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夢を見た。
泣いている雪を、雪と同じくらいか少し下くらいの男の子が慰めている夢。雪は7歳ほどで、男の子は体が弱いのかベッドに寝たままだ。
『みんな雪の話聞いてくれないの。茜ばかり構うの。おじいちゃんもおばあちゃんも、みんな言うの。茜はうちのお姫様だって。雪は、雪はお姫様になれないのっ』
ベッドの傍で、膝を抱えて雪はうずくまる。
『雪ちゃん。ぼくは雪ちゃんのことが大好きだよ。だからみんなのお姫様じゃなくて、僕のお姫様になってほしいなぁ』
熱のせいか、それとも照れているのか、男の子はふくふくした頬を赤くさせて笑う。
『じゃあ、ずっと一緒にいてくれる? 雪、寂しくしない?』
『うん。ずっと一緒にいるよ』
『じゃあ雪、――くんのお姫様になる!』
「ん……――くん……?」
朝7時。雪にとって一日で一番絶望する時間。覚醒するまで約15分。昨夜の夢の続きを探しながら寝返りを打つ。
「雪―っ! 早く起きなさい!」
一階から母親が呼んでいる。7時15分、雪以外の家族が家を出る時間。雪は家に誰もいなくなってから一階へ降りる。
「〈お姉ちゃん、食べてね〉……本当に良い子だ、私の妹は」
テーブルの上には、ラップに包まれたサンドウィッチ。もちろん、雪はそれを食べない。
「本当に最低だよな、私」
冷蔵庫から緑茶を出し、コップ一杯を飲み干す。雪の朝はいつもこれだけだ。
それから制服に着替え、長い髪をとかして家を出るのは7時50分。文庫本を片手に門を出ると、
「おはようございます、先輩。何読んでるんですか?」
寝癖の一つもなく、完璧に整った容姿の中島が腕を組んで立っていた。
朝方の雪は極めてテンションが低い。よって中島を丸っと無視し、本を開いて歩き始める。
「雪ちゃん。危ないでしょ?」
――雪ちゃん。夢でもそう呼ばれた。
雪は立ち止まり、考えを巡らせる。
「雪ちゃん」、今まで雪のことをそう呼ぶ人はいなかった。夢の中の男の子にも見覚えがない。それにあの男の子は容姿こそ整っていたものの、体が弱そうで中島とは結びつかない。
――本当、今にも消えそうな……。
「へぇ。先輩ってミステリー系が好きなんですね」
いつの間にか本を奪われ、中島は先を歩き始める。
「行きますよ先輩。これは帰りまで没収です」
雪の頭は本を奪われたイライラと、中島の正体が掴めないモヤモヤが渦巻く。
「中島って何者なわけ?」
「どうしたんですか急に」
中島は雪の少し前を歩き、振り向かずに答える。
「『雪ちゃん』って何? 君とどこかで会ったことある?」
「さぁ。どうでしょう」
「は?」
中島はずっと前を向いたまま歩いている。はっきりしない中島の態度に、雪の苛立ちはピークに達していた。
「ねぇ。君は一体何が言いたいわけ? 私のこと知ってるの、知らないの? はっきりしてくれない?」
雪のやや荒らげた声に、中島はようやく立ち止まり振り向いた。
「俺は先輩のこと知っています。でも俺が何者なのかは、先輩が思い出してください」
「本当に……面倒くさい男だな君は」
いつもの雪ならば、これ以上ないほどのありとあらゆる罵詈雑言を浴びせていただろう。だが雪にそうさせなかったのは、中島があまりにも情けない顔をしていたからか。……単に寝起きで気力がなかっただけかもしれないが。
結局、雪は中島と登校する形になってしまった。
「じゃあ先輩、俺は三階なのでここで。頑張ってください」
「ん」
中島は雪の本と共に去って行った。
「てか、頑張ってって何をどう頑張れば……」
ぶつぶつと愚痴りながら教室のドアを開くと、音が止まり視線が一斉に雪に集まる。
「西村さん、さ。今日湊君と登校してなかった?」
一人の女子が信じたくないけれど、という表情で聞いてきた。
「してないけど」
別れ際の中島の言葉を理解した雪はしれっと嘘を吐く。
「そ、そう。でも朝二人で歩いてるのを見たって」
――信じたくないなら鵜呑みにしてりゃいいのに。面倒くさ。
「一緒に来たわけではないよ。『登校』という目的が同じだっただけ。会話してないし」
「そうだよね。西村さんだもんね」
――どういう意味だ、馬鹿女。
いつもの三割増しで機嫌が悪い雪は、「馬鹿女」を軽くにらみつけ席に着く。
「あ……本」
学校にいる間、授業以外の果てしなく無駄な時間を潰す道具は今、雪の手元にない。
――奪い返せば良かった。地獄じゃん、こんなの。
先程の馬鹿女のみならず、その他大勢の視線がうっとおしい。雪は仕方なしにスクールバッグから世界史Bの教科書を取り出して広げた。机に肩肘をついて教科書に視線を移す。
別に予習も復習もする気はないが、とにかく活字の海に溺れていたかった。
「流石、ガリ勉ちゃんは違うわね」
耳障りな声をシャットアウトすべく、より顔を俯かせた。雪の長い髪がさらりと垂れ、カーテンのように視線を遮る。
それから一日、授業を除くすべての時間教科書とにらめっこをしていた。
帰りのショートが終わり、教室や廊下が騒がしくなる。雪も帰り支度を済ませ席を立った。
「……?」
今日はいつもより廊下の方がうるさくて眉を顰めつつ入口に目をやると、今朝方ぶりの目立つ男。
「えーっ! 湊君じゃん。どしたの? うちのクラスに用事?」
クラスの派手なトップカースト女子達にあっという間に取り囲まれている。
中島は女子達を見事にガン無視し、教室内を見渡す。そして雪と目が合うと、飼い主を見つけた大型犬の如くぱぁっと笑顔になった。その顔に周囲が色めき立つ。
――何か、耳と尻尾が見える。
「先輩!」
中島の視線の先を追って、教室中の目が雪へ向かった。
「……」
これは良くない状況だと悟った雪は、脱兎の如く教室を飛び出した。もちろん、中島がいる入口とは反対のドアから。
「え? え? どういうこと?」
廊下を全力疾走する陰キャと追いかける校内の有名人。謎の状況に他クラスの視線も集めてしまう。
「待ってください、先輩! そんなに走ると危ないですよ」
「誰の、せいだと……っ」
運動不足の体が悲鳴を上げている。余裕でついてくる中島を恨めしく思っていると、昇降口の手前でとうとう腕を捕まえられてしまった。
「……何?」
雪が睨みつけても気にするわけでもなく、むしろ嬉しそうにニコッと笑う中島に、雪の方が怯んでしまう。それを知ってか知らずか中島は雪の手を取り靴箱へ向かった。
「はい、先輩」
人の靴箱を勝手に開けて靴を取り出す。
「あんたの靴箱は向こうでしょ」
あっちへ行けとばかりに顎で示すも、中島は意に介さない。
「だって、離したら雪ちゃん逃げるんだもん」
――また、だ。中島は私を雪ちゃんと呼ぶ。夢の中の男の子みたいに。でも、あの子のことを私は知らない。
ただの夢だと頭を振るが、どうにも重なってしまう。妙な気分だ。
靴を履き替えるとそのまま一年の靴箱まで連行される。
「帰りましょうか」
手を引く中島を振りほどけないのはなぜなのか。雪がぼんやり考えていると、背後からよく知る声がした。
「お姉ちゃん! 今日も湊君と一緒なんだね。私も混ぜて!」
無邪気に走り寄ってくる茜の声に、無意識に中島の手をギュッと握りしめてしまう。
「……茜。あいつはどうしたの」
「環君? 今日は委員会で遅くなるし、一人で待たせるのも心配だから明るいうちに帰りなって」
ニコニコと幸せそうな茜。胸がひどく傷んで目を伏せる。
「じゃあ早く帰った方がいいんじゃない?」
冷たい中島の声に驚いて顔を上げた。
「え?」
茜も、自分に向けられた言葉を飲み込めていないようだ。
「行きましょう、先輩」
呆然と立ち尽くす茜には目もくれず、雪の手を引いて中島は歩き出した。
「中島って」
海沿いを歩きながら雪が口を開く。
「はい」
先程とは別人のように機嫌のいい中島に若干ビビりつつ言葉を続けた。
「茜のこと苦手なの?」
「苦手っていうか、嫌いです」
随分はっきりとした答えに驚いて、中島を見上げた。
「そう……珍しいね。茜のことそんな風に言う奴初めて見た」
「俺も聞きたいことがあるんですけど」
「何」
「環、って誰ですか」
予想外の質問に動揺して、思わず立ち止まってしまう。
「茜の、彼氏」
自分で発した言葉に傷つく。
「雪ちゃんも、好きなの?」
温度を感じない中島の声。雪の手を握る手が強まった。
「なわけないじゃん」
それは自分自身に向けた言葉だったのかもしれない。
その後はお互い何を話すわけでもなく歩いた。ただ、握った手を離すことはなかった。互いが、迷子になるまいとするように。
潮の香りと波の音に包まれながら歩く。伸びた影を踏みながら歩くこんな日が、昔あったような気がした。
「……じゃ、これで」
家の前に着き雪は中島の手を離したが、中島がちょん、と引っ張るのでわずかに後ろによろめいた。
「どうした?」
ムスッと子供みたいに不機嫌な顔をする中島を見上げる。
「これ、返します」
手渡されたのは今朝没収された本。
「あぁ、うん。で、何をそんなぶすくれてんの」
「別にぶすくれてません」
「そんな顔でよく言う」
意地を張る姿がおかしくて、クスッと笑うと中島がグイっと手を引いてよろめいた雪を後ろから抱きしめた。
驚いたのは一瞬で。あとは懐かしさを覚えるばかりだった。
『雪ちゃん行かないで。まだ僕の傍にいて』
ふと過ぎった映像。泣きべそをかいた男の子がベッドから身を乗り出して雪のお腹に腕を巻き付ける姿。
――何、これ。
知らない記憶に戸惑う。
ぎゅ、と雪を抱きしめる力が強くなった。
「雪ちゃんは」
耳元で中島のくぐもった声がする。
「雪ちゃんは誰にも渡さない」
「何それ」
「環って奴にも、他の誰にもあげない。俺のって約束した」
小さな子が必死にしがみついているように感じる。中島の不安を、感じる。
「中島って、昔体弱かった?」
雪の言葉に中島がばっと顔を上げる。
「思い出したの!?」
「断片的に」
「そっか、そっかぁ~」
安心したように顔を緩めると、雪の首元に顔をぐりぐりと埋めだす。どうにも行動が犬っぽい。
「いつまで抱き着いてんの。家の前なんだけど」
抗議すると、埋めていた顔を上げ顎を雪の肩に乗せた。
「雪ちゃんがうちに遊びに来てくれるなら」
そう言って雪の腹に回した腕をぎゅーっとする。
「わかった。行くから」
顔を見なくともわかるほどの幸せオーラを背後から感じる。
「行こう、雪ちゃん!」
子供みたいにはしゃぐ中島に手を引かれ、豪華な洋館に足を踏み入れた。




