083_なっちゃんのシチュー ①
バルチ様の今日の一言
みんな、お酒って飲んだことある? バルチはないの。とっても美味しいんだって。冒険者ギルドのみんなはそう言っているの。
でもね、じーじは家だとお酒を飲まないの。飲むのは友達とかお客さんが来た時とか、特別な時だけかな~。
あ、でもドワーフさんの村でじーじがお酒を飲んだ時は、ひっくり返ってバルチ、驚いたよ。そんなになっちゃうくらい美味しいのかな~。大人にならないと飲んじゃ駄目だって言われたけど、バルチ、ちょっと飲んでみたいかもっ!
日々、仕事に追われる人々にとって、もっともホッとする瞬間は仕事を終え自宅に帰った時だろう。玄関を開け中から流れてくる空気に包まれた瞬間、心にまとっていた衣が一枚はらりと脱げるように、緊張から開放されるのだ。
では自宅から職場に向かい帰宅するまでの間で、最も心を許せるのはどの瞬間だろうか。
それは安心できる場所で食事を取っている時であろう。それが暖かく、美味しい料理であれば言うことはない。
意中の相手を手に入れるにはよく相手の胃袋を掴めと言われるが、事実、美味しい食事には人を動かす魔力がこもっている。
非常に甘美で抜け出すことが困難な、そして誰もが幸せになる強力な魔法がかけられているのだ。
普段、プラプラと自由気ままに遊んでいるようなイメージのある八十雄だが、ちゃんとやるべき事はやっている。基本的に勤勉で真面目な八十雄は、今日も朝一で職員室に顔を出し予算が絡んだ案件を手早く処理していた。
今年度の学園運営予算の多くは世界中から集まった寄付金からその大部分が捻出されているので、八十雄もお金の使い方に妥協はしないし、させない。各教員の給金や学食を始めとした運営サイドのスタッフの給金に、学食で提供している料理の食材費に学生寮の維持費や雑費など、学園を運営するために必要な経費は膨大な額に上る。
そのお金の出し入りを行えるのは最高責任者である八十雄ただ1人であり、責任は重大だ。
他にも教員や事務スタッフなどから新しく発生した問題点や、改善すべき点について報告を受けその対応策を打ったりと、八十雄の朝は地味に忙しい。
……まあ、本人はいたってマイペースなのだが。
「ほい、ほい、ほいっと」
学園長席に座る八十雄の前に、決済用の書類が積み重なっている。それを一枚手に取った八十雄は大して中身も確認しないうちに、ポンポンと印を押していく。八十雄が使用しているこの印鑑は自らのお手製の固い木を削って作った代物で、デザインは日本で一般的に見る『出崎』の漢字が丸で囲まれたものだ。
実はラントスを含む三大国には印鑑と言う文化は存在しなかった。地球の欧米でもそうだが、横文字文化の国では苗字が長すぎて印鑑にするには馴染まないのだ。
サイン文化であったこの世界に八十雄が初めて印鑑文化を持ち込んだのは、大工ギルドのギルド長に就任したばかりの頃である。
ギフトのおかげであらゆる言葉を理解することができ、話すことができる八十雄であるが、文字を書くとなれば少し問題が出てくる。例えば、我々日本人がアラビア文字の辞典を片手にアラビア語の手紙を書く時のように、文字と言うより絵を書くような感覚で文字を書いていくしかなく、たどたどしいサインになってしまうのだ。
そこで思いついたのが、銀行印から印鑑証明、訂正印にシャチハタ印と日本人お馴染みの印鑑の登場である。ギルド長という立場であっさり導入を決めた八十雄であったが、印鑑自体は自分で作るしかなかったのだが。
大工ギルドの職員たちは初めて見る印鑑の存在に最初は困惑の表情を浮かべていたが、八十雄が昔住んでいた世界では一般的に使われていたことと、刻まれているのが八十雄を表す文字であることを理解すると、あっさり印鑑システムを受け入れてしまった。職員たちもこの世界の常識に囚われない八十雄に付き合っている間に十分鍛え上げられていたようだ。
八十雄が旅に出ている間も大工ギルド長の立場にあったのは、残していった印鑑の存在が大きい。大工ギルド長代理に任命され八十雄の印鑑を預けられていたマテバが、ギルドの運営上必要な書類に自分の名前でなく八十雄の印鑑を使用し続け、その下に自分の名前を書くことであくまで自分は八十雄の留守を預かるギルド長代理であると立場を明確にしていたからである。
やがてラントスの首長になって市の運営に携わるようになり、更にサインの必要がある書類が増えた八十雄は、大工ギルドと同じく印鑑システムをラントス市庁舎の業務と学園運営に関するあらゆる部門においても導入を決定したのだ。
ラントス市庁舎の職員も、大工ギルドのギルド員も、そして学園関係者も、みな仕事熱心な者たちばかりで、八十雄が黙って見ていても何も心配することはなかった。時々軌道修正をしてやるだけで、普段は口を出す必要もないのだ。
もっぱら最近の八十雄の仕事は、決済書類や報告書といった形で上がってくる書類を確認して問題がなければ印鑑を押し、他にもっと良い方法があったり、問題が起こりそうな時は付箋でその旨をメモすることだった。そうしておけば、事務員が関係各所に書類を持って行ってくれる。
その際も【直感】のギフトは良い仕事をしてくれた。簡単に書類を斜め読みしただけで良いか悪いか、『何となく』分かってしまうからだ。後はその感覚を信じて書類を完成させていくだけである。
「ふん、ふん、ふ~~ん」
「……いつ見ても、本当に凄いわね」
見る間に減っていく書類の山を見ながら、事務員の女性は目を丸くしている。普通であれば書類を読んで内容を確認し、専門分野についてはその道の職員に確認を取ってからでないと判断出来ないはずの案件が、八十雄に掛かればほんの一瞬で処理されてしまい、その判断に今まで一度でも誤ったことはないのだ。
「よーし、これで終わりっと」
最後の書類に印を押し、完成した最後の一枚を積み上げられている完成済みの書類の一番上に置いた。
「それじゃ、後は校内をフラフラしてるから、何かあったら声をかけてくれよな~」
「分かりました、学園長」
かなり優秀な文官であっても一日では決して終わらない量の書類を1時間足らずで仕上げた八十雄は、ご機嫌な様子で職員室を後にするのであった。
その後は天気が良かったので、隣接する牧場や農業試験場に顔を出すことにする。
最初に訪れた牧場では、牧場長を任せているセリオが盗賊たちの元乗馬を再調教している最中だった。
簡素な鞍をつけただけの馬を見事な手綱捌きで操っている。その様子を真剣な目で見ているのは、公国出身のロイカ・メイザールだった。
最近のロイカは頻繁に牧場に足を運び、世界屈指の騎手であり調教師でもあるセリオ=ザリオスの元で馬術の腕を磨いている。
常歩から速歩、そして駈歩と流れるような動きで馬を駆り続けるセリオ。ただ手綱に軽く手を添えるだけで鞭も使わず、自由自在に操るその様子は何度見ても不思議で仕方がない。
「おー、モモ、あいさつに来てくれたのかぁ。ありがとうな~」
牧場の境界線に設置されている柵に両肘をつきながら馬の調教を見ていた八十雄の側に、大分お腹が大きくなってきたモモが近寄ってきた。セリオの話では、後一月もすれば子供が生まれるらしい。バルチも気が気でないらしく、毎日のようにモモの様子を見に行っている。
モモはフンフンと鼻を鳴らしながら、八十雄が差し出した手に頭を擦り付けている。
「モモごめんな。今日はバルチがいないんだ。今度、一緒に来るからな」
「ブルルン」
八十雄に頭を撫でられながらも誰かを目で探しているモモに八十雄が申し訳なさそうに語りかけると、『気にしなくて良いよ』とでも言っているのか、フンフン鼻を鳴らして答えるモモ。
そんな八十雄の視線の先ではロイカも栗毛の見事な馬に乗り、馬の調教を行っていた。名門メイザール家に生まれた彼女も乗馬は手馴れたものだが、『馬男爵』と陰口を叩かれるほど、こと馬に関しては右出る者がいなかったセリオの前では、その乗馬技術に顕著な差が見て取れる。
ロイカがどうして牧場で手伝い始めたのかは、誰にも語らなかったので理由は分からない。牧場の仕事は給金も安く、体力的にもきついし、汚れ仕事も多い。今まで貴族の娘として何不自由なく過ごしてきたロイカにとって、決して楽な道ではないだろう。それでも彼女は一日も休むことなく牧場に足を運び続けた。
孫ほども年の離れたロイカをセリオは好きにさせた。やりたい事は何でもやらせ、時には失敗し落ち込む彼女を慰めもしたが、技術的な指導だけは一切行わなかった。今も馬の調教を続け、心の一部を彼女に向けながらも決して口を出さない。彼が口を出すのは、彼女が危険な目に会いそうな時か、馬にとって良くないことを行いそうな時だけなのだ。
そのためロイカはその一挙動に至るまでいつもセリオを目で追い続け、盗める技術を常に探っている。1つ時代を誤ればストーカーと呼ばれてもおかしくない状態だが、孫と祖父ほど年の離れた弟子が師匠の後をついて回っていると見れば、微笑ましくも思える。
八十雄はしばらくモモとスキンシップを重ねつつ2人の様子を眺めていたが、頃合を見てセリオとロイカに手を上げその場を離れた。
その次に訪れた農業試験場では、多くの職員が近くを流れる水を引き込んで作られた水田や畑で汗を流している。その中では特別クラスの生徒たちの姿もちらほらと確認できた。彼らはここで学んだ技術を実家に持ち帰るため、勉強している最中なのであろう。
それを横目に八十雄が目指していたのは、農業試験場に新しく作られた繁殖場だった。ここは野生に生息している食用に適した動物たちを繁殖させ、家畜化出来ないか試している場所であり、またすでに家畜化されているヤギや牛、豚といった家畜の新しい飼育方法を研究する施設でもある。
そこで飼われている牝牛の脇に座り込み、小さい手で牛乳を搾っているのは、特別クラスで一番小柄なナチャだった。乳を搾る手つきはすっかり手馴れたもので、テンポ良く用意している容器に牛乳を貯めていく。乳を搾られている牝牛も大人しいものだ。
「こんにちは、ナチャ。精が出るな」
「あ、せんせ。こんにちは……」
手を止め、ニコッと笑うナチャの隣に腰を下ろす八十雄。最近のナチャはいろんな人と接する機会も増えてきて引っ込み思案な性格も改善の兆しが見え始めていた。
「俺の事は気にしなくて良いよ」
ペコリともう1度頭を下げ、ナチャは牛乳絞りを再開した。手が小さく握力も弱い分、時間をかけて何度も何度も絞り続けていく。容器が一杯になるまで、終始2人は無言だった。
「ふぅ~」
牛乳で一杯になった容器にふたをし、額に光る汗を拭いながら笑顔を見せるナチャ。最初に会った時は周りの様子をいつも気にし、ビクビクと怯えていたこの子もこんなにも無邪気に笑うようになったんだなと、感慨深く思う。
「花ちゃん……、いつも牛乳をナチャに分けてくれてありがとうね……」
「モォ~~」
傍らにおいていた水桶に入れていた布を固く絞り、花と呼ばれた牝牛の体中を拭いていく。牛は本来気が荒く短気な性格をしており、体を触られるのを嫌がるものだが、この1人と1頭の間には確かな心の交流のような絆が出来ていた。そう、バルチとモモの間にあるような。
体を拭き終わったナチャが牛乳の入った容器と水桶を一緒に持とうとしたので、そっと八十雄は水桶を先回りして持ち上げる。
「ありがと、せんせ……」
手をピラピラと振り、八十雄は先を歩くナチャと花の後について歩いていく。花は手綱を引かれることもなく、ナチャの歩調に合わせてゆっくりと厩舎の外にある牧草地まで歩いて行った。
「それじゃあ、花ちゃん……。明日もよろしくね……」
「モォ~」
優しく首筋を撫でながら話すナチャを見ながら、花は1度小さく鳴くと草を食んでいる仲間たちの方へと向かって行った。それを見送っていたナチャはもう1度牛乳の入った容器を抱えなおし、厩舎に隣接する試験場の中に入っていく。そこには小さなかまどが幾つか置かれている台所があり、ナチャは繁殖場の管理も行っているセリオの好意で自由に使わさせているのだ。
八十雄は流しの1つに持っていた水桶を置き、水を出す魔道具から綺麗な水を出して使用した布を洗い干し場にかけておいた。途中で八十雄に気がついて、おたおたし始めたナチャの頭をポンと一回優しく触れる。
「いつもありがと、せんせ……」
頭を撫でられちょっと恥ずかしそうに、それ以上に嬉しそうに、ナチャは顔をほころばせる。
「おう、ナチャは頑張り屋さんだからな。少しぐらい手助けしてもらう位で丁度良いんだよ。それより、ここでやることがあるんだろう?」
「うん……。それじゃ、始めるね……」
そう言うと、ナチャはたどたどしい手つきでかまどに設置された加熱用の魔道具を動かし始めた。これは『魔導王ドット』が作って八十雄に送ってくれた魔道具の1つである。
元々この台所には少し前まで魔道具の1つも置いてなかったので、お湯を沸かすのにも外の井戸から水を汲み、かまどに薪をくべ、火打石を使用して火をつけなくてはならず大変な労力が必要だった。ナチャの手つきがまだ怪しいのも、この魔道具がつい最近に導入されたばかりだからだ。
魔道具の作り手は特殊な魔法を使えなくてはならない上、使用する材料も錬金術師に造ってもらわなければならず、その技は一家秘伝とされ秘匿されており、使い手の数も少ない。また魔道具を作るためには膨大な魔力を使用するため、何日もかけて術を完成させなくてはならないそうだ。
そんな訳でどんな小さな魔道具ですらかなりの値段はするし、そもそも買いたくても量産することが先の理由から困難で買うこと自体が非常に難しいのだ。人間、誰しもない袖は振れないのである。
王家や有力な貴族以外、家の中に魔道具が溢れてること自体がまれであり、王家から勲功のあった部下に下賜する褒章として魔道具が渡されることも珍しくない。下賜された貴族はその魔道具を大事に扱い、何年、何十年かけて数を増やしていくのだ。
実際、ナチャは学園に来るまで魔道具と言われる類の物を見たことも触ったこともなかった。そのため八十雄がこの台所を使っているナチャのためだけに魔道具を設置しても、それがどれだけの価値があるのかさっぱり分からないだろう。八十雄としてはナチャが便利な道具を作ってくれたと喜んでいるだけで十分なのだが。
八十雄がどうしてこんなにも魔道具を持っているかというと、それはもちろんドットのおかげである。
ドットとは以前縁があり、その際バルチの教えで一緒に暮らしている猫たちとの仲が改善されて以来、ドットはバルチの事を『バルチ先生』と呼び非常に慕っている。
彼は極度の人嫌いと言うか、人付き合いの類を煩わしく感じる質であり、そのため皇国の片田舎に自分で建てた塔に人避けの結界を張ってそこにこもり、一緒に暮らしている猫たちと趣味の魔道具作りに励んでいる。
錬金術師の秘術も、膨大な魔力を使う魔化の魔法も、元はドットが編み出したものだ。魔力自体も唸るほど抱えている彼に言わせれば、魔道具の1つや2つ作り上げるのは自分が食べる食事を作るよりも手間が掛からないらしい。
ラントスに住む八十雄とは今でもドットが作った魔道具を通じて週に一度は連絡しあっている仲である。その魔道具も最初は声だけしか届かなかったが、今ではお互いの姿まで映し出すことができるように進化していた。
ドットは異世界の記憶を持つ八十雄に新しい魔道具のアイデアを求め、八十雄もエアコンや冷蔵庫、扇風機にIHヒーターなど、現代日本ではありふれ便利な家電の話を聞かせていく。ドットはそのアイデアをこの世界の魔道具で実現しようと獅子奮迅努力を重ね、その結果完成した魔道具を山のように八十雄に送り届けてくるのだ。
ドットから連絡が入るとモルドロー10世子飼いの交易商人たちに依頼を出し、そのたびに彼らは一財産どころか城すら建つような莫大な価値を持つ荷物を何日もかけて皇国からラントスまで運ぶのだ。最初は割りの良い仕事と喜んでいた交易商人たちも、ある日軽い気持ちで八十雄に荷物の正体を聞いてしまい、それ以来は悲壮な覚悟で仕事を受けるようになってしまった。
八十雄も申し訳なく思うのだが、彼ら以外に適任者もいないのだからしょうがない。出来ることといったら、報酬額を上げることだけだった。
テスターとして機能試験を行えるのは八十雄しかいないこともあり、八十雄の自宅にある倉庫はドットから送られてきた魔道具で埋め尽くされてしまう。何故かドットは一度に何個も同じ魔道具を送ってくるので、その大部分が死蔵されてしまうのだ。
ドットがどうしてこんな行動に出たかというと、八十雄から教えてもらう目から鱗が落ちるようなアイデアと、猫たちに対するバルチのアドバイスに対する感謝の気持ちに、彼なりに何とかして応えたいと常々思っていたのだが、口に出してお礼を言うのは照れくさいし、それなら自分が作った魔道具を余分に送って、八十雄たちが売るなり誰かにあげるなりして欲しいと考えたのだ。
八十雄としては、現在のラントスの魔道具レベルから考えて遥かかなたを歩いているドットの魔道具を一般市場に売り出すことは出来ないし、同じ魔道具を自宅で使うにしても一個か二個が精々。その結果、出崎家の倉庫は魔道具で膨れ上がったのだ。
100%善意からの行動であり、八十雄としても文句や苦情を言うことは出来ないし、このまま放っておけば定期的にドットから送られてくる魔道具で自宅がパンクするのは目に見えていた。密かなピンチに追い込まれた八十雄が取った手段が、目の前の台所である。
売ることが出来ないのであれば使ってしまえば良いとばかり、ラントスの市庁舎やギルド会館に孤児院、それに治療院に神殿、更に市内の各学校や、果ては南北の正門及び東西の副門の詰め所など、不特定多数が利用する公共や準公共施設にドット製の魔道具を次々に設置していったのだ。
当然、盗難されることを心配するところだが、それすらドットに対しては『おいしいアイデア』になってしまった。早速作り上げた盗難防止用の魔道具を嬉々として八十雄宛に送り届けてきたのである。
もちろん、施設に設置する前に魔道具ギルドにドットが作り上げた魔道具の特許申請を八十雄が代理で済ませるのも忘れていない。いくらドットからすれば簡単に作り上げた物だとしても、個人の成果は他人は犯してはならない神聖なモノであると職人である八十雄は固く信じているからだ。
その結果、もはや伝説と言っても過言ではない魔導王ですら八十雄の協力者の1人であると噂が広がり、一部の某信者たちを熱狂させるのであるが、流石に八十雄もそれまでは思いが及ばなかったようだ。
そんな八十雄が見つめる先で、かまどにかけた小さな鍋に絞ってきたばかりの牛乳を鍋の半分ほど丁寧に注いでいく。保冷設備が未熟なこの時代、生乳はとても貴重な栄養源だ。特に孤児として決して裕福な生活を送ってきたわけではないナチャは、その事を同級生の誰よりも知っている。
丁寧に、丁寧に、鍋に注ぎ込んだ牛乳の残りは、同じくドット製作の異世界冷蔵庫にしまわれた。何故かこの冷蔵庫は物を冷やすだけではなく、暖める機能までついている。
……使い所は極めて限定されるとしか言いようが無いが。
そして牛乳と入れ違いに、小さい黄色の果実が冷蔵庫から取り出された。それは現在農業試験場で育てられている酸味の強い果実で、八十雄がドワーフの集落で酒に潰れひっくり返った時にバルチが八十雄の口に絞り汁を入れた『あれ』である。
ナチャは部屋の片隅から八十雄が作ってくれた椅子を引っ張ってきて腰を下ろすと、暖かくなり始めてきた鍋を木ベラゆっくりとかき混ぜ始めた。
そう、ナチャは牛乳からチーズを作ろうとしているのだ。この世界のチーズは、暖めた動物の乳に酸味の強い果汁を加え半固形になったチーズをそのまま使ったり、更に水分を取って固形に固めたりして作るのだ。
ナチャは八十雄が見つめているのも忘れて、食堂のお姉さんが作り方を教えてくれたチーズ作りに集中している。『美味しいチーズは手を抜いたら作れないのよ』と教えてくれた言葉を心に、一定の速度でゆっくりゆっくり、けっして手を止めず鍋をかき混ぜ続けていく。
ある温度まで暖められた牛乳を一旦かまどから下ろし、魔道具の温度をふたメモリほど下げた。そう、ドット謹製のこの魔道具は、IHヒーターのように10段階もの温度調整が出来るようになっている。そのためナチャが作るチーズは品質が一定で、とても高い評価を頂いているのだ。
ナチャは黄色い果実を4分の1の大きさに切り種が入らないように果汁を絞った後、皮や種ごと綺麗な布巾で包み鍋の中に入れ、先ほどより弱火にしてかき混ぜ始めた。
こうして作られる爽やかな香りがするフレッシュチーズを使って作られるのは、林間学校で八十雄やバルチ、そしてザザとマルゴにナチャが初めて振舞ったチーズシチューだ。
こんなにも一生懸命に作っている料理が美味しくないわけがない。ふぅふぅ言いながら丁寧に鍋をかき混ぜるナチャを見ながら、そう思う八十雄であった。
読んで頂き、ありがとうございました。
2015 5/6 誤字を修正。




