【case2】―― 雨野生子
この世に存在するありとあらゆるものは、空から生まれる。
人間も、動物も、植物も、水分子も、空気も、何もかもが空から生まれ、そして、やがては大地へと落ちる。
大地はこの世に生を受けたあらゆるものが集まる場所であり、《収束の地》と呼ばれる。
人間は成長する過程で、空から生まれて落ちるまでの「空中期」と、収束の地で暮らす「安定期」を経験する。死んだ後には地中深くまで埋められ「埋没期」というものを迎えるのだが、それは死後の話なので、あまり歓迎されるものではない。
そして私も、この世界の住人として空から生を受けた。
空から生まれ落ちた私は下界へと落下しながら、落下速度が加速してしまわないように、生まれた時から持っている傘を広げる。それは誰に教えてもらったわけでもないが、私は、本能的にそうすべきだと悟っていた。
ゆっくりと上に流れてゆく景色。
その中には、他の人間や、美しい花も含まれる。
私は浮遊感に包まれながら、お腹が空いたら上から落ちて来る植物の実を食べ、夜は空気のゆりかごの中で眠った。
落下してゆく中で、私は一人の人間と出会った。
それは、青い傘を持った男の子だった。
「こんにちは」
「こんにちは」
「ねえ、君は自分がこれからどこに辿り着くのか、知っているかい?」
私が知らないと答えると、男の子は他の誰かから聞いた情報を私に話した。
それは、《収束の地》についての話だった。
私たちが今いる空中は永遠のものではなく、やがて終わりが来るということ。
《収束の地》では今のような浮遊感は存在せず、自由に歩き回ったりできるということ。
私はその時はまだ、「歩く」という概念をよく理解していなかったが、男の子が両足をばたばたさせて実演して見せたので、何となく想像することは出来た。といっても、男の子もまだ歩くということを体験していないらしいので、二人して間違った解釈をしている可能性もある。
「自由に動けたりふわふわ浮かんだりしなくても済むなんて、《収束の地》はとても素晴らしい所なのね」
私はその話を聞いた時から、《収束の地》に憧れの気持ちを抱くようになった。
男の子は海人と名乗ったが、私には名前がなかったので、名乗ることが出来なかった。すると、海人は私に《雨野生子》という名前を付けてくれた。雨の中から生まれた子供、という意味らしい。私はその名前を気に入り、それからは生子と名乗ることにした。
私と海人はその日、一日中会話をした。海人はとても明るい男の子で、私は海人との会話を心の底から楽しんだ。
夜になると、私たちは互いにおやすみなさいと言い合って眠りについた。
しかし、空気のゆりかごに揺られて眠り、翌朝目を覚ますと、海人の姿は見当たらなくなっていた。
周囲を見渡してみるが、青い傘は見当たらない。恐らく、寝ている間に違う方向へ流されてしまったのだろう。
私は海人と離れ離れになって、とても悲しかった。
そして、風の気まぐれで流されてしまう自分の身体を恨んだ。
《収束の地》へ落ちたら、絶対に自分の足で海人を探し出してやる。
私は心の奥底で、そう決意した。
それから幾度かの朝と夜を繰り返し、落ちて来る植物の実を口にしながら、私は《収束の地》へと到達した。
迫って来る地面。
総ての収束する場所。
頭から降りると首の骨を折ると聞いていたので足を下にしたのだが、自分の体重に押しつぶされて、私は倒れてしまった。
私は、こんなにも重かったのか。
その時私は初めて、自分に体重があるという事実を学んだ。
「あら、空から人が」
私が自分の身体を持ち上げようと努力していると、横から声が聞こえた。
そちらを見ると、一人の女性が二本の足をせわしなく動かしながら、こちらに近付いて来る。
あれが、「歩く」ということなのか。
「大丈夫? 身体、重くない?」
彼女は気遣うようにそう言うと、私の肩に手をかけた。
「大丈夫、です」
私がそう答えると、彼女は満面の笑顔になった。
そして、両手を広げて見せる。
周囲に広がるのは、固く安定感のある茶色の大地。
その大地はまるで、無限に広がっているように見えた。
「《収束の地》へようこそ!」
女性はそう言って、私を抱擁した。
私も重い自分の腕を持ち上げて、恐る恐る抱擁し返してみる。
「自分の身体の重さには、すぐに慣れると思うから」
女性は茜と名乗り、上手く動けない私に肩を貸すと、自分の住処へと連れて行ってくれた。
どうやらこの《収束の地》では、最初に空中から落ちて来た子供を見つけた人が、その子供の世話をするらしい。
茜さんは明るくて優しい大人だったので、私は、茜さんの前に落ちることが出来た自分の幸運に感謝した。
私は地上で身体を動かすのに慣れるまで、茜さんの家で過ごすことになった。
茜さんの家は植物の幹を切り取った物で構成されていて、とても安定感があった。これなら、風が吹いても流されることは無いだろう。茜さんが持って来てくれる珍しい果物を食べながら、私は安心してその家の中で眠った。
茜さんは何故か家を留守にすることが多かったので、私は大抵の場合、家の中で一人で過ごしていた。私は自分の持っていた傘を杖代わりにしながら部屋の中を歩き回り、歩くという行為に早く慣れようと努力した。傘は私が落下している間ずっと空気抵抗を受けていたのでボロボロだったが、それでも、芯はまだしっかりと残っていた。
そしてそれから一週間くらいの時間が経った頃、私は茜さんのように自然に歩くことが出来るようになっていた。まだたまに転んでしまうこともあるが、それでも、以前のように自分の体重に押し潰されそうになるなんてことはなかった。
そして歩けるようになった私は、茜さんに言った。
「私が空から落ちて来た時に出会った、海人くんという人を探しに行きたいのだけど」
しかし茜さんはそれを聞いて、ちょっとだけ困ったような表情をした。
「この《収束の地》で生きていくためには、いくつかの義務を果たさないといけないの。あなたはまだ子供だからいいけれど、あと一年くらい経ったら、あなたもその義務を負うことになるわ。だから、自由に動けるのは後一年間だけよ」
「義務って何?」
「生きていくために守らなくてはならないルールのことよ。これを守らないと、食べ物を手に入れることは出来ないし、家に住むことも出来ないの」
それから茜さんは、私に《収束の地》で生きていくためのルールを教えてくれた。
空から降って来る植物の実は「空中期」の子供にみんな食べられてしまうため、地上の人間は、自分で地面に種を植えて果物を育てなくてはならないこと。
空中とは違って地面は固いので、眠るためにベッドや家を造らなくてはならないこと。
そしてそれらの行動を組織的に行うために、投票でみんなのリーダーを決め、そのリーダーの指示に従って働かなくてはならないということ。
それは空中に居た頃には考えなくてもいいことばかりだったので、私は驚いた。
「地上に落ちたからには、いつまでも浮ついた気持ちで居ては駄目なのよ」
茜さんはどこか寂しそうな顔をしてそう言った。
私はその時初めて、地上での生活は、思っていた程幸福なものではないのかもしれない、と思った。
私はそれから毎日、外に出て海人くんを探した。
しかし、いくら自由に動けると言っても、地上は広過ぎて、目指す人は中々見つけることが出来なかった。一年という期限は、この無限に広がる大地の中では、あまりにも短過ぎるように感じた。
その日は普段とは別の方向へ行ってみようと、私は森の中へと入ってみた。
危険な獣がいるかもしれないから行かないようにと茜さんからは言われていたが、知ったことではない。いざとなったら、襲って来た獣に傘の先端を突き刺してやればいいのだ。
私は傘で木の枝をかき分けながら、道を進んで行った。
そして、一人の男を発見した。
その男は木の根元に向かって私が見たことのない道具を突き刺していた。
「そこのあなた」
私はその人に声をかけた。
「その道具は傘じゃないわね。何のための道具なの?」
「これはチェーンソーだよ。木を刈り取るための道具さ」
「何のために木を刈り取るの?」
「家を造る材料にしたり、薪に使ったりするためさ」
「そうなの。ところであなた、どうしてそんなに太い腕をしているの?」
「木を切るには、力が必要だからね」
「どうしてそんなに疲れた顔をしているの?」
「労働ってのは大抵、疲労を伴うものなのさ」
「海人っていう人を知らない?」
私がそこまで質問をすると、男は私をじっと見つめた。
「お嬢さん。君はつい最近まで空に居たのかい?」
私が頷くと、男は納得したような顔をした。
「なるほどね。それで常識はずれな質問ばかりしていたのかい。空中での暮らしと地上の暮らしのギャップに苦しんでいるというわけだね。安心しな。それは、みんなが通る道だからさ」
「どういうこと?」
私が尋ねると、男は答えた。
「人はみんな、落ちている間は、安定しない自分の身体を落ち着けたいと大地を求め、大地に辿り着いた人間は、柔らかな空気に包まれて眠ることの出来た自由な『宙』を恋い偲ぶ。それらは二律背反の関係で、両方を選ぶことは出来ない。俺も昔はそうだった。子供の時は早く地上に落ちて大人になりたいと思っていたし、大人になってからは、義務の無かった子供時代に戻りたいと思うようになった。でも、それも最早手遅れってやつさ」
「……私が聞いているのは、海人くんについてなんだけれど」
「海人くんねえ。聞いたことのない名前だね。『宙』で出会った友達かい?」
「ええ」
「これは忠告だけど、自分が『宙』に居たって事実は早く忘れた方がいいぞ。どれだけ空を想っても、俺たちはもう、空へは戻れないわけだからさ。空から地面へは、一方通行なんだ。地上に慣れることの出来ない人間は、ろくな死に方をしないよ」
「ご忠告ありがとう」
私は男に背を向け、その場を立ち去ることにした。
男の言葉は総て的外れだと思ったが、その中で一つだけ、気になったことがあった。
「俺たちはもう、空へは戻れないわけだからさ」
その言葉を聞いて、私の心臓は何故だかきゅぅと縮まった。
どうしたというのだろう。
私はこれまで、地上に来ることを望んでいたじゃないか。
どうして今更、空に戻れないことを嘆く必要がある?
私は森を抜けた後、空を見上げた。
空には、雲や植物や花が浮かんでいる。
それらはどれも穏やかで、幸せそうだ。
「空に居た時の私は、幸せだった……?」
私は呟いたが、その問いかけは地面に吸い込まれて消えた。
◇
私が《収束の地》に落ちた時から、一年の月日が流れようとしていた。
あれから私は毎日海人くんを探しに外を歩き回っていたが、それらしい人は見つからなかった。
そして海人くん探しを終えた後には、空を見上げ、かつて自分がそこに居たことを思い出すのが日課となっていた。
その頃になると私は、悟っていた。
私は空に浮かんでいた頃の自分を懐かしんでいる。
私は、また空に戻りたいと思っている。
しかし一度地上に降り立ってしまった人間はもう、空へは戻れない。
モラトリアムだということは、自分でも自覚している。
それでも、私は自分の気持ちを抑えることが出来ないのだった。
そんなある日、茜さんが倒れた。
どうやら、過労らしい。
私は夜になってからその話を聞き、慌てて病院へと向かった。
茜さんは病院の個室で、点滴を受けながら眠っていた。
私はそのあまりにも哀れな姿を見て涙を流し、茜さんの手を握った。
「どうして……どうしてそんなになるまで働き続けたの」
私が泣きながら茜さんに話しかけると、茜さんは首をこちらに傾けて、幽かに目を開けた。
「生子ちゃん……」
私は茜さんに顔を近付けて、茜さんの言葉を聞き取ろうとした。
「義務を受ける日が来たら……私が居なくても働けるよね……?」
「茜さん……」
そしてそれが、茜さんの最後の言葉となった。
茜さんは、この《収束の地》の義務に殺されたのだ。
◇
それから私は茜さんの家で、無為に毎日を過ごした。
私が義務を負わなければならなくなる日が徐々に近付いて来るが、私はそんなものを負いたくはなかった。
その頃になるともう、私は地上に存在する総てのものが嫌いになっていた。
もう一度。
もう一度だけでいいから、空に戻りたい。
「アア……」
私は家の中で、たった一人で生き続けた。
外に出ないから、新しい食べ物も手に入れることが出来ない。
だから私は、家の中に残っていた食べ物を少しずつ齧りながら、死を先延ばしにしていた。
鏡を見る度に、私の瞳が大きくなり、まるで人間以外の生き物のようにぐるぐると動いているのが分かる。
私は鏡を見ながら、このままだと自分は死を迎えると確信した。
しかし、それでもいいと思えた。
茜さんもいなくなってしまったし、このまま地上で暮らすくらいなら、死んだ方がましだ。
「アアア……」
私は窓から見える夜空に向かって意味の無い言葉を吐いたが、空はただ、手の届かない所にあり続けるだけだった。
◇
そして、日付の感覚もなくなったある時のこと。
私の住んでいる家の扉がノックされた。
私は出るつもりがなかったので返事をしなかったが、ノックをした人の声を聞いて、事情が変わった。
「生子ちゃん、いるかい? 海人だけど」
その声を聞いて――その名前を聞いて、私の失われかけていた自我が目を覚ました。
私はゆっくりと身体を起こすと、脳内でその名前を検索した。
海人――海人くん。それって、あの海人くん?
私は立ち上がると、一階へ降りて行って家の扉を開けた。
「やあ。久しぶり」
そこにいたのは、紛れもなく海人くんだった。
少し成長しているが、それでも私には、彼が海人くんであることが分かった。
「その格好……どうしたの?」
私が尋ねると、海人くんは軽く笑って頬を掻いた。
「ボロいだろ? ちょっと……あれから色々あってさ」
「私も色々あったよ……」
それから私は海人くんを家に入れ、話をした。
海人くんはどうやら、家出をしてきたようだった。
海人くんも私と同じで、そろそろ《収束の地》の義務を負わなくてはならない時期であり、それを逃れるために家出をしたらしい。
そして森を歩いていたら木こりの男に出会い、私についての情報を得たのだという。
全く――どこで縁が合うか分からないものだ。
「空に居た時は、こんなややこしいルールに縛られるなんて考えもしなかったよね」
海人くんは疲れたような顔をしてそう言った。
私は海人くんが自分と似たような考えを持っていることを知って、嬉しくなった。
「私も、同じような境遇だよ。私を育ててくれた人が、働いてる途中で死んじゃって……」
「そうなんだ……それは可哀想だったね」
海人くんは同情するような表情をした。
そして唐突に、咳をした。風邪でもひいているのだろうかと、私は心配になる。
咳をした彼は顔を上げると、明るい顔になって口を開いた。
「ところでさ。俺、この前いいことを聞いたんだ」
「いいこと?」
「うん。何でも、また空に戻れる方法があるらしい」
「……本当に?」
それは、信じられないような話だった。しかし同時に、私が心の底から望んでいた情報でもあった。
私は歓喜し、海人くんに向かって言った。
「その方法、教えてくれない?」
「もちろん。その話をするために、生子ちゃんに会いに来たんだから」
そして私は、海人くんと共に茜さんの家を出ることにした。どうやら空に戻るには、別の場所に移動しなくてはならないらしい。
「もう戻ることは無いと思うから、大事な荷物は持っていった方がいいよ」
海人くんにそう言われ、私は自分が何を持っていくべきなのかを考えた。色々なものが頭に浮かんだが、結局私は、自分が生まれた時に持っていた傘だけを持っていくことにした。
海人くんさえいれば、私には他に何もいらないのだ。
私は心の中でそんなことを思い、軽く微笑んだ。そして、海人くんの後をついて歩き始めた。
「この世界には重力というものがあるから、一度地上に落ちてしまったものは、また空へ浮かび上がることが出来ないんだ」
海人くんは歩きながら、私に言った。
「その条件下でまた宙に浮かぶには、どうすればいいと思う?」
「それは……私には分からないわ」
「だろうね。僕も、他の仲間に聞くまでは分からなかった。でも一度気付いてしまえば簡単なことさ。――もう一度、落ちればいいんだよ」
「落ちるって……地上からさらに落ちるの?」
「そうさ。僕たちは地上にいるが、地面からさらに下に落ちることが出来ないわけじゃない。例えばこんな場所なんかも――」
そう言いながら海人くんは目の前を指差した。
私がその指の先を追うと、そこには深い崖があった。
「あるわけだからね」
まだ離れているから分からないが、どうやらその崖は、相当大きなものであるらしい。
確かに、あの崖から下に落ちれば、私たちはまた宙に戻ることができるだろう。
しかし私は、少し不安に思った。
「海人くん」
「ん?」
「ここから落ちたら、もう戻っては来れないよね?」
私の言葉を聞いて、海人くんは笑った。
「あはは。面白いことを言うね生子ちゃん。君はまた、この《収束の地》に戻って来たいと思うのかい?」
そう聞かれて、私の脳裏に、木こりのおじさんと茜さんの最後の言葉がよぎった。
二律背反の空と地。
義務に殺された茜さん。
そして、空に縛られている私。
「……思わない」
「なら、そんなことは心配しないでいいんだよ」
私は海人くんのその台詞を聞いて、頷いた。
確かに、戻りたくない土地に戻る方法なんて考えるだけ無駄だ。
しかし、私にはもう一つだけ、気になることがあった。
「でも、ここから落ちたとしても、落ちることの出来る距離には限りがあるでしょう? 崖の最下層に辿り着いたら、その時はどうするの?」
それを聞いて、海人くんは頭をぽりぽりと掻いた。
「どうするかは、まだ考えていない。下がどうなっているのかは、現時点では分からないわけだからね」
「じゃあ……」
「でも、だからといってここで踏み止まるつもりはないよ。またどこかに落ちてしまったら、その時はその時さ」
私はそれでも不安だったが、海人くんがここから降りるのならと、頷いておくことにした。
「そうよね。私もまた、一度でいいからあの浮遊感を味わってみたい」
「よし。それじゃあ……」
海人くんは嬉しそうに笑ったが、急に苦しそうな顔になって、咳をした。
「大丈夫?」
私が尋ねると、「大丈夫だよ」と答える。
「じゃあ、降りようか」
海人くんが私の目を見つめてそう口にし、私は答える。
「うん」
私と海人くんは、白と青の傘を広げた。
そして離れ離れにならないように手を繋ぎ、崖から一歩、足を踏み出した。
今まで自分を支えていた物が無くなる時の不安感。
それはやがて全身が自由になる浮遊感へと転換し、私を縛るものは、海人くんと繋いだ手だけとなる。
世界が反転し、私の身体が斜めになるが、空中世界では、どんな体勢でも問題は生じない。
足から力が抜ける。
視界が回る。
ぐるぐる。
ふわふわ。
そう、それは懐かしい記憶。
自由と快楽の空間。
空気と一体になるかのような爽快感。
私は笑顔になって、海人くんの顔を見た。
「海人くん!」
「うん。僕らは戻ったんだよ……空中世界に!」
それは、圧倒的な解放感。
私はまるで生まれ変わったかのように、自分の身体を下から上へと流れてゆく空気を味わっていた。
空気に包まれている感覚。
風のゆりかごに抱かれている感覚。
私は下から上へと流れてゆく景色の中で、海人くんの手を強く握りしめた。
すると、海人くんも私の手を強く握りしめて来る。
私が海人くんの方を見ると、海人くんも笑顔で私を見ていた。
そして海人くんは、私の手を引っ張って私を抱きしめた。
身体と身体がぎゅぅと合わさる。
私も両手を海人くんの背中に回し、思い切り抱きしめた。
私は、ずっとずっとこうしたかったんだ。
それは間違いなく、私の人生の中で最も幸福な瞬間だった。
そして私たちは空中で抱きしめ合いながら、そっと唇を合わせた。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
私は海人くんと抱き合いながら、そんなことを思った。
◇
しかし、幸福の時間は長くは続かなかった。
それから数時間くらい経った時――私たちは、足の裏に地面の感触を感じた。
傘の布がボロボロになっていたのが悪かったのかもしれない。落下速度は、子供の頃に比べて随分と速いように感じられた。
私たちは空を飛ぶには、大人になり過ぎていたのだ。
私はよろめきながら地面に立ち、海人くんに捕まって自分の身体を支えた。海人くんもふらふらしながら、地面に降り立つ。
ここは、どこなのだろう。
私と海人くんは手を繋いだまま、周囲を見渡した。そこは、太陽の光がほとんど届かない、暗い場所だった。そして驚いたことに、そこには人が住んでいた。といっても、《収束の地》に住んでいた人たちとは、似ても似つかない容姿をしている。
彼らは日に当たらないせいで白い肌をしていて、まるで死神のようだった。
崖の上から落ちて来た私たちを見て、一人の男が近付いて来た。
その男は、顔に仮面のようなものを被っていた。
「おやまあ、これまた若い奴らが落ちて来たもんだね」
私は仮面の男に尋ねた。
「ここは……どこなの?」
すると、仮面の男は喉を鳴らすようにして笑った。
そして、手に持っていた杖のようなもの――傘の残骸だろうか――で周囲を指し示しながら、彼は言った。
「ここは、《最下層の地》だよ。地上にいながらにして空に憧れ、再び宙を飛びたいと夢想した愚か者が集う墓所。生きながらにして『埋没期』を迎えた亡者の世界さ」
「亡者の世界……?」
「残念だね。あんた方の人生はここに降り立った時から、とっくに終わっている」
そして仮面の男はひひひと笑いながら、私たちから離れて行った。
「か、海人くん……」
私が海人くんに話しかけると、海人くんは青ざめた顔をしていた。
「ごめん生子ちゃん……全部、俺のせいだ」
そして海人くんは、また咳をし始めた。
それは止まる気配がなく、私は焦って海人くんの背中を擦った。
やっと咳が止まった時には、海人くんは酷く体力を消耗したような顔をしていた。
「だ、大丈夫?」
私は止まる気配の無い海人くんの咳に恐怖すら覚えた。そして、そこに至ってようやく、その咳がただの咳ではないことに気付いた。
海人くん、あなたは――。
「げほげほっ。……ごめん」
海人くんは固くて湿った地面に身体を横たえた。立っていられない程、苦しいのだろうか。私は泣きそうになって、海人くんの顔を見た。
「……俺、実は病気なんだよ」
「え?」
「死に至る病ではないらしいけど……一生治らない病気なんだ。だから負わなきゃならない義務の量も減らしてもらいたかったんだけど、地上のリーダーはその頼みを受け付けてくれなかった」
「そう……なんだ」
「ほんとはね、俺は死ぬつもりだったんだよ」
海人くんは私を見ながら、囁くように言った。
その瞳からは、涙が流れているように見える。
それとも、泣いているのは私なのだろうか。
「でも一人じゃ怖かった。誰かついて来てくれる人が欲しかった」
「やめてよ……そんな話しないで……」
「だから、生子ちゃんに話しかけたんだ。最後に、生子ちゃんとまた空を飛びたかった」
そして海人くんは私の手を掴んでぐいと引き寄せた。
「悪かったと思ってる。生子ちゃんは本当ならこんな場所に来なくてもいい人だったのに。……俺が憎いかい?」
「憎くなんてないよ……けど、」
私はてっきり、海人くんと分かり合えていると思っていた。その期待が裏切られて、とても悲しい。
「生子ちゃん」
海人くんは弱弱しく微笑みながら言った。
「僕を、殺してくれ」
しかし、私は返事をすることが出来なかった。
私は何も言わずにその場から走り去った。
後ろで海人くんが私を呼ぶ声と、咳き込む音が聞こえていたが、私は総て無視した。
海人くん。
私は、あなたのことが好きだったんだよ。
私は暗く冷たい《最下層の地》で、さめざめと泣き続けた。
◇
それから数日経って海人くんの元へ戻ってみると、海人くんは死んでいた。
恐らく、自然死だろう。
しかし、海人くんの死体を見ても私の心の中には何の感情も浮かんでこなかった。
私は横に落ちていた青い傘の残骸を海人くんの身体の上に乗せてあげた。
その時、私は死体のすぐそばにキノコが生えていることに気付いた。
私はそれを摘み取ると、においを嗅いでみる。
……何とか、食べられるだろうか。
一口かじってみると、それほどまずくは感じなかった。
私は空を見上げながら、キノコを齧り続けた。
この《最下層の地》では、人は地面から生えてくるキノコや芋を食べて生活しているらしい。ここを離れている間に、他の人たちはその二つを食事として食べていた。当然、他に食事らしい食事はせず、飲み水は、空から降って来る雨を溜めてそれを飲んでいる。
ここは常に飢えと隣り合わせだし、病気になっても治療してくれる人はいない。
まさに、地獄のような所だ。
それでも私は、生きていた。
死にたい気持ちだったが、生きている。
私はまずいキノコをかりかりと食べながら、ぼーっと空を見つめながら呟いた。
「私は……何のために生まれて来たの?」
遠い空には明るい太陽が、ぼんやりと浮かんでいた。