エレィニアの救世主-1
人気のない森の中、男の声が響いていた。時間にして二十時、流石にまだ夏には早いこの時季では日も沈み樹冠がなくとも辺りは真っ暗だった。
そんな中そこだけは焚き火の明かりに照らされて明るかった。
持ち込んでいた炭も使いきり夕方拾い集めた枯れ枝を薪代わりにこれまた最後の干し肉を炙りながら彼は話していた。
「っせえなぁ……弥生の言う通り三年は続けたんだから文句はねえだろうが」
声の主は二九歳と三十路をあと少しで迎える如月春彦。彼はつい一週間ほど前に三年間勤めた会社を退職し、曾祖父の代から如月家が持つ山に籠っていた。
籠っているといっても何らかの修行に励んでいるとかではなく十代のころからの慣習で落ち込んだり、苛々したり、考え事をするときにはよくこうやって独り山籠りをしている。
当然今回も独りなのだが、そろそろ切り上げようかと思った晩にお節介な三つ年下の幼馴染みの花野弥生からの電話の相手をしていた。小柄で凹凸の少なく殆ど声変わりをしていない大人な彼女の目下の悩み事は未だに十代――それもたまに中学生に間違われることもあることだった。
六年ほど前に両親が事故で逝った後しばらく職を転々としていたのが漸く落ち着いたように見えた矢先に退職したことを知った弥生が心配して掛けてきたのだが正直春彦としては面倒臭かった。
『だからそういうことじゃなくて、ハル君ももう三十なんだからちゃんと定職に就かなきゃって言ってるの!』
「ハイハイワカッテマスヨ、ソロソロガンバラナイトイケナイモンネー」
『もうっ! すぐそうやって茶化す。そろそろハル君の同級生だった先輩達も結婚したりもしてるんだし、しっかりしないといけないんじゃないの?』
流石にその辺りのことを言われるとどうにも辛いものがある。
ただ人に――特にこの幼馴染みに――言われて納得するのは癪に触る。
「っせえなぁ。てめえも独り身だろうが」
「う……」という先程までのキンキン声とは明らかにトーンの低い呻き声が電話の向こうから聞こえてくる。まだ二六歳だからと苦し紛れの言い訳も聞こえてきた。
「ただの幼馴染みが大きな御世話だ。大体てめえは俺の母ちゃんかよ?」
『ちょっ! 誰がハル君のお母さんよ!?』
「んなもんわかってる。そんなに心配ならてめえが嫁いでくるか? おお、それなら俺だけじゃなくて弥生も結婚できて万々歳じゃねえか」
『え? ちょ!? ……そ、そりゃ、ハル君がそうまで言うなら? 私は嫌とは言わないけど……でもほら、やっぱり旦那さんにはちゃんと定職に――」
電話の向こうで急にしどろもどろになる弥生に溜め息一つ。
「ばぁか。ただの冗談真に受けてんじゃねえよ。それに今更幼馴染みにそんな感情湧かねえし。それにだ。俺の好みはお前みたいなちんちくりじゃなくて、キチンと出るとこ出て引っ込むとこは引っ込ん――」
『――バカッ! もう知らない!』
それを最後に乱暴に通話が切られてしまう。
耳鳴りのする耳を押さえながら通話アプリを閉じて、ついでにと軽くメールチェックをしていると弥生からのメールを受信する。
開いてみるとアカンベーをしたパジャマ姿の写真を添付した明日は休みだから必ず事情を話に来いという内容の文章が送られてきていた。
相変わらずいつまでたっても小柄で凹凸の少ない体型のお蔭でいつもより余計に子供っぽく見えるのか微笑ましい。
「……たく、そんなんだからいつもガキと間違われてんじゃねえか?」
眉間に皺を寄せ苦笑しながら昼には帰るとメールを送ると直ぐに了解の意と「おやすみ」と書かれたメールを寄越してくる。こちらも「おやすみ」とだけメールを送り今度こそ携帯電話が黙り込むを確認して傍にあるバックパックに放り投げる。
炙りすぎて少し焦げのついた干し肉をもごもごやりながら明日の予定を立てる。
取り敢えずゆっくり寝て片付けても十時前にはここを離れられる。そう言えば時季的にも最後の蕗の薹を見掛けたので蕗の薹好きの弥生のご機嫌取りに摘んで帰ってやろう。
何だかんだと言ってもいつも心配してくれる幼馴染みを憎からず思っていて、彼女の喜ぶ顔を想像してついついにやけてしまう。
なんにせよ今晩はもう寝るだけだ。そして明日の昼には彼奴に会ってお互い愚痴を言い合えばいいだろう。
――そう、あとは明日帰っていつものように、今までのように騒いで、明後日からはまた仕事を探せばいいさ。
「-1」ということで前日譚みたいなものです。だれもが当たり前にいつも通りまた迎えるはずだった日常のお話です。
2016年 6月 7日キャラクター名の変更
2017年 3月29日誤字修正




