでも縛られ続けなければならない人生を突き付けてくる。
その軋轢からわたしはある晩お酒の力に負け、半年振りの自傷行為をしてしまった。目が覚めたら、また左手首に赤い血の直線が刻まれているのを見て、わたしは泣きだした。自分を徹底的に責めた。いままでの努力が水泡に帰したことを自覚した。悲しかった。どうしようもなく自分の脆弱な性格を憎んだ。
前向きに生きると決めた自分の誓いを破ったわたしを心の底から嫌いになりまた、整形外科医に救いを求めた。同じところで同じ医師に叱られた。そう何度も都合よくリスカ痕は消せない、と前よりももっと厳しい口調で怒られた。それでも医師は丁寧に綺麗にわたしの稚拙な痕を目立たないように治療してくれた。今度こそは絶対にやらないと誓った。
わたしはどこかで、いつかわたしを救ってくれる、寄りかかってもしっかりと支えてくれる男性がきっと表れるはずだと切望していた。それはわたしが幼さを残したまま大人になりきれないことも示していたけれど、愛だけがわたしの心のよりどころであることは疑いようのない事実だった。人生の意義が恋愛にしかないなんて視野の狭い人間だといわれるだろうけれど、愛だけがわたしの自傷行為を止めてくれるような気がしていた。
愛されたい。そして心の底から愛せるような関係が築けるようになれたら、わたしは幸せな方へ行けるはずだ。わたしのリスカ痕をみても、優しく微笑んで、包み込んでくれる男性がきっとどこかに存在しているはずだと儚い期待を抱くしかいまのわたしにはそれ以上生きていく理由が思い浮かばなかった。
どうしても、誰でもいいからわたしを理解してくれる人がほしくて、治療費のこともあり、わたしはキャバで働き始めた。当然会社には内緒で。両親からの援助も打ち切られ、高額の時給をうわまわるドレス代やヘアメイクにかかる費用でお金なんて一向に貯まらなかった。 指名も少ないし、キャバ嬢同士の醜い争いに巻き込まれ、わたしはその店を追い出されるようにして辞めることになった。わたしに残ったのは多少の借金だけだった。店の客に、わたしを救ってくれるようなスポンサーも見つけられず、わたしは、もう何度目かもわからないリストカットをしてしまった。わたしには愛は与えられないものなのだろうか、とどこかの神にでも訴えたかった。すべての人間は平等に愛されてしかるべきなのならば、わたしは神に嫌われているのでしょうか。
そんな宗教にすがる気もなかったし、信じてもいない神に泣き言をいっても、彼だって困るだろう。この傷痕が完全に消せるのならわたしは命さえもなげうってもいい。矛盾しているのは承知の上だ。あんなことしなければよかった。あの時、興味本位で自分を傷つけたわたしに言いたい、「それは絶対にしてはいけないことなのだ」と。
ある時、歩道を行き交う人達の中に、微細な日差しにさえ溶けてしまいそうな、美白の女性を見つけ、あの肌がほしい、と誰かがわたしにあの肌を奪えと命令した。
わたしはその命令は絶対に遂行しなければならないことだと狂信し、人目も構わず女にとびかかっていった。彼女は一瞬無抵抗で、その隙に片腕をつかみ、低体温の冷たい肌に爪を立てその皮膚を剥ぎとろうとした。
女の顔はひきつり薄い肌に透けている静脈が豹変して真っ赤に変色していった。周りの男性がわたしと彼女を引き離そうとする。わたしは両脇に腕をまわされ、指先だけは肌を追う。あれがほしい。あれをわたしにくれ。あれをわたしの皮膚にくっつけるんだ。切実に、彼女にお願いした。その肌をわたしにください。何度も叫んだ。おまえの皮膚をくれ。わたしを押さえつける男達の力がさらに強まった。女性はどんどんわたしから離されていく。
わたしは派出所にいる。巡査二人に事情聴取を受けている。訊かれたことになんでも答えてやった。巡査は動機に強い興味を示していたからそれも全部話してやった。二人の巡査は顔を見合わせ、どうしても理解不能だというふうに苦笑いした。
「だからって、そんなことできないし、勝手に他人を傷つけたりしちゃあ罪になるってことは分かるよね」
まるでこどもに話しかけるように巡査の一人が言った。
「じゃあ、あらかじめことわってやればよかったんですか?」
「あんたまるで反省してないね。だめだよ、そういう態度は」
わたしは逆上し、どうすればわたしの過ちを消せるのか問い詰めた。巡査はあきれた様子で、
「それが無理なのが人生なのよ。誰だってそうなの。自分でやったことなんだから嫌でもそれを背負っていかなきゃ。他人に当たるのは見当違いもいいとこだ」
そういって、巡査の一人が、わたしが一度も彼女に対して申し訳ないと言わないことにふれて、「反省がない奴ほど質が悪い人間はないよ。自分のやったことをちゃんと反省しなさい」
わたしは自分が追い詰められていくことを自覚していた。気づきたくない、直視したくない真実に迫ってくる巡査の言葉から必死に逃れようとしているわたしの本性に脅えていた。
巡査が語尾を強め言った。
「ちゃんと反省して、彼女にも謝るんだよ。で、傷害扱いになるから、これ」
え、と思わず叫んだ。わたし前科者になるんですか? 何もできなかったのに。
「相手の女性があんたのことを訴えるっていってるから当然でしょう。もう諦めなさい」
わたしは深々と頭を下げ巡査に頼み込んだ。お願いします、見逃してください。相手の女性にも謝りますから、話をさせてください。そんなことになったら会社にいられなくなってしまいます。わたしはどうしたらいいんですか? 実家からも見放されているんですよ。お金はどうしたらいいんです? あなた達が面倒を見てくれるんですか? わたしに死ねといっているんですか? お願いします。今回だけは見逃してください。
巡査の一人が、その不機嫌さを隠しきれず口元に表し、わたしを威嚇の眼力でおさえつけ言った。
「あんた最低だな。あんたみたいの見ると心底腹が立つよ。なんでさっきから自分のことばかりなんだよ。そんなんじゃ誰もあんたを助けちゃくれないよ。自業自得ってのはあんたに使う言葉だよ」
もう一人の巡査が言いすぎだと、巡査の肩を叩き、彼よりかは穏やかな口調で、「でも、こいつの言った通りだよ。あんたの過去と、傷つけられた彼女とは別のことでしょう? 彼女の立場で考えてみなさいよ。ねぇ、迷惑な話でしょ? 突然襲いかかられた恐怖は彼女のこころにいつまでも残るんだよ。それを考えてみなさい」
「考えたってわかりません。だって他人の気持ちになんてなれないから。誰だって他人にはなれないでしょ? ね、おまわりさん。そう思いませんか?」
巡査は二人で顔を見合わせため息をついた。もうだめだ、よしましょう、と一人が鼻で笑った。わたしは自分の発言を繰り返し頭の中でめぐらせながら必死で抵抗していた。それが何なのかははっきりとしなかったけど、わたしを殺せるくらいの強力なものだという確たる不安だということだけは知っている気がした。巡査が言った。
「あんたに足りないのは罪の意識だよ。言い逃ればかりして、目を逸らして向き合おうとしない卑怯者の自分の本心にあんたは気付くべきだよ。こういう仕事をしているとね、だいたい犯罪者の理屈ってのが分かってくるようになるんだよ。おれは人間のこころの理屈なんてしらないけど、あんたが悪党だってことだけは断言できるよ。あんたはその辺のゴロツキなんかより質の悪い人間だよ」
わたしは、わたしの胸にひた隠しにしているものをついに明るみに曝された恐怖に言葉につまり、巡査の言葉が耳を塞いでも頭の中を、すみずみまで駆けまわってわたしのいろんな心理や感情を貫いていく際の、鋭い響きに胸の、肉体ではないところの痛みに精神が崩壊しそうになりそうだった。もう消せない。隠せない。認めなければいけない。頭の中で鳴り響く罪悪への意識にわたしは押しつぶされそうになり、それでも何とかそこから逃避する方法を見つけ出そうとする、自分のドス黒くリスカ痕よりも汚く醜い本性と初めて向かい合った。それは吐き気のするほどにドブ臭く、どこまでも陰気で奥底まで引きずり込もうとするような泥のぬかるみに似ていた。そしてまず本当に直さなければならないものが何なのかを否応なしに認識するしかないとあきらめ、脱力しうなだれて、巡査の言葉に電気ショックを与えても、何の反応も示さなくなった実験台の犬のように、痛みを感じながらそれでもそこから逃げ出そうという気力を失って、いつまでも、巡査の言葉の刺激に無抵抗な態度をとり続けていた。そして誰かがわたしに語りかけてきた。それはもう消せません。いつまでも消えません。