其の陸:冬(二)・憤怒
三人称です。
手鏡に映った冬季の話をすべて聞いて秋人は絶句した。手鏡に映った夏姫に聞いてはいたが、より詳しく聞かされて改めて衝撃を受けたのだろう。
何も言えないのは手鏡に映った自分に、自分しか知らないはずのことをべらべら話された冬季本人も同じ。この奇怪な現象を初めて見たことも理由の一つだろう。
「い、いったい……」
そして、それ以上に彼が衝撃を受けていることがあった。
「ここはどこなんだっ!?」
彼の視界に広がっていたのはひび割れた赤黒い大地。そのひび割れは真っ赤に発光し、マグマかのように熱を発していた。当然看守もいなくなり、手鏡を除く部屋にあったものすべてが消失していた。例えるなら火山の中、――あるいは地獄。
「……ははっ」
少し黙って秋人が軽く笑った。自分自身が怒りを糧に行動したからか、こんな非現実的な場所でも不思議と違和感はなかった。
「そっか、やっぱりお前が殺したんだな」
「ひっ……」
爽やかな笑みももはやただの狂笑でしかない。何かに取り憑かれたかのようにふらりと立ち上がって、冬季ににじり寄る。右手には例の手鏡、そして左手には今まで見当たらなかった鋼鉄の杭が。手のひらほどの直径のそれで刺されればひとたまりもない。
「じゃ、俺も殺るだけだ」
遮る壁もない。一瞬だけ憤怒の表情を浮かべた後、無表情で左手を冬季の喉元めがけて突き出した。
「……ん?」
冬季は思わず目を閉じたがいつまで経っても激痛は襲ってこない。かと言って足がついている感覚はあるのでまだ死んでるわけではない。不思議に思ってゆっくりと目を開ける。
「ちっ……なんだよ、これはああっ!?」
咆哮のような叫び声は秋人のもの。冬季を貫かんと突き出したはずの杭を持った左手は手首に何重にも巻きつけられた純白の糸に引っ張られて強引に動きを止められていた。
「――秋人君、もう止めて!」
「んなっ……」
その声は秋人の後方にいたここにいるはずのない女性から。秋人の左手を縛った糸は彼女の左手から出現していた。黒のロングヘアーに赤縁の眼鏡――最近おしゃれにも気を使うようになってきた彼女が一番最初に買ったものだ――が印象的な彼女は、今だけは同じ場所にいて欲しくない人だった。
「なんで……珠美がここにいるんだよっ!?」
矢口珠美――秋人が現在愛している女性だった。
「そんなこと今はどうでもいい!」
「……っ!」
珠美の叫びに気圧されて秋人はたじろぐ。真剣なその表情は、いつもおどおどしている珠美からは想像のできないものだったからだ。
「あなた自身が今どうなっていて、何をしようとしているのか本当に分かっているの!?」
自分自身が「鬼」に憑かれ、愛する人に危害を加えかけたからこそ分かる。――秋人が同じような過ちを犯しかけていることが。だからこそ、同じような思いをして欲しくないのだ。
「俺は……ただ親の仇であるこいつが許せなくて。……母さんにも頼まれたから」
「母さん? ……そういうことね」
(秋人君に憑いているのは秋人君の母さんなんかじゃない)
戸惑いがちな秋人の言葉から珠美はすぐに理解した。自分に憑いた「蜘蛛の鬼」から「鬼」について多少は聞かされていたから分かる。「鬼」とは魂が長い年月のなかで怨みを募らせ、暴走したものなのだから。それでも実の息子を信じこませられるほど演じれたということはつまり。
(秋人君の母さんの魂を喰らったのね)
「鬼」は魂を喰らうことで、その意識と記憶を自分のものとする。だから魂は速やかに成仏されることが好ましいのだ。魂を喰らうことは生きている人間に対しても可能ではあるが時間と手間が掛かるため、より大きな力を持った「鬼」しか行わない。その分、憑いた人間の肉体を得られるという大きなメリットはあるが。
(そして、秋人君はそうされようとしている。あのときの私のように)
「珠美が止めても俺はやる。俺は仇を取らなきゃいけないんだよ」
秋人は目の前の復讐に囚われて、そんなことは分かっていない。自分が止めなければいけないと、珠美は思いを強める。
「秋人君、落ち着いて考えて。子供に人殺しを望む親が一体どこにいるの?」
「そ、それは……」
秋人の目が逃げようとするかのように泳ぐ。多少は聞く耳を持ってくれたようだ。
「うるせえうるせえ!……もう後には引けないんだよ」
と思ったが、聞きたくない言葉を振り払うように秋人は叫んだ。だが、おそらくその直後に一転して漏らした弱気な声の方が本音だろう。
「何言ってるのよ。まだ、止められる。…………だから、もうやめて」
だから、珠美も本気の思いを秋人にぶつける。復讐とか親の仇とかそんなことはどうでもいい。――ただ、また一緒に笑いあいたいだけなのだ。
「何がどうなって……」
そんな二人の様子を何も理解できずになんとか立ち上がったのは、先程秋人に殺されかけた冬季。死の恐怖から腰を抜かしてしまっていたが、時間が経って多少落ち着いた。
「ひっ……」
だが、恐怖が完全に拭いされたわけではない。目の前にいる義理の息子は自分の命を奪おうとしていて、実際にそれが可能になった存在。――このままでは確実に殺される。
「うわああああっ!」
二人が話しあっている間に逃げようと飛び出した。醜くてもいい、情けなくてもいい、ただ死ぬのだけは嫌だった。
「ちっ……くそっ、逃げんなよ! お前を殺さなきゃ気が済まねえんだよっ!」
それを察した秋人のなかで、怒りの炎が再点火する。こいつが犯した罪をその命で償わせようとしていたのに、その裁きを逃れようと醜く足掻く姿が胸糞悪かったのだ。
「やっぱり許せねえ。あいつだけは、あいつだけはああっ!!」
――ああ、許せないよな。だから後は任せな。
秋人の咆哮とほぼ同時に、彼の頭に響いた聞き覚えのない声。それが何かを考える間もなく、秋人の意識は闇に堕ちた。
「ガギャアアアアアッ!!」
秋人の口から出た叫び声は人のものとは到底思えないもの。同時に彼の体は黒ずんでいき、先程彼が左手に持っていた杭と同じものが体中から飛び出しはじめる。手鏡は持っている右手と一体化し、フリスビーほどの大きさとなる。
「そ……んな……」
今度地面にへたりこんだのは珠美だった。避けたかった事態がこうもあっさりと起こってしまうとは。
(あのときの秋人君もこんな気持ちだったのかな)
そんなことを思ってしまうのは、無意識に現実逃避しようとしているからだろう。何の皮肉かと思えてしまう目の前の状況に、涙を滲ませながら唇を噛んだ。
「――何、諦めてるのよ」
脳裏に響く声はかって自分を狙った「蜘蛛の鬼」のもの。以前の戦いで消滅したはずの彼女が、なぜまだ珠美に宿っているのかは分からない。が、今回彼女はなんの気まぐれか協力してくれた。秋人を止めた糸も彼女の力で出したものだ。
「なんならあなたの体をもう一度奪ってもいいのよ」
「冗談やめて」
以前ならただ怯えにそうなっていた言葉もそんな風に軽くあしらえたのは多少なりとも信用できる気がしていたからだ。
珠美がなんとか持ち直したとほぼ同時に秋人の変化も終わる。
「ククッ……ヒャハッ」
秋人の体を媒介に現れたその「鬼」は狂ったように笑いながら珠美の方へ振り返った。細かな鋼の杭がいくつも飛び出しその顔は人のそれとはまったく違っていた。無論、秋人の面影など見当たりはしない。
「秋人君じゃない……秋人君の母さんを喰らった『鬼』!」
可能な限りの怨嗟を込めて睨みつける。沸き上がる怒りから泣く気も失せた。
「よく分かったな、女。……そうだよ、オレがこいつの母親の魂を喰らったんだよ。――そして、さらに力を蓄えるためにこいつを利用した」
「くっ……」
あっさりと話すその「鬼」――以後、「鏡の鬼」と呼称する――に悪びれた様子は一切ない。そんな必要はないと考えられていたからだ。
「オマエも『鬼』に憑かれていたからここに入れたのか……まあいい、邪魔するなら消すだけだっ!」
その体にはもう秋人の意思はない。邪魔者とみなし、その手にかけようと一気に間合いを詰める。
――その刹那、無数の炎の羽根が二人のあいだを遮った。
「チッ……くそっ。次から次に邪魔者が……誰だ?」
苛立ちから思わず「鏡の鬼」が舌打ちを漏らす。憑いた男に復讐を果たさせてまとめて喰らってやるつもりだったのに、あまりに予定通りにいかない。怒りを包み隠そうともせずに羽根が飛んできた方向を見る。
「――ったく、あんたら二人は本当に世話焼けるわね」
「え……」
聞き覚えのある声に珠美は思わず顔を向ける。そこには白い狩衣という着物を着た、ポニーテールが特徴的な一番の友人がいた。その左手には先ほどの炎の羽根を撃ちだしたであろう赤い弓が携えられている。
「優梨……」
綾瀬優梨――かって「蜘蛛の鬼」に狙われた自分を助けてくれた友人の一人がそこにはいたのだ。
「珠美、あんたがなんでこんなところにいるのかはわからないけど、今は聞かないわ。――私から離れないでね」
「祓い人」として、二人の友として、綾瀬優梨は悠然とこの場に立つ。