第一章 人間テトリス――human’block
不運に不運を重ねると神様が同情して、一枚のコインをくれるらしい。
そんな逸話を聞いたことがあるが、俺はその話を信じてはいなかった。
仮に、己の不幸を嘆くあなたの足元にコインを投げる者が現れたとしても、それは恐らく、詐欺師か敬虔な宗教家か選挙前の政治家か、あるいは珍しい所で、同情心で肥え太った金持ちか――のどれかだろう。
神様は、コインなんて即物的なものをくれたりはしない。
偶像崇拝を禁じているとある宗教の映画を見たことがあるが、その映画では、主役である聖人が、顔も身体も声すらも映されてはいなかった。映画は彼の行動を他の人民たちの行動や声で説明し、時に彼の視点で映像を撮り、物語を進めていった。
神やそれに類する神性を帯びた存在は、本来、それくらいヴェールに包まれていなければならないのだ。
コインをほいほい渡すような神様など、誰も望んでいないし、誰も尊敬しない。
そんなわけで、俺はこの世界に神様がいるにしても、人間に分かり易い恩赦や裁きなど与えないんじゃないかと思っている。
俺がどれだけ献身的な善行を働こうが、はたまた、どれだけ残虐で冷酷非道な悪事を働こうが、神様は俺ごとき小さき存在に、何の啓示も与えたりはしないのだ。
俺たち人間が神の子だと仮定するなら、それはさながら放任主義のようでもあるし、悪く言えば、ネグレクトのようでもある。けれどもそれは、親が自分に構ってくれるものだと何の根拠もなく信じている赤子のような理屈だと言う事も出来るだろう。
親とは本来、自分に生という名の可能性を与えてくれたことを感謝し、その恩返しをすべき対象なのだ。決して、いつまでも自分の世話をしてもらえると思ってはいけない。
さてと。
そんなことを考えていたのが悪かったのか、あるいは初めから決められていたことなのか――俺はその日、二十年間生きて来た中で、最大級の不幸を体験した。
恐らく、俺のような一人間にその存在のあり方を示唆されてカチンときた、神様の裁きなのだろうと思う。
俺はゆめりあフェンテで昼食を食べ終えて、エレベーターに乗ってバイト先に戻ろうとしていた。
俺は個別塾の臨時講師のアルバイトをしているので、この場合、バイト先とは「ジラッフェ」という塾のことを表している。お分かりだと思うが、ジラッフェとは英語で「きりん」のことである。どうしてこんな童話的な名前を付けたのかは、俺にはよく分からない。
ゆめりあフェンテはジラッフェと比べて高い位置にあるので、移動をする時には、エレベーターに乗る必要があった。階段でもいいのだが、俺は歩くことすら回避したいと思うくらいのめんどくさがりなので、いつもエレベーターを選択していた。
俺はこの時間帯にいつもいるパン屋のお姉さんのことを思い浮かべながら、エレベーターに向かって歩いて行った。
そのエレベーターは普段、使用者が老人くらいしかおらず、空いているのだが、今日はなぜだか使う人が多いようだった。女性が一人入って行く。男性が一人入って行く。女の子が一人入って行く。俺が見ているだけで、三人の人間が入って行った。今日はゆめりあフェンテで何か、イベントでもあったのだろうか。そんなことを考えながら、俺は小走りでエレベーターへ向かい、扉を閉められる前に何とか乗ることが出来た。
夏に走るのは汗をかくから嫌なんだよなあと思いながら、俺はエレベーター内で軽く溜息を吐いた。
――そしてその瞬間、俺の背中にざらりとした何かが走った。
それは目眩がする程、暴力的な違和感。
日常の中で感じる不吉な予感が児戯に見えるほどに明確な、確信を伴った胸騒ぎ。
俺は、自分でも気付かないうちに呼吸を止めていた。
そしてゆっくりと顔を上げ、エレベーター内を見る。
そこには、三人の人間が居た。
一人は、ボロ傘を持った女の子。俺を見上げる瞳が大きく開き、眼球がぐるりと回る。
そしてその隣に居るのは、ダンボールを頭に被った男。被っているダンボールには、デフォルメした笑顔がマジックで描かれている。
三人目の人間は、白い生地に明るい色のマーブルを散らばした服を着ている、二十歳くらいの女だった。赤い眼鏡をかけ、頭には、芸術家がよく被るような形状のベレー帽を乗せている。俺は何故だか、彼女を見て人間以外の存在――絵の具とか――を連想した。
「………」
俺は、何も喋らなかった。
というより、何も喋れなかった。
他の3人も恐らく、そうなのだろう。
誰も、口を開こうとはしなかった。
俺から見て、その3人は明らかに、何の関わりもない人たちだった。
本来なら、一瞬視界に入れて、そのまま視界から外して忘れてしまうような人たち。
しかし俺は何故だか、その3人を凝視していた。
そして彼らも、俺のことを凝視していた。
彼らを見ていて沸き立つ、原因不明の同族意識。
それはまるで、慣れない土地で見知った人に出会った時のような。
あるいはまるで、混んでいる電車の中で同窓生を見つけた時のような。
だが、見ず知らずの人間にそんな感情を抱くのは、不自然だ。作為的だと言ってもいい。
俺の脳内では、秒感覚で危険信号が鳴らされていた。
よく考えろ。流されるな。
お前は、この状況をよく知っている。
朝の授業で、生徒にその話をし終えたばかりのはずだ。
俺の脳は焦燥で空回りし、それでもやがて、目指す単語を探し終える。
――《人間テトリス》。
俺はすぐに、そのエレベーターを降りようとした。
閉まっている扉に手を掛け、「開」のボタンを連打する。
しかし、もう手遅れだった。
俺はその場にいた3人と一緒に、この世界から消えた。
忽然と。
何も残さず。
真っ白に。
俺はそうして、人生を抹消されたのだった。
消える瞬間、俺は白い部屋の中で、俺自身の姿を見た。