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新世界での学校経営  作者: MuiMui
第四章 学園編 第一部
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085_なっちゃんのシチュー ③

バルチ様の今日の一言


 今日はね、じーじと一緒に近くの川に遊びに行ったよ。何かね、じーじは『現地調査だ』とか言ってたけど、バルチ、難しい事はよく分からない。難しい事は、いつもじーじにお任せなの。


 川にはお魚が一杯いたから、小石をぶつけて捕まえちゃったっ。その後、河原で捕まえたお魚を焼いて、じーじと一緒に食べたんだ~。美味しかったよっ。

 誰しも馴染みの店の1つや2つ、持っているものだ。実家に帰った折、何故か立ち寄ってしまう(たぐい)の店で、大抵注文するメニューも決まっている。


 店によっては『いつものあれ』で通じてしまうほどに馴染んだそこは、第二の実家と言っても過言ではないだろう。


 わたしたちはその店の『空気』を味わうために、何年たっても足を運ぶ。子供が成人し、孫が産まれても、店が存在する限りその足取りが途絶えることはない。


 そんな客こそが、飲食店にとって本当の『財産』なのかもしれない。




「こんにちは……」

「ああ。今日もよろしくね」


 ノニの店の裏口からそっと顔を覗かせたナチャを迎えてくれたのは、厨房全般を取り仕切るノニの旦那さんだ。非常に控えめで口数の少ない彼だが、気遣いの人で知られている。


 ナチャは肩掛けかばんの中から生乳とチーズを取り出すと魔道冷蔵庫の中に仕舞いこみ、共同の荷物置き場にかばんを置いて、可愛い花柄の前掛けを身につける。


 これは学食のおねえさんたちがナチャのために用意してくれた物で、ナチャにとってこの前掛けを身につける事は戦闘モードのスイッチが入るのと同様の意味があった。


「よしっ」


 小さく両手をぎゅっと握って、作業場の指定席に着く。その周囲にはすでに多くの『お姉さんたち』が野菜の皮むきや材料の下ごしらえなどに従事していた。


「今日も、よろしくお願いします……」

「こちらこそ。よろしくね、なっちゃん」


 ナチャもいくらかまどを自由に使わせてもらえると言っても、それにかかりっきりと言うわけにはいかない。料理の準備や後片付けなどを行いながら一段落ついた時点で調理に取り掛かる予定だった。


 珍しいことだが、ノニの宿屋は2つの食堂が存在する。1つが宿の宿泊客用で、もう1つが食事だけを摂りにノニの宿屋を訪れる客用となっていた。そしてナチャは、後者の食堂で毎日一生懸命働いているのだ。


 以前は人と話す時に相手の目を見て話すことが出来なかったナチャが、今ではまっすぐ相手の目を見て話せるようになっている。かわいい子には旅をさせよとよく言われるが、それは事実なのかもしれない。


 入学当時、文字が読むことができず自信なさげに周囲を気にしていた少女は、もうここにはいなかった。


 ノニ店で出している定番の料理は、ノニの旦那と料理に手馴れた一部のお姉さんたちしか作ることが許されていなかった。お客様に提供し御代を頂いている以上、一定水準の技量を有すると自分だけでなく誰もが認めている者以外、料理を作る事は出来ない仕組みになっていたのだ。そのため、ナチャを含むその他大勢は、料理の下ごしらえや食器洗いに従事していたのだ。


 それが今日からナチャは自分の料理だけだが、実際にお客に振舞うことが解禁された。何気ない仕草一つ一つ見ても、いつもより張り切っているのが見て取れる。


 そんなナチャは、山と積まれたジャガイモを幾つか取り出して手早く皮をむいていく。初めての頃とは大きく違い、実にスムーズに刃を走らせていた。


 そして綺麗にむき終わったジャガイモを別の容器に放り込むと、新たなジャガイモの皮剥きに取り掛かるのであった。




 料理の下ごしらえが完了すると、次は調理担当者が料理を開始する。その間、ナチャは厨房や店内などの掃除を行っていたのだが、今日からはそれが免除され、ようやくナチャも調理に取り掛かれるのだ。


 先ほど下ごしらえしておいた野菜は分けてもらえたので、まずはかまどの準備に取り掛かった。ここは農業試験場や学生食堂のように魔道具が揃っていない。そのため、かまども実際に薪で火を炊き暖めなくてはならないのだ。


 薪に火打石で火をつけ真剣な目つきで火加減を確認しながら、鍋の中にバターと小麦粉を順に入れ、持ってきた生乳で伸ばしていく。焦がさないように何度も鍋をかまどから下ろし、火加減を調整しながら作業を進めていく。


 ようやく完成したホワイトソースは、1度鍋ごとかまどから外し、今度はフライパンでシチューの具材を炒め始める。その内容は、ジャガイモ、にんじん、玉ねぎと言った定番野菜に、一センチメートル大に切った燻製肉だ。


 これを塩コショウで軽く味付けした後、じっくりと焦がさないように火を通し、先ほど作っておいたホワイトソースの中に投入する。


 鍋を再び暖める前に、使い終わったフライパンと菜ばしを先に洗っておいた。ここは個人の台所ではなく、人気のある飲食店なので、いつまでも汚れた物を置いておくほどのスペースはないし、洗っておけば他の人がフライパンを直ぐにでも使うことができるからだ。


 洗い物をして濡れた手を前掛けで拭きながら、ナチャは鍋を火にかけた。この後は一時足らずとも鍋の前から離れることはできなくなる。


 ゆっくりと木ベラでシチューをかき混ぜながら、生乳と水を追加しホワイトソースを延ばしていく。鍋底が焦げないように慎重に火加減を調整しながら、ナチャは丁寧に鍋をかき混ぜていく。


 そして、頃合を見てチーズを溶かしていくのだ。



「いらっしゃいませー」

「どうぞ、こちら空いていますよ~」


 昼食時になり、店内は一気に騒がしくなる。来店するお客は体格が良い男性が中心で女性の数は圧倒的に少なかった。


 数人で固まり来店するグループが多く、それぞれがテーブルについては大きな声で注文をしていく。客層はこれから仕事に出かける冒険者のグループや、他所の町に出かけたり、ラントスにやって来た商人たちが中心で、それに女神信仰の観光客がチラホラて言ったところか。


 ラントスの城壁外にあるこの辺りは、混じり者たちが自ら切り開いた畑や水田が広がる他は、八十雄が一枚噛んでいる施設と混じり者たちの住居、それに出店などの施設しかない。柵や堀といった防衛設備は一切なく、思っていたより治安は良くない。と言っても、害を及ぼすのは人間ではなく、野生動物や魔物と言われる(たぐい)がほとんどであったが。


 女神信仰者が観光のために大勢ラントスを訪れるようになったが、彼らは鉄の規律を持って八十雄やその関係者たちに迷惑をかけないようにと、お互いでお互いのことを監視しあっている状態のため、今のところは大きな騒動は起こっていないが、これもそのままにしておくわけにはいかない。


 これらの問題のためラントス評議会はお金を落としてくれる観光客の保護や牽制と、ラントス市内と郊外地における治安向上と安全を確保するため、冒険者や傭兵と言った『戦う』職業人たちを多数雇い、巡回業務や街頭警備に立たせることにした。


 一部からは『高圧的だ』『見栄えが悪い』と反対意見も出たが、今やラントスは世界を見渡しても、安全に暮らすことができる数少ない都市になっていた。


「4人だけど、席空いているかい?」

「はーい、こちらの席にどうぞー」


 また店に入ってきたのも、その警備部に所属するメンバーのようだ。ラントス独立宣言の時、警備隊が来ていたのと同じ青っぽい制服を身につけている。


「はい、お水とメニューです。文字が読めない方は説明させて頂きますので、何でも聞いてください」

「おう」


 男たちは女性店員が差し出したメニューを受け取ると、『定食コーナ』と題打たれたページを開いた。そこには、この店定番の4種類の定食の他、一番下に手書きで『なっちゃんのシチュー』と書き込まれている。


「……なんか見慣れないものがあるけど、これは?」

「それは、うちの店で新しく働き始めたなっちゃんって子が作っているシチューです。とっても美味しいんですよっ」


 店員のお姉さんはニコニコした顔で勧めてくるが、男たちは渋い顔だ。


「まあ、それはまた今度だな。えっと、俺はこの焼肉定食にするか」

「おれも、焼肉だ」


「俺はこっちのカレーカツにしとくわ」

「じゃ、野菜炒め定食の肉増量で」


 このようなやり取りは至るテーブルで繰り広げられ、ナチャのシチューを注文するお客は1人もいなかった。




 それから3日間、ナチャのシチューは全く売れなかった。


 結局、売れ残ったシチューをそのまま捨てるわけにもいかないので、毎日店のまかないとして提供されることになってしまった。一口食べればこのシチューがどんなに美味しいのか分かるのにと、店員のお姉さんたちもお客さんたちに対して勧めてはくれるのだが、誰も注文してくれない。


 もちろん、それにはちゃんと理由があった。


 警備部隊の隊員やこれから旅に出る商人たちにとって、食事と言うのはがっつり体を動かすための燃料である。そのためにも大振りな肉の塊や、大口を開けてガツガツ食べる料理の方が好まれていた。


 そもそもこの世界のシチューというのは、体の弱い病人や老人が、野菜を長時間煮込み形も残っていないような野菜汁をスプーンですくって食べるような病人食であり、その作り方も小麦粉を僅かなバターで溶かし、後はシャバシャバになるまで水で薄めた物と言うイメージしかなかったのである。


 食事の時間と言うのは、楽しみの少ないこの世界の住人にとって、非常に重要な一種の『娯楽』なのだ。それをわざわざ金を払ってまで『シチューなんか』を食べる気は最初から起こらない。


 ナチャのシチューは彼女の持ち込み素材であるチーズや生乳がふんだんに使われた、とても豪華で世間で言われているシチューとは全く別物であるのだが、お客はそうは見てくれなのだ。


 それがナチャのことを『学食のお姉さんたち』から託された店の定員たちは口惜しく思い、つい愚痴がこぼれてしまうのであった。。




 今日の昼の営業でも、ナチャのシチューは全く売れなかった。誰一人注文せず、売れ残った鍋一杯のシチューをかき混ぜ続けるナチャのことを、お姉さんたちは痛々しい思いで見つめている。


 夕食時は昼とメニューが変わってしまうので、昼食以降、ナチャのシチューは売ることが出来なくなってしまう。そのため今日の賄も、ナチャのシチューになりそうだ。


「よし、お客さんもはけたし、みんなご飯にしようか」

「はい、分かりました」


 店の主人の言葉を受け、フロアー担当のお姉さんが店の外に掛かっていた旗を下げてきた。入り口の旗が下がっている間は店の準備期間であることを示し、飲食物の提供を行っていない合図なのだ。


 今までずっと鍋をかき混ぜ続けていたナチャはシチューが入った鍋を火から下ろし、木の平皿に丁寧によそっていく。他のお姉さんたちは焼きたてのパンやご飯を器によそったり、残ったほかの料理を大皿に盛り付けていた。


 準備が整うと、全員が揃ったところで昼食が始まった。少しととろみがあるナチャのシチューは焦げやすいが、いつまでも熱いのであわてて食べると口の中を火傷してしまう。最初、匂いにつられて火傷をしたおねえさんたちもいたが、今では一匙掬っては口に入れ、満面の笑顔だ。


「でも、このシチューは本当に美味しいわねぇ。何で売れないのかしら」

「でもでも、あんまり人気が出ちゃったら、わたしたちが食べれなくなっちゃうわ」


 お姉さんたちはナチャを気遣って色々と声をかけてくれるが、彼女はそれほど気落ちしていなかった。それよりも自分が作った料理を食べてくれ、感想を聞けることが嬉しくもあり楽しかった。


「なっちゃん、毎日牛乳やチーズを沢山持ってくるけど本当に大丈夫なの? 無理してない? 店の売り物として代金だってちゃんと払うよ?」

「大丈夫です、お代は気にしないでください……」


 店の主人と交わされるこのやり取りも、何度目になるか分からない。そのたびにナチャは、『大丈夫です』『平気です』と答えるのだ。




 事実、ナチャは繁殖場で飼われている牝牛の『花』の牛乳を搾りそれを無料で頂いている訳だが、これには繁殖場側にもメリットがある。


 牝牛は毎日大量の乳を作るのだが、これを放置していると牛の乳房が張り痛みが伴うのか、非常に気が荒くなってしまうのだ。何名かの職員たちが動物たちの世話を行っているが、牛の乳絞りといった特別な作業は相手動物との相性もあり、誰でも簡単に行える作業ではない。


 同じく牧場で働いているロイカは、その体に普段世話をしている馬たちの臭いが染み付いており、それを牛や豚たちの方が嫌がるためこれらの作業を手伝いたくても出来ないのだ。


 ナチャの場合、その穏やかな性格が幸いしたのか理由は定かではないが、何故か例外なく全ての動物から慕われていた。


 気が荒く、人を見ると突いて回っていた暴れん坊の鶏や、豚やイノシシに似た家畜化を目指している野生の獣ですら、ナチャの前では借りてきた猫のように大人しくなってしまう。


 そのような人物は牧場長のセリオを除けばナチャだけで、特に動物たちが発情期で喧嘩がちになっている時や出産時など、ナチャの存在は大変重宝がられていた。


 そのため自分で搾った牛乳くらいいくらでも貰う事が出来たし、出来ればこのまま牧場で働いて欲しいとすら思われていたのだ。




 ここでの仕事は、ナチャにとって全てが新鮮だった。


 学生食堂では決められたメニューをあらかじめ準備しておき、注文を受けてから仕上げて提供していた。ここでも大まかな流れは同じだが、時には『野菜炒めの肉多め』や『カツカレー脂身なし』など、細かい注文が付け足されることもある。これらの細かい注文にも、厨房で働くスタッフは的確に対応していくのだ。


 更に、1つのテーブルで複数の種類の料理が注文された場合、料理が完成するのが出来るだけ全員同じ時間になるように調理の順番を工夫したり、他にも色々な配慮が為されていた。


 ナチャにとっては毎日が勉強で、注文が入らないくらいで落ち込んでいる暇などなかったのだ。




 特に気にした様子もなく、普段どおりのナチャがスプーンでシチューをすくい、一口入れようとしたまさにその時、いささか荒っぽく旗が下げられているはずの店の扉が外から開かれた。そこにいたのは4~50代の中年男性で、丸いお腹が少し出ている。服装はいかにも交易商人といった風体だが、旅から帰ってきたところか、少し薄汚れていた。


「旗が下がっとったのは分かっとるが、どうにも喉が渇いてな。せめてコップ一杯の水だけでも貰えんだろうか」

「それでしたら、どうぞ中に入ってください」


 助かる、助かると、大きな声でお礼を言いながら出口近くのテーブルに腰を下ろした男は、出された水を一気に飲み干し一息つくと、みんなが食べているナチャのシチューに目を留めながら話し始めた。


「儂は南の小国と公国を中心に商売させてもろうとるしがない商人や。おかげさまで、南方訛りがこびり付いて取れんようになってもうた。元はこの辺りの出身なんやけどな。

 南の方でもラントスの噂をようけ聞くようになってな、懐かしさと商売っ気に背中を押されて何十年ぶりに故郷に戻ってきたわけですわ」

「それは遠いところから大変でしたねえ」


 対応しているお姉さんは、男の顔も見ず気もそぞろに返事をしている。その間も、シチューを掬うスプーンは一定の速度で動いていた。


「いやぁ、実はな。儂、昨夜から何も食っとらんのや。どうも街道に盗賊がようけ出ると噂になっとって、一秒でも早くラントスにつきたいと寝る間も惜しんで移動してきたんや」

「それは、それは……」


「それでお願いと言うか、出来たらと言うか、儂にも何か食べる物をもらえんだろうか。もちろん、旗が下がっとったのは重々わかっとる。たけど、あんたらがそれだけ美味そうな料理を食べているのを見たら、我慢できるものも出来なくなってなぁ。もちろん代金も支払うし、何とかならんやろか」

「そうは言っても、お出しできる料理自体がねぇ……」


 お姉さんが渋るのも意地悪ではなく、止むを得ない理由があるのだ。ノニの店では先に述べたように、昼はお腹一杯になる食事中心のメニューで、夜は酒とそのつまみとなる料理に一品料理が中心のメニューになる。


 そのため、ランチタイムに提供した料理は夕方以降に店で売る事はなく、売れ残った料理はすべて賄いとして店員たちの胃袋に納まってしまうのだ。現に、定食のメインとして提供されていた焼肉や野菜炒めの残りが大皿に盛られ、テーブルの中央に、デンっと置かれている。


 ノニの店の定食はメイン料理に小鉢、それに、パンかご飯と汁物がついてくる。しかし、今は残った全てのメインと小鉢が大皿に盛られ、テーブルの上に置かれた状態になっていた。


 何でも良いとは言ってくれているが、流石に白飯と汁物だけという訳にも行くまいし、1度大皿に盛った箸をつけた料理から分け取り、お客様に提供することも出来ない。


 いっそのこと目玉焼きでも焼いて、それに燻製肉でもつけておけば良いかしらと店員のお姉さんは考えを巡らせていたところ、静かに男とのやり取りを聞いていたナチャがすっと立ち上がった。


「ナチャのシチューならもう少し残っているから……、それでも良いなら……」

「えっ、このシチューを儂に食べさせてくれるんかっ!? 是非、頼むわっ」


 両手を合わせる男の言葉を聞いて、こくんと頷いたナチャは1人、厨房へと姿を消した。若干顔を赤らめ、手と足が同時に出ているのはご愛嬌だ。


「……なあ、お嬢ちゃん1人で大丈夫なのか? 誰も行かんでもいいんか?」


 商人の男の目に小柄なナチャは10歳にも満たない子供に見えたのかも知れない。心配そうに後姿を見送りながら、何事もないように食事を続ける店員たちに、そっと小声で語りかける。


「大丈夫ですよ。ああ見えてあの子は、使徒様の学園に通う生徒なんですから。とっても真面目で頑張り屋の、この店の自慢店員なんですから」




 1人厨房に戻ったナチャは、シチューを弱火にかけ再び温め始めた。どうせ食べるなら、熱々の一番美味しいところを食べて欲しい。


 パンはもう終わってしまったので、白飯を提供することにした。ただ、おかずとなる物がシチューだけしかないので、そのままお茶碗によそって出すのも躊躇ちゅうちょしてしまう。


「う~ん……」


 お釜の前で悩んでいたナチャは、小さな手を1度合わせてから、流しの下から小さな容器を取り出した。その中からは日本人なら誰もが知っているぬか床の匂いが漂ってくる。そう、ナチャは八十雄に教わったぬか漬けを密かに試作していたのだ。


 元々ラントスで稲作は行われていなかった。そのため、米ぬかを利用して作られるぬか漬けも認知されていなかったのだ。


 八十雄がラントスもたらした稲作は、同時にぬか漬け文化の幕開けでもあった。日本にいた頃からちょくちょく料理をしていた八十雄にとって、ぬか漬けは長年慣れ親しんだ料理の一つでもあったのだ。


 いつかは料理店を開きたい。そう言うナチャに、八十雄は漬物の作り方を伝授していたのである。


 ナチャがぬか床から取り出したのは、立派なきゅうりだった。それはサイズが大きくなり過ぎて表皮が硬くなってしまい、お客さんに提供できなくなってしまった物をナチャが譲り受け、漬け込んでいたものである。生のままだと硬かった表皮も、ぬか床に漬け込むことによって柔らかくクタクタになっている。


 切り落とした端っこを口にし、何度か頷いたナチャは一口サイズに切って小皿に並べお盆の上に置いた。


 お客さんは南方の小国に仕事よく行くと言っていたし、そちらは稲作の本場であるから漬物だって食べ親しんでいるだろうと考えたのだ。


 それが終わると今度はお釜から白米を手に取り、俵型のおにぎりを作っていく。手が小さいので可愛いサイズのおにぎりになってしまったが、それでも4個もあれば、1度の食事量としては十分だろう。


 それをかまどの上に網を張り、遠火でじっくり焼いていく。表面にうっすらと焦げ目がついたら、定食で提供している焼肉用のつけダレをおにぎりに満遍なく塗り、更にじっくりと焼き上げていくのだ。




「……なあ、お嬢ちゃんシチューをよそるだけにしたら、ずいぶん時間がかかっとるんとちゃいますか?」


 よほどお腹が減っているのか、商人の男は机の上に頭をつけ、ぐったりとした様子で厨房へと続く扉を眺め続けている。


「なっちゃんが、ただシチューをよそってくるだけのはずがないわ。だから商人さんも、期待して待っていれば良いと思うわよ」

「そうよね~、あのなっちゃんの初めての『お客様』なんですもの。気合が入っているはずよ」


 食事が終わり、余裕が出てきたお姉さんたちは顔を見合わせて笑っている。やけにナチャに対する評価が高評価なのが気になるところだが。


 その後、店員のお姉さんたちと商人の男の間で世間話的な言葉のやり取りが何度かあったが、店の亭主はニコニコ笑っているだけで、口を挟む事はなかった。


「お待たせしました……」


 そこに肩で扉を押し開きながら、お盆を持ったナチャが現れた。お盆の上のヒラ皿に盛られたシチューが美味しそうな湯気を上げている。その他にも香ばしい匂いが食欲をそそる焼きおにぎりと、漬物が盛られた小皿が載っていた。


「とても熱いので、火傷に気をつけて下さい……」


 その匂いに涎を飲み込むだけになっていた男の前にナチャはそっとお盆を置くと、ペコリと頭を下げた。


 こうして全ての視線が集まる中、男は食事に取り掛かるのであった。




 読んで頂き、ありがとうございました。


 2015 5/14 本文の一部の言い回し及び誤字の修正を実施。

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