第二章 無反応の世界
俺は目眩を感じてエレベーターの壁に手をついた。
それはまるで、自分の体内の電気信号が他の人間の身体に伝わり、再び自分の身体に戻って来たかのような感覚。《俺》という符号はエレベーター内に居た他の人間の符号と一致し、目も眩むような化学反応を起こしたのだ。そして世界が一瞬揺れるような感覚が訪れ、俺の身体は世界から消えた。
何の物語性もなく。
ただ粛々と、俺は消えたのだ。
「今――消えたよな」
「ええ、消えたましたね……私たち」
俺の背後で、男の声と女の声が会話している。その声には若干の震えと恐怖が含まれていたが、どうやら二人とも、心を落ち着けようと努力はしているようだ。
俺は揺れる視界を安定させようと、こめかみを押さえた。
「とりあえずここを出ましょう」
俺は平常通りの声を出そうとしたが、何故だか声が裏返った。こんなんじゃ生徒に笑われるな。まあ、もうあの塾で働く必要はないのかもしれないが。
誰かがボタンを押したのか、エレベーターの扉が無音で開く。
俺はまるで老人のような足取りでエレベーターを降りると、周囲を見渡した。
そこには、今までと変わりない世界が広がっていた。
土曜の昼頃に相応しい年齢層の人間が数人、ゆめりあフェンテに出入りしている。
しかし、俺は本能的に違和感を覚えた。
何かがおかしい。
どこかがおかしい。
しかし俺は思考を一旦中断し、エレベーターへと注意を向けた。
丁度、エレベーターの中にいた三人の人間が、外に出ようとしている所だった。
「さてと」
俺は軽く深呼吸をして強いて平静を装い、軽く喉を鳴らした。それから、初対面の三人の人間に呼び掛ける。
「みなさん、無事ですか?」
すると、白いワンピースを着た女の子が、俺に目を向けた。
日本人離れした大きな瞳。俺が視線を合わせると、女の子は眼球を右上方向にぐるりと回転させた後、俺を睨むように見た。
「無事が無事でないかで言えば、少なくとも私は無事ではないわね」
俺は少し怯んで、自分の受け持っている生徒よりも年齢の低い女の子を見た。どこか外国人っぽい顔立ちだから分かりにくいが、小学生くらいだろうか。左手に持った白いボロ傘には、一体どんな意味があるのだろう。
「どこか怪我でもしたのかい? 見た感じだと、特に傷はついてないけど」
「肉体的には何の被害も受けていないけれど、それだけで無事だと判断するのは早計だと思うわ。精神的には、とてもショックを受けたもの」
女の子は当たり前のことを言うかのように、淡々とそう言った。
俺は予想外の言葉を受けて、再び怯む。
「ああ、そういうことね……それなら俺も無事ではないかな」
俺は曖昧に頷きながら答えた。まだ二言会話しただけだが、俺は何となく、この女の子は苦手だなと思った。
「無事かどうかなんてどうでもいい」
するとその時、ダンボールを被った男が言った。
「ここは一体どこなんだ。そっちの方が重要だろ」
ダンボールの男は吐き捨てるような喋り方をしていた。こちらもどうやら、俺の苦手とするタイプの人間らしい。それがどれだけ偉い立場の人間であっても、俺は、言葉を大切にしない人間には苦手意識を感じるのだった。
「見た感じだと、あんまり元の世界とは変わっていないみたいだね」
俺はそう答えてみせたが、全身を白地にマーブルの服で固めた女が横から口を挟んだ。
「元の世界と変わっていない――それって、冗談か何かですか?」
「……いや、だって、風景は元の世界と変わりないでしょう?」
それを聞いて、マーブルの女は周囲を見渡し、考え込むような表情になった。
そして道を歩きながらペットボトルで清涼飲料水を飲む大学生くらいの男を指差し、彼女は言った。
「あれを見ても、まだ同じことが言えますか?」
「……俺はあなたが何を言っているのか分からないです」
するとダンボールの男が近付いて来た。
「少なくとも、オレたちが元居た世界でないことは間違いないだろうよ。それは同意してくれるかな? 眼鏡さん」
それは俺もほぼ確信していたので、俺はダンボールの顔を見ながら頷いて見せた。あの浮遊感や自我の消失感は、紛れもなく本物だった。恐らく、ここに居る四人の人間総てが、あの感覚を味わったのだろう。
ところでこのダンボールは、某大道芸人の真似か何かだろうか。灰色の服を着ている所までは一致しているが、しかし彼はあの尊敬すべき大道芸人のように優しい雰囲気は全く見せていなかった。むしろ、狼のように暴力的な空気を身に纏っている。
ダンボールの男はそれから、他の二人の方を向いて言った。
「じゃあ、どうして俺たちがここへ来てしまったのかを考えようか。俺たちが世界から消え、そして別の世界に来たことには、何か理由があるはずだ」
「そんなの決まっているでしょう」
白いワンピースの女の子が、当然のことを言うような口調で言った。
「《人間テトリス》よ」
それを聞いて、俺たちは一瞬、黙りこくった。
それは恐らく、誰もが予感していたことなのだろう。しかし、まさか自分の身にそれが振りかかるとは思っていなかったに違いない。不幸とは得てして自覚しないままに始まり、自覚しないままに終わるのだ。俺も最近、似たような経験をして死にかけたことがある……ような気がする。しかしそれがどんな経験だったのか、俺は思い出すことが出来なかった。
「《人間テトリス》だとすると、俺たちは別の位相の世界に来てしまった可能性がありますね」
俺は生徒に話した五次元世界の話を思い出しながら、そう口にした。
「だから、迂闊な行動は慎んだ方がいいかもしれない」
「そうは言うけどな眼鏡さん」
ダンボールの男は上方向を見上げながら両手を広げた。
「迂闊だとか軽率だとか言って一切行動しなかったら、俺たちは今の状況について何ら情報を手に入れることが出来なくなるぜ。俺たちが今するべきなのは、具体的な行動だろう? 行動しなければ、物事は一歩も進まないんだからさ」
それを聞いて、ボロ傘を持った女の子も頷いた。
「そうね。私たちはまず、現状認識をしなければならないと思う。そのために、この世界を探索することを提案するわ」
「探索……か。安全であることが確認できている状況なら、その選択肢を取るのが一番いいと思うんだけどね」
俺はそう言いながら、心の中で、よく知らない世界を歩き回るのは危険な行為なんじゃないかと思っていた。しかしどうやら、ダンボールの男は行動する気満々のようだった。
「そうだな。俺もまずは探索するのがいいと思う」
そして、マーブル色の服を着た女の方に目を向ける。マーブルの女は顎に手を当てて考えるような目をした後、口を開いた。
「私も賛成です。他に取れる選択肢が思いつかないので」
そして、三人は俺を見る。俺は肩を竦めた。
「それでいいんじゃないですか」
これだから多数決は嫌いなのだ。多数決社会において、マイノリティーの意見は塵芥に等しい。もっと個人行動を認めてはくれないだろうか。
「じゃあ、しばらく経ったらここに戻ろうぜ」
ダンボールの男はそう言うと、ゆめりあフェンテの方向に歩いて行った。ボロ傘の少女も、マーブルの女も、それぞれ別の方向に歩いてゆく。
ここが元の世界と同じ規律に則って動いているのなら、あの三人は職務質問されても文句は言えないだろうな。
俺はそんなことを考えながら、自分はどこへ向かうか考えることにした。
……といっても、選択肢はそれほどないか。
俺はとりあえず、ジラッフェに戻ってみることにした。あの浮遊感や世界からの消失感が俺の錯覚であったとしたら、時間内に戻らないと怒られてしまう。
まあでも、その場合はあの三人の説明がつかないか。
――あの三人も俺の妄想とか?
いや、どこの叙述トリックだ。
そんなことを考えながら道を歩いていたのが悪かったのか、俺は前から歩いて来た会社員風のおじさんにぶつかりそうになった。というか、ぶつかった。肩が派手に衝突し、おじさんの持っていた鞄が地面に落ち、中身が四方八方に散らばる。
「あ、すみません」
俺は慌てて謝った。そして、散らばった書類やら筆記用具やらを拾おうとする。
しかし、おじさんは俺の言葉も俺の行為も全然意識にないような顔で、ただ黙って落としたものを拾い始めた。俺がペンを拾うと、それを横から奪い取るようにして取る。
ぶつかられたことを怒っているのだろうか。確かに考え事をしながら歩いていた俺も悪いが、それにしたって、ここまであからさまに無視することはないんじゃないか。
俺はそれからしばらく散らばったものを拾う手伝いをしていたが、どうやら邪魔にしかなっていないようなので、その場を離れることにした。少し離れて見ていると、おじさんは自分の手で総ての落し物を拾い上げ、それから時計を見ながら早足で駅へと向かって歩いて行った。
何か急いで行かなくてはならない会議でもあったのだろうか。だとしたら、悪いことをしたな。
俺は少しだけ反省した。
(それにしても)
俺は周囲を見渡しながら思った。
(あれだけ派手に散らばったのに誰も拾うのを手伝わないなんて、ありえないよな)
ここは駅前だから、それなりに人通りはある。しかし、俺とおじさんが落し物を拾っている時、誰も手伝おうと名乗り出なかったし、それどころか、視線を向ける人も居なかった。
薄情な都会人とか優しさを失った現代人とか、いくつかのフレーズが脳裏に浮かぶが、恐らくそれは的外れな考えだろうと思えた。なぜなら、周囲を歩いている人間は、誰も、おじさんと俺の存在に気付いてすらいないようだったからだ。
最初にこの世界に来た時に覚えた違和感が、徐々に大きくなる。
俺は、道を歩く人を眺めた。
誰も人の顔を見ないし、誰も人の行動に関心を払っていない。
まるで誰もが、世界に自分一人しか存在しないと思い込んでいるかのようだった。
「自分しかいない世界、か」
俺はなんとなくそう呟いたが、誰も振りかえることはなかった。
そこにずっと立っていても仕方がないので、俺はジラッフェへ向かうことにした。信号のない道を渡り、本屋の前を通って、白いビルの階段を上る。
二階にある塾に入る前に、自分の身だしなみを確かめておく。以前、ネクタイを緩めたままにして塾に戻ったら、塾長にそれとなく注意されたことがある。別に嫌な言い方ではなかったが、俺はなるべく自分の評価を落とされたくないので、それからは身だしなみにも気を使うようにしていた。
俺は自動ドアから中に入り、
「ただいま戻りました」
と挨拶をした。この塾は挨拶に厳しい所なので、出勤した時、帰宅時、外出する時、外出から帰って来た時の挨拶が、総て決まっているのだ。そして、誰かが挨拶をした時には、中にいる講師は全員で、挨拶をし返さなくてはならない。
しかし、俺の挨拶に返事をする人はいなかった。
みんな出払っているのかと思ったが、そんなことはなかった。中にはジラッフェの社員の人を含めて、約二十人の講師が待機している。丁度、昼休みが終わる頃なので、次の授業を受け持つ講師は、ほぼ全員がそこにいるはずだった。
それなのに、誰も俺に挨拶を返さないし、俺に視線を向けることすらしない。みんな俯いて、次の自分の授業の準備をしている。
俺はしばらく入り口に立っていたが、昼休み終了のチャイムが鳴ったので、慌てて講師控え室に向かった。授業時間の直前には一分間ミーティングというものがあり、講師は必ず、それを聞かなくてはならないのだ。
俺が自分の席に戻ると同時に、塾長が講師の前に立つ。そして、講師は全員立ち上がった。
塾長はいつもこの一分間ミーティングで、まるで舞台の上の役者のように講師に話しかけ、ジョークを言って笑わせ、身体全体を使って講師とコミュニケーションを取る。
そして俺は、そんな塾長の演技力を評価していた。
フレンドリーに講師と接してその仕事ぶりや悩みを聞きだしながら、同時に慣れ慣れしいと思われないように距離を取っている。
俺は昔、とある青春小説で「誰かを尊敬するような人間はどれだけ頑張っても二番手にしかなれない」という話を聞いていたからあまり人を尊敬しないようにしていたが、それでも、この塾長は特別だった。
しかし、今日の塾長はいつもと違った。
普段通りに事務的報告はしているのだが、一度も講師に絡もうとしない。
ずっと、下を向いて喋っていた。
「では、次の授業も明るく爽やかで朗らかに、いってらっしゃい」
塾長のその言葉に講師は「いってきます」と答えるが、塾長自身が全然明るく爽やかで朗らかではない。俺も「いってきます」と答えたものの、何となく気になって塾長に近寄った。
「あの、坂本塾長」
俺は塾長に声をかけた。マニュアルでは、保護者の人が聞いた時に分かりやすいように、社員の人を呼ぶ時は「名字+役職名」で呼ぶことになっている。
しかし、俺が話しかけても塾長は返事をしなかった。
俺はちょっとためらって塾長の目の前で手を振ってみたが、全く反応しない。
「見えていない……のか」
俺は、この世界に居る人間は、何があろうと他人の行動に反応しないのだと確信した。
やはり、俺は元居た世界とは別の位相の世界に来ているのだ。
幸い、異形の化物などはいないようだが……それでも、人と会話出来ないというのはかなり異常だ。
俺は日ごろの恨みということで(実際は恨む要素なんてないが)軽く塾長の頭にチョップをすると、三階の授業ブースを覗いてみることにした。部屋の中を歩きながら個室を覗いてみると、講師と生徒が視線を合わせないようにしながら、ただ事務的に授業を行っていた。
面白みのない機械的な作業だが、この世界の方が生徒の平均学力は高いかもしれないな、なんてことを思いながら、俺はジラッフェを後にすることにした。
ゆめりあ広場に戻ると、そこには一人の男が居た。
ダンボールを頭に被った、あの男だ。
「よう。何か面白いものを見つけたか?」
そう話しかけて来たので、俺は首を横に振った。
「駄目ですね。人と会話出来ないから、情報収集が不可能だった」
「そうか。オレもそこらを歩いている人間を締め上げて会話を成立させようとしたが、誰も口を割らなかった。どうやらここは、他人に干渉できない世界らしいな」
ダンボールの男が指差した先には、さっき見かけた大学生が気絶して倒れていた。空のペットボトルがその横に転がっている。一体、何をされたのだろうか。暴力を振るわれても抵抗できず、気付くことも出来ないというのは、恐ろしいことだ。
「さっきまでは半信半疑だったが、やっと確信したよ。――オレたちは、《人間テトリス》に巻き込まれた」
ダンボールの男はそう言って苦笑いをした。恐らく、どういうリアクションをしていいのか分からないのだろう。俺だって、どういう反応をすればいいのか分からない。
己の不幸を呪えばいいのか。
神に抗議の祈りを捧げればいいのか。
あるいは、今の内に自害しておくべきなのか。
気付くと、ダンボールの男が俺に向かって手を差し出した。
「そういえば、自己紹介をしていなかったな。オレは御厨明楽って名前だ。よろしく」
俺は耳から入って来たミクリヤアキラという名前を脳内で漢字変換した。珍しい名前だ、という感想を持つ。
そして、俺も手を差し出した。
「片山響です。響とでも呼んで下さい」
俺とダンボールの男――明楽は、握手をした。
「ところで」
明楽は握手をし終えた後、俺に向かって言った。
「この世界には畑がないようだが、人はどうやって生活しているんだろうな」
「畑?」
俺は予想もしていなかった単語が出て来て面食らった。
「畑なら多分……もうちょっと郊外に行けば見つかると思いますよ。まあ、俺もこの世界このことはよく知らないので、確信は持てないですが」
「郊外か――なら、この街に住んでいる人はみんな、郊外で生まれたんだな」
明楽は考え込むようにしてそう言った。
俺は明楽の言っていることがよく理解できなかったので、こう問い返した。
「いや……この街にも病院があるから、多分、その病院で生まれた人も相当数居ると思いますよ。……というか、何故郊外で生まれたと思うんですか?」
すると、明楽は驚いたようにこちらを見た。今気付いたが、ダンボールには目の部分に穴が空いていて、そこから前を見ることが出来るようになっているようだった。
明楽は少しの間黙ると、それから言った。
「病院で生まれる? 響――お前は何を言っているんだ」
俺は明楽の言葉を聞いて得体のしれない違和感を覚え、口を開いた。
「人は病院で生まれるでしょう? もっと言うのなら、人は子宮から生まれるんです。出産は一人で行うには危険過ぎる行為だから、病院で医者の立会いのもとに行わなければならない」
それを聞いて、明楽はこう言った。それは、俺にとっては衝撃的な台詞だった。
「人が子宮から生まれるんなら、その子宮の持ち主は、どこから生まれるんだ?」
俺は何かを言おうとしたが、言葉が出て来なかった。
ダンボールのせいで明楽の表情は窺えないが、どうやら、冗談を言っているつもりでもないようだ。
鶏が先か卵が先か、なんて議論があるが、明楽は今、その議論をしたくてそう言ったわけではないのだろう。
明楽のこの疑問はもっと根本的で、もっと致命的な認識のズレを含んでいる。
その時、足音が聞こえて俺は振り返った。
そこには、ボロ傘を持った少女とマーブルの女が居た。どうやら、探索は終わったようだ。表情を見る限り、目覚ましい成果はあげられなかったらしい。
「なあ、お二人さん」
明楽は二人に目を向け、声を大きくして言った。
「人間は、どこから生まれると思う?」
それを聞いて、二人は顔を見合わせた。
そして順に、口を開く。
「空から」
「白紙から」
二人ともさも当然のことを言うかのように、真面目な表情でそう答えた。
そしてそう口にした後、二人は顔を見合わせる。
明楽は肩を竦めて、「素敵なジョークだ」と呟く。
俺も二人の返事を聞いて、明楽同様、この価値観の差異が何を表すのかに気付いた。
(どうやら俺たちは、全員別の世界の住人らしい)
俺は状況がますますややこしくなったことを確信して、軽く溜息を吐いた。
◇
「人の体内から人が生まれるなんて、生々しいわね。あなたの世界では、人は倍々算の原理で繁殖しているの? あるいは、細胞分裂するアメーバと同列の存在なのかしら」
ボロ傘を持った少女――雨野生子という名前らしい――は俺の発言を聞いて、そんな反応を示した。
他の二人も、大体似たような反応だった。
確かに、俺以外の三人の世界における人の生まれ方は、何というか――まるで子供向けのお伽噺のように空想的で、生々しさとは無縁の存在だ。特に、白紙から人の生まれる世界については、メルヘンチックで俺も素敵だとは思う。だが、しかし――自分の生きて来た世界を否定されるのは、何だか嫌な気分になるな。
「私たちが元々、別の世界の住人だとしても」
マーブル色のベレー帽を被った女――辻花音が口を開いた。
「特に問題は生じないと思います。結局、誰の居た世界とも位相のずれた世界に居ることには違いないので」
「それは違うぞ」
明楽が一歩前に出て、花音に向かって言う。
「オレたちが違う世界の住人だという事実は、元の世界に戻る難易度を数段階上げているはずだ。何故なら、全員が別の世界に戻ろうとしたら、最終的にオレたちは、個人で行動しなければならなくなるわけだからな」
「元の世界に戻る?」
明楽の台詞を聞いて、今度は生子が反応した。大きな瞳を見開いて、明楽を見つめる。
「そんなこと、可能なの?」
すると明楽は、ゆめりあ広場の中央にある椅子の上を指差した。
俺はその指先を見てみるが、それはただの椅子にしか見えない。
――いや、よく見ると、文字が書いてある?
「さっき、ここでお前たちを待っている時に見つけたんだ。どうやら、俺たちの他にも《人間テトリス》に遭っているやつがいるみたいだぜ?」
俺と花音と生子は椅子に顔を近付け、そこに書かれている文字を読んだ。
まるで筆で描かれたような隷書体。
そこには、こう書かれていた。
「 人間凹凸 に遭遇した者。
ここから脱出したければ、
大泉図書館二二一Bまで来るように 」
「凹凸って、テトリスって読むんだろうか」
「多分、そうだろうな。この状況で、それ以外の読み方はあり得ない」
俺の呟きに対して、明楽は答えた。
それにしても、二二一Bって。
俺は心の中で突っ込みを入れた。
恐らく書架番号か何かなのだろうが、それにしたって、ここまであからさまな数字を選ばなくてもいいのに。
この文章を書いた人は、俺と同じ世界の住人なのだろうか。少なくとも、俺と同じ趣味嗜好を持つ人間であることは間違いなさそうだ。
「この大泉図書館って所に行けば、この世界から脱出出来るのかしら」
生子が疑わしそうな顔をしてそう言うと、花音が答えた。
「この書き方からすると、そうじゃなきゃ詐欺だと思う」
まあそれでも、誰かが悪意を持って書いた可能性も捨てきれないのは確かだろう。
しかし、俺たちは今、この世界について何の情報も持っていないのだ。
だから、このラクガキを頼る他に、選択肢が存在しない。
「とりあえず、大泉図書館に行ってみましょうか。俺の居た世界と建造物の配置が変わっていないのなら、場所は分かるので」
俺がそう言うと、三人は同意した。
そうして、俺は他の三人を大泉図書館まで案内することになった。
◇
当然だが、道中ですれ違った人は誰も俺たちに目を向けなかった。
俺の元居た世界ならかなり目立つ集団になっていたと思うので、その点は良かったということができるだろう。
「ここが大泉図書館か。図書館とは言ってもそれほど大きい建物ではないな」
明楽は俺が案内した建物を見て、そんな風に言った。
「まあ地方の図書館なので大きさはこれくらいが普通でしょう。読みたい本を読んだり勉強をしたりする程度なら十分な設備ですよ」
そんな会話をしながら、俺たちは図書館の中に入る。
中では、図書司書の人たちが歩き回り、本の整理をしていた。
「さて、二二一Bってのはこの中のどこにあるのかしら」
生子が顔を動かさないまま瞳をぐるりと回し、図書館内を見渡す。そして、持っていた傘で近くにいた司書の人の背中を突っついた。
「そこのあなた。案内しなさい」
しかし、この世界の人間は他人の行動に反応しないので、その司書の人は、ただ黙ってどこかへ行ってしまった。その背中には、傘で突っつかれたせいで泥が付着している。可哀想に。
「ここには俺の顔見知りもいるから、そういう行為はなるべく控えて欲しいな」
俺がそう言うと、生子はぎょろりとした瞳で俺を見た。
「無視してくる奴には、無視できなくなるまで攻撃してやればいいのよ」
そんな意味深な言葉を吐き捨て、俺に背中を見せる。一体、どういう人生観をしているのだろう。
「それで、二二一Bってのはどこなんだ?」
明楽が尋ねたので、俺は近くにあった図書館内の書棚表を見て、二百番台の書架を探した。
「奥の方にあるみたいですね。行ってみよう」
そうして俺たちは、図書館の奥までやって来た。
「二二一B……あった」
そう呟きながら、俺は二二一Bの書棚を見た。
そこはどうやら、日本書紀などの古い文献に関する本が集められた書棚のようだった。
「何か、参考になりそうな本はあるか?」
明楽が聞いてくるが、それらしいものは見つからない。
『日本書紀の読み方』だとか『神代紀』だとか、そんなものが《人間テトリス》を解明する鍵だとは思えないし。
そんなことを考えていると、一歩離れて本の並びを見ていた花音が言った。
「そこにノートみたいなものがあるけど、それは何なのかしら」
俺は花音の指先を視線で追った。そして、古びたよれよれのノートをそこに発見する。
俺はそれを手に取り、表紙を見た。
『人間凹凸という事象に関する考察と推論』
表紙の中央にはタイトルらしきそんな言葉が記されている。
そして右下の方には、「ウツムロ」という文字が書かれていた。
ウツムロ――これを書いた人間の名前なのだろうか。
「難しそうだな」
明楽が表紙を見ただけで弱音を吐く。
「とにかく、読んでみよう」
俺は逆に、タイトルを見て何故だか胸が高鳴った。
そして俺は、そのノートを開いた。
◆
人は神から与えられたたった一度の人生を享受しながらも、人生そのものについて考える機会は殆ど無い。たまに、「自分はなぜ生まれたのか」「この世で何をすべきなのか」ということについて想いを巡らせたりもするが、明確な答えを出せないままにその思考は中断される。
僕はそんな人間たちを数多く見て来た。
そして、彼らにある一つの共通点を見つけた。
それは、彼らは必ず、彼らが人生を送っていく際にナニカを積み上げることで、人生が価値あるものになると信じ込んでいることである。そのナニカは努力であったり、人間関係であったり、あるいは、いわゆる人生経験と呼ばれるものだったりする。
しかし、よく考えてみて欲しい。
僕たちは人間であり、人間であるがゆえに、いつかは死が訪れる。
死とはその人間がそれまで積み上げたものが崩壊することであり、そして崩壊した後に残るのは、一片の塵も存在しない無である。
僕たちは誰もが、やがて消えるのだ。
きれいさっぱり。
忽然と。
何も残さず。
何も残らず。
僕たちは消える。
なのにどうして、人は何かを積み上げようとするのだろう。
自己満足なのだろうか。
あるいは、やがて来たる自我の消滅への恐怖を和らげようと、自分の行為には意味があると無理やり信じ込んでいるのだろうか。
彼らが積み上げたものなど、わずかな不幸が重なっただけで消えるというのに。
自然現象に巻き込まれただけで、跡形もなく崩壊するというのに。
それでも彼らは、空虚に嬉しそうな顔をして、自分の人生を積み上げてゆく。
それは無駄な行為であると言わざるを得ない。
そして、今回僕が遭遇した自然現象――人間凹凸も、彼ら人間の人生を崩壊させる、分かり易い例の一つだと言える。
人間凹凸に遭遇した者は、自分がそれまでナニカを積み上げて来た舞台から引き剥がされ、裸で、見知らぬ世界へと放り込まれる。
これが、人生の崩壊と言わずに何と言うだろう。
積み上げることに価値を見出す人間は、自分が人間凹凸に遭ったのだと認識した時点で、死を選びたくなるらしい。実際、僕が会った人間の中に、自ら死を選んだ人間は何人か居た。みんな違う世界の住人だというのに、積み上げるという行為に価値を見出すという点では共通しているようだ。
僕はそんな彼らを観察しながら、人間凹凸について考えていた。
そもそも、人間凹凸はどうして発生するか。
僕はこの《無反応の世界》に来る前の世界で、とある老人と出会った。
その老人はまるで「べろの世界」から来たのではないかと思うような容貌をしていたが、頭はとても良かった。そして彼は、僕に人間凹凸に関する考察を話してくれた。
彼の話によると、人間凹凸は、同じ要素――符号を持った人間が、同じ座標軸に存在した時に起こる、転移現象なのだそうだ。「符号」や「座標軸」という単語についても具体的に話をしていたが、僕にはその意味がよく理解できなかった。
ともかく、同じ方向性の人間が集まった時に別の世界へ転移してしまうという現象だという認識で間違いないらしい。そしてその現象は最近になって始まったものではなく、頻度は少ないものの、昔から起こっていたことらしい。確かに、過去の資料を見ていると、人が突然消えたという事例は、それなりに見つけることが出来る。
そして消えた人間たちは、転移させられた時点とは別の軸に存在する世界へと飛ばされる。これを読んでいる人間がいるとすれば、君たちは今、誰もが自分や他人の人生を無価値と考える、《無反応の世界》にやって来ているのだろう。その世界の人間は、ナニカを積み上げるとか積み上げないとか、そういう選択以前に、人生というものに対して価値を見出していないのだ。
しかし、嘆く必要はない。
君たちはすでに「同じ符号を持った人間たち」が「同じ座標軸」に存在しているのだから、再びこの世界から別の軸の世界へと転移することが可能なのだ。
その方法は単純。君たちが、今居る世界にとっての異物になればいい。
この世界で言うのなら、君たちはこの「他人は無価値だ」と断じる世界において、他人と心を結びつけることで、この世界にとっての異物となり、弾き出されることが出来る。
具体的に言うと、死への恐怖などが心を結びつけるのに最適だろう。
君たちはこの世界を脱出するためには、一度死ぬ必要がある、ということだ。
失敗するのが怖いだろうが、僕がその世界で死骸となって残っていないのなら、その方法は間違いのない方法だ。だから、安心して欲しい。
もちろん、転移される先がどんな世界になるのかは、僕の知ったことではないが。
それでは、君たちが素敵な人生を送れることを祈って。
あなかしこ
◆
音読を終えた俺は、ノートを閉じて三人の顔を見た。
みんな、神妙な表情をしていた。まあ、明楽は表情が分からないが。
「つまり、死ねってことなのかしら」
生子が傘を持ち上げ、ノートを傘で指し示した。
「死ねって言う方が死ね」
「いや、多分そういうことではないと思う」
俺は慌てて反論した。
「恐らくこの人――ウツムロは、俺たちに実際に死ねと言っているわけではないんだ。必要なのは死への恐怖、もっと言えば俺たちの心を結びつけることであって、死ぬことではない」
俺の読解力などたかが知れているが、まあそれで大体合っている……と思う。
「ちょっとそれ、見せてもらえる?」
花音がそう言ったので、俺はよれよれのノートを花音に渡した。
花音はノートを開いて舐めるように文章を見つめ、そして、ノートを閉じた。速読というやつだろうか。
「このウツムロって人の文章、自分以外の人間総てを見下したような文体をしているわ。でも、あえて嘘を口にするようなタイプの人ではないみたい。人が動物に嘘を言わないのと同じで、この人は他者に対して嘘を言うことに価値を見出していないから」
「文章だけでそこまで分かるんですか?」
俺がそう尋ねると、花音は赤い眼鏡をちょっと持ち上げてみせた。
「私は、白紙から人の生まれる世界の住人ですよ?」
……それは確かに、説得力のある言葉だった。
「じゃあ、これからどうするのかを考えることにしようぜ」
明楽が手を擦り合わせるようにして言った。
「まず、多数決をすることにしよう。この世界から脱出することに賛成の奴」
明楽はそう言いながら、自分で手を挙げた。
花音もそれに合わせて、手を挙げる。
「ねえ」
生子がそれを見て、口を開いた。
「それで死んだら、どうするの?」
明楽は手を挙げながら笑って見せた。
「ここでこのノートの持ち主を信じて自分の命を失うか、はたまた、人間なんて石ころ以下の存在でしかないと断じるこの世界で無為に生き延びるか――どちらかを選べと言われたら、答えは決まっていると思うけどな」
「………」
生子はそれを聞いて、唇を尖らせながら腕を上げた。
後は、俺だけか。
「響はどうするんだ?」
俺は尋ねられて、この世界で会ったおじさんや塾長や図書司書の人を脳裏に思い浮かべた。
鞄の中身をぶちまけられても何も言わなかったおじさん。
バイトの学生にチョップされても怒らなかった塾長。
背中を傘で突き刺されても気付けなかった図書司書。
俺はここに残りたいのか、あるいは命を賭してでも脱出したいのか。
そんなの、答えは決まってる。
俺は手を挙げた。
「他人に認めてもらえない人生なんて、つまらないからね」
俺はそう言って、笑って見せた。
明楽もそんな俺の台詞を聞いて、大きな声で笑う。
「じゃあ決定だな。みんな一丸となって、死のうぜ」
その言い方はやめて欲しいと思うのは俺だけか。
「でも、死への恐怖を共通して得られる方法なんて、何かあるかしら」
花音がそう言うと、生子が答えた。
「それなら私にいい案があるわ。というか、これ以外の死に方なら私は受け付けない」
「どんな死に方だ?」
明楽が尋ねると、生子はにやりと笑い、眼球をぐるりと回した。
「飛び降り自殺よ。なんてったって、私は空から生まれたんだからね。もう一度、あの感覚を味わってみたいわ」
そうして俺たちは、近くの高層マンションへと向かうことになった。
◇
またもや俺の案内により、図書館から一分ほど歩いた所にある高層マンションの屋上に俺たちは辿り着いた。
このマンションには俺の知り合いが住んでいるわけではないし、俺自身も住んでいるわけではないのだが、何故だか以前、登ったことがあった。理由はよく覚えていない。
「私たちの世界では、人はみんな傘を手にして、それを広げて空から生まれて来るのよ」
「メリー・ポピンズですか」
俺は呟いたが、どうやら風のせいで生子には聞こえなかったようだ。
マンションの柵越しに、下を覗いてみる。
目も眩むような距離感。
壊れた遠近法。
俺は三秒以上見ていることが出来ずに、視線を逸らした。
前から思っていたが、俺は少しばかり、臆病者なのかもしれない。
「柵があって降りられないわね」
花音が飛び降り防止用の柵を見ながら言った。
「柵なんてものはな、」
すると明楽が前に出て、足を上げた。
そして力を溜め、思いっきり柵を蹴り飛ばす。
柵はひしゃげて吹き飛び、遥か下界へと落ちて行った。
「壊すためにあるものなんだよ」
……やはり俺は、この男が苦手だ。
それから俺たちは、手を繋いだ。
生子、俺、花音、明楽、の順。
生子はボロ傘を開くと、それを上に掲げた。
恐らくそれはわずかばかりの空気抵抗ももたらさないと思うのだが、生子は自分が生まれた時のことを思い出して興奮し、それどころではないらしい。
生子の世界では、《生まれる》ということが快楽に直結していたのだろうか。
「いざ、収束の地へ!」
生子はそう叫び、屋上から何もない空間へと飛び降りた。
それに引っ張られるように俺が、花音が、そして明楽が、空中へと足を踏み出す。
それまで自分を支えていたものが無くなった時の解放感と不安感。
そしてそれはすぐに、死への恐怖感へと変換される。
俺は、死ぬのだろうか。
その時、俺の瞳は遥か先にあるアスファルトではなく、白い部屋を見ていた。
白い部屋の中では、俺が座っている。
そしてそこには、傘を持った雨野生子の姿が――。
俺の意識は、そこで消失した。