其の弐:夏(一)・手鏡
三人称です。
テレビが知らせるのはある殺人事件。被害者は四ノ宮夏姫、四十三歳。死因は首吊りによる窒息。自宅の一室で天井から縄でぶら下げられているのを夫の四ノ宮冬季が発見したらしい。
当初、この事件は自殺として捜査されていた。だが、首に入った縄の跡が水平に近い形で入っていたことから他殺の可能性が浮上。(仮に天井からぶら下げた縄で首を吊ったなら、重力で喉からもみあげを走るように斜めに跡がつくはず)
その後、集まった小さな証拠を組み合わせた結果、真犯人が特定された。
――第一発見者である、夫の冬季だった。
突き付けられる数多の証拠に本人もあっさりと自白。肩の荷を下ろしたような顔で逮捕されたのが昨日だった。
取り調べにより明らかになった動機は……いや、それ以前に犯行に及ぶまでの彼自身も歪んでいた。
四ノ宮冬季は妻の夏姫だけを心の底から愛していた。それと同時に夏姫が自分だけを愛することを望んでいた。だから、夏姫の子供達である千春と秋人を置いて東京へと移り、自分にだけ向いてくれるようにしたのだ。
だが、親子の絆というものはそんな簡単に断ち切れるものではなかった。冬季と過ごすなかでも、彼女の心には二人の子供達がいたのだ。
それに気づかない冬季ではなかった。話し掛けても上の空のときも多く、意味もなく窓の外を見つめるときもあった。その姿を見る度に冬季は不快感を覚えていった。
そして東京生活二年目、つまり今年の春辺りに冬季は聞きたくなかった台詞を夏姫から聞いてしまう。
「千春も秋人も元気にしてるかなぁ」
その一秒後、冬季は初めて夏姫に拳をあげていた。
「うあっ!」
「……はっ! 夏姫、大丈夫かい!」
壁に叩きつけられる夏姫の華奢な体を見て、冬季は青ざめた顔で駆け寄る。
「なんでこんな……」
「ごめん。本当にごめん――」
涙で濡れた夏姫の頬を拭いながら冬季はひたすら謝罪の言葉を述べる。
(でも、……なぜ僕だけを愛してくれないんだ)
その一方で、冬季は頭の片隅でそんなことを考えていた。
今回のような事例はその日以降にも散発的に起こる。その度に夏姫の痣は増え、冬季の鬱屈した気持ちは高まっていた。
(なんで僕を愛してくれない。なんであの餓鬼のことを心配する!)
日々募る苛立ちは冬季の思考をさらに歪めていった。
(このままでは夏姫は僕のもとから離れてしまうのではないのか? そんなのは嫌だ!)
次第に冬季は夏姫の外出を禁じるようになる。その期間や厳しさは日に日に増し、それは軟禁と言っても差し支えのないものとなった。
夏姫が自分以外の人の話をすれば途端に不機嫌になり、子供たちのことを気にする素振りを見せれば容赦なく拳を振り抜くようになった。
「こんな生活耐えられない! 離婚しましょう」
限界の来た夏姫が彼女の部屋でそう言った瞬間、冬季は悟った。
(僕が望んだ夏姫の姿はもう存在しない。だったらせめて……)
覚束ない足取りで一旦部屋を出た冬季が再び戻ってきたとき、手にしていたのは一筋の荒縄。
(僕の心の中だけで生きろ!)
「冬季く――」
夏姫がこれ以上言葉を発することはなかった。
「くっだらねえ!」
容疑者の動機の異常性をより強調して伝えるテレビのニュースに、加賀美秋人は大声で怒鳴った。本来なら高校二年生である彼は学校に行っているはずなのだが、今は東京のマンションの一室にいる。
普段は穏和で軽い性格の彼が手に持った食器を壁に投げつけそうな勢いで怒鳴った理由も、彼がこの部屋にいる理由と実は関わっている。
「うるさいわねぇ。そんなに腹立つんならテレビ消したら」
呆れたような声で秋人に言ったのは彼の三つ歳上の姉、加賀美千春。彼の怒りが分からないわけでもないが、ぎゃあぎゃあ叫ばれても作業の邪魔だ。
「うっせえ! 千春は黙ってろ!」
「あんたねぇ、お姉さまをつけろって……はぁ、もう良いわよ」
秋人が本当に怒っているのは当然テレビではない別の相手。それが分かっている……いや、自身も同じように怒りを覚えているので千春はこれ以上言おうとはしなかった。言ったとしても口論になるだけ。事実が変わることはない。
――二年前のあの日に自分達の元から離れてしまった母親があの男に殺されたという事実が。
「とりあえずチャッチャと終わらせましょう。せっかく伯父さんが気を利かせてくれたんだから」
二人が居るのは母親が数日前まで暮らしていたマンションの一室。二人がここに来たのにはちゃんと目的がある。
夏姫の兄――つまり二人の伯父にあたる人が喪主となってくれたため通夜も葬儀も滞りなく終わり、遺体は火葬してお骨を骨壷に入れて彼女の先祖が眠る墓に埋められた。その伯父から数日前に連絡があった。
「業者さんが遺品整理する前に君達でちょっと整理してみるかい? なんなら話つけるけど」
この二年……いやこれからも二度と母親に会えない二人を思っての提案だったのだろう。母親の死を受け止めて、これからの生活との一種の区切りを入れるための。
そして、二人は母親が住んでいた一室へと足を踏み入れたのだ。
「じゃ、そろそろあの部屋に行きましょ」
「そうだな」
この部屋での作業は終わり、二人は残った最後の部屋へと歩く。
目の前にあるのはその部屋へと繋がる最後の扉。この先は二人にとって特別な意味を持つ。
「開けるわよ……」
「ああ」
恐る恐るドアノブに手を掛けて捻り、ゆっくりと押す。
大きなツインベッドの奥と豪奢な化粧台が目を引く、その部屋の天井に見えるのはいびつな穴。そこから吊していたものの重さでその部分だけ少し下方に突き出ているように見える。
――そう、この部屋は夏姫が殺され天井から吊された部屋だ。
「この部屋で……」
「母さんは殺された」
歴史的な遺産を巡るかのように淡々と、且つ深みを込めて二人は口を動かす。この部屋に足を踏み入れるということは、二人の母親がもうこの世にいないと認めるのと同じこと。簡単には言い表せない沈黙が二人を包む。
「……あっ! あれって……」
それを破ったのは何かを見つけた秋人の声。秋人はそのままゆっくりと化粧台へと歩きはじめた。その後を少し遅れて千春も続く。
「やっぱこれって……」
「間違いないわね」
手に取ったのは化粧台の上に置かれていた折りたたみ式の薄いピンクの丸い手鏡。目新しいものばかりのこの家で唯一、それだけは二人とも見覚えがあった。
なぜならこの手鏡は二人が五、六年前の母の日に母親である夏姫にプレゼントしたものだからだ。
「そこそこ値の張るものだったけど、まさかまだ持ってくれてたとはねぇ」
「母さん……」
ゆっくりと持ち上げてこちらに向けた手鏡が少しぼやけながら映すのは、涙が頬を伝う自分達のぎこちない笑顔だった。「――さ、帰りましょう」
「ああ……そうだな」
それから三十分ほど整理をした二人はこの部屋を後にした。
「……母さん」
小さく呟きながら軽く叩く秋人のジーンズのポケットには先程の手鏡があった。千春に気づかれないように持ち出していたのだ。
「ほら、帰るわよ」
「ああ、分かってるって」
この手鏡が後に彼自身に波瀾をもたらすとは知らずに。