勇気の神様
人の感情は、どんなものでも時間と共に失われていきます。
それは、ものわすれの神様が感情を摘み取ってしまうからです。ものわすれの神様は、その摘み取った感情をそのまま捨ててしまいます。
ものわすれの神様が摘み取った感情は、それぞれの感情の神様に拾われます。
喜びは、喜びの神様に。
怒りは、怒りの神様に。
哀しみは、哀しみの神様に。
楽しみは、楽しみの神様に。
それぞれ、拾われていくのです。
感情の神様たちは、拾った感情を、また人に植え付けていきます。
勇気の神様も、そんな感情の神様の一人で、勇気を拾っては、人々の心に植え付けていました。
さらに勇気の神様にはもうひとつ、特別なお仕事があります。
それは人の心が歪んだ時に生まれる怪物を倒すというお仕事です。心の怪物は、歪んだ心のままに暴れて、人の心をめちゃくちゃにしてしまうので、勇気の神様がいなかったらたいへんです。
その日も、勇気の神様は心の怪物に立ち向かっていました。
その日の心の怪物は、愛する人を交通事故で失った女性から生まれたものでした。その女性は交通事故を起こした運転手が憎くてたまらず、心が歪んでしまったのです。
勇気の神様が心の怪物を倒せなければ、きっと女性は殺人を犯してしまうでしょう。
心の怪物はおそろしい姿をしています。足は五本もあり、野良犬みたいに、はいつくばって、だらりとよだれを垂らしています。
けれど、その姿は影のようにあいまいで、陽炎みたいに体のはしっこが揺らめいて、どこか悲しい姿です。
勇気の神様は、勇気と一振りの剣を持って、心の怪物と向き合っています。
ふう、と勇気の神様は息をはき、心を落ちつけます。
あせってはいけません。剣筋が乱れてしまいます。
憎んではいけません。心の怪物は悲しい存在ですが、それを憎むのは人の悲しみを憎むのといっしょだからです。
ただ心をおだやかに、これ以上だれも心を歪ませないように、そのために勇気の神様は心の怪物を倒すのです。
先に動いたのは、心の怪物のほうでした。ひしゃげた足で不格好に走り、勇気の神様を叩きつぶそうと振り上げます。
けれど、勇気の神様はもう足元にはいません。
高く跳び上がり、勇気の神様は心の怪物を見下ろしていました。
そして落ちていくままに剣を心の怪物の胴体に突き刺します。
心の怪物は、耳が壊れそうになる叫びをあげますが、まだ倒れません。
勇気の神様は、心の怪物がひるんでいるうちに、勇気をひとつ取り出しました。力強く輝く大きな勇気です。
勇気の神様はその勇気を剣に宿します。
剣は光を放ち、熱をおびていきます。
勇気の神様が横なぎに剣を振るえば、光はまっすぐに走り、心の怪物を両断しました。心の怪物はそのまま光といっしょに、泡のように消えていってしまいます。
その心の怪物の泡を手に取って、はぐはぐと食べるものがいました。
彼女は勇気の神様を見ると、愛らしい、けれど意地の悪い笑顔を見せます。
勇気の神様は、彼女から目をそらさずに剣を納めます。剣から勇気の神様の手のひらに零れ落ちた勇気は、少しだけ小さく、そして輝きも弱くなっていました。
〝きみが、あの怪物を生み出したのかい〟
勇気の神様はきびしい声で、心の怪物の泡を口に運ぶ彼女に聞きました。
彼女は、いいや、と首を振ります。その後に、育てはしたけどね、と付け足したのですけれど。
彼女は、悪魔と呼ばれる存在でした。感情の悪魔である彼女と勇気の神様は何度も敵対した仲です。
感情の悪魔は、歪んだ心やそれから生まれる心の怪物を食べるので、よく人を苦しめています。それに、ものわすれの神様や感情の神様たちにいやがらせをしてくる悪魔もたくさんいます。
悪魔の彼女は、心の怪物の泡を食べ終わると、ぴょんと跳んで勇気の神様の横に降りてきました。にやにやと笑いながら、勇気の神様をじろじろと見てきます。
〝いつもいつも、ごくろうさまだね。ま、うちはあんたが倒してくれたほうが楽に食べられていいんだけどね〟
〝残念だけど、きみのために倒しているわけじゃないよ〟
勇気の神様は悪魔の彼女から離れるように、歩き出します。
けれど、悪魔の彼女は勇気の神様についてきます。
〝それにしても、あんたはいつまで戦い続けるんだい〟
悪魔の彼女の質問に、勇気の神様は、どういう意味だい、と聞き返しました。
悪魔の彼女は、やっぱりにやりと笑ってしゃべるのです。
〝だって、あんたは勇気がないと怪物を倒せないんだろう。でも、最近の人間が、あんたが拾えるくらい 大きな勇気を持ってないって、うちだって知ってるよ〟
勇気の神様は口を閉ざしてしまいました。
悪魔の彼女の言う通り、最近の人は勇気を抱くことが少なく、抱いても小さいために勇気の神様が拾えず、拾えてもさっきのように強い力は引き出せません。
心の怪物を倒せるような強い勇気は、勇気の神様の手元にはあと三つしか残っていませんでした。
それでも勇気の神様は唇を強く結び、まっすぐに答えるのです。
〝いつまでって、それはずっとだよ。僕は前にしか進めないんだ〟
どんな困難があっても、立ち向かうのが勇気の神様です。人々の勇気がなくなり、剣が折れても、勇気の神様の勇気はくじけません。
悪魔の彼女は勇気の神様にしなだれかかりました。
彼女は宙に浮いているので、勇気の神様は重みも感じず、柔らかな胸の感触も無視して歩き続けます。
〝バカな神様だね。そうやって苦しんでも、だれかにほめられるわけじゃないのに。あきらめて、あんたも悪魔になったほうが楽だよ〟
悪魔の彼女が、勇気の神様の耳元でささやきます。
彼女も辛くてあきらめたのかもしれません。
苦しくてなにもかもいやになったのかもしれません。
もしかしたら、さみしいのかもしれません。
勇気の神様は、悪魔の彼女のことをいろいろと考えてみますが、推測にしかすぎないので、やめました。
そして、ゆっくりと首を振るのです。彼女には答えられませんから。
それを見て、悪魔の彼女はふん、と顔をそむけました。
それでも離れようとしない悪魔の彼女のしつこさを知っているので、勇気の神様は引きはがすのをあきらめて次のお仕事に向かいます。
勇気の神様が向かった先には、もうものわすれの神様がいました。
ものわすれの神様は、悪魔の彼女を確認すると、だまったまま頭を下げてあいさつをします。
悪魔の彼女も、ものわすれの神様にはなまいきを言えないので、あいさつを返します。
〝もう少し、様子を見ましょう〟
ものわすれの神様にそう言われ、勇気の神様はその隣に立って目線の先にいる人を見ます。
そこには小さな少年がいじめられていました。
ものわすれの神様には、恐怖とか、苦しいとか、そんな感情がうずまいているのが見えていることでしょう。
悪魔の彼女は、舌なめずりしました。彼女には、あの少年の心が歪めば、それこそごちそうでしょう。
勇気の神様がにらみをきかせても、悪魔の彼女はわくわくとした表情を隠すことができません。
勇気の神様は祈ります。ほんのわずかでもいいから、少年の胸に勇気が宿るようにと。その勇気が、いじめに立ち向かう力になるようにと。
少年が押し倒されます。涙がこぼれていました。
勇気の神様はこぶしを握りしめます。強く握りしめすぎて、つめが手のひらに食いこんで、血が流れ出しています。
悪魔の彼女は勇気の神様の手を見ました。ほんの少し顔をくもらせて、また少年のほうへ目を映しました。
ものわすれの神様はだまってそれらを見ていました。
少年が立ち上がりました。足も手もふるえています。
いじめっこのほうは、また少年を転ばせようと、どつくのですが、少年は少し揺らいでそれにたえます。
勇気の神様は、心の中で応援を続けます。きっと勇気を出せると信じています。
少年がいじめっこをにらみ返しました。
いじめっこは、急に強気になった少年から逃げ出しました。
ものわすれの神様は急いで少年の心をなでます。優しいその手つきで、さわさわと少年の心から、いくつかの感情が落ちてきました。
悲しみ、苦しみ、怒り、恐怖、情けなさ、それからほんの一粒だけの勇気。
ものわすれの神様が少年から離れていき、かわりに勇気の神様が駆けよります。
少年の心から出たいろいろな感情がうずをまいて、ひとつの感情へと変わっていきます。それは歪んだ憎しみでした。
少年の心にあったら、少年を憎しみにかきたててしまったでしょう。
そして、少年の心からこぼれてもその歪みは進み、弾けたのです。
そこから小さな、けれど他の感情も黒く塗りつぶしていく心の怪物が現れました。
勇気の神様は、少年の勇気を拾いあげました。その勇気にも、憎しみの黒ずみが見えます。
悪魔の彼女は、なにか言いたそうにしていましたが、それを言葉にする前に、ものわすれの神様が彼女の口元に人差し指を当てました。
勇気の神様は言います。
〝小さくても、ほんの少し汚れていても、確かにこれはあの少年の勇気だ〟
勇気の神様の手の中で、少年の勇気は灯っています。
小さなその勇気を、勇気の神様は剣に宿します。
あわい光が剣からこぼれては消えていきます。それは怪物に立ち向かうには、あまりにはかない勇気に見えました。
それでも、勇気の神様は堂々と剣をかまえています。
勇気の神様は一歩踏み出し、剣を振るいます。
少年の心の怪物はその一撃を揺らめく憎しみでたえました。
でも、勇気の神様は手をゆるめません。
けして、引かず。
けして、あきらめず。
まっすぐに立ち向かうのが勇気の神様なのです。
〝がんばって〟
そうつぶやいたのは、悪魔の彼女でした。
とても小さなその声は、心の怪物のうなり声で耳がふさがっている勇気の神様には届きそうもありません。
届きそうにもありませんが、勇気の神様はほんの少しうなずいたように見えました。
そしてその剣が心の怪物に食いこみ、その体を泡にして散らします。
勇気の神様は、少年の勇気を剣から取り出しました。
もとから小さかった勇気は、半分ほどの大きさと輝きになっていて、勇気の神様はそっとそれを後押しして少年に植え付けます。
〝いつか、もっと育ててくれよ〟
勇気の神様の声は、とうぜん少年には届かないのですが、勇気の神様はとても清々しい顔をしています。
悪魔の彼女はというと、自分のほうへ飛んできた心の怪物の泡を、そっと口に含みます。
〝ねえ〟
悪魔の彼女の呼びかけに、勇気の神様が振り返りました。
〝うち、すこしあんたといっしょにいる。そのほうが、ごはんに楽にありつけるから〟
そういう悪魔の彼女はそっぽを向いて、顔をほんのりと赤くしています。
勇気の神様は、ほんのいっしゅんだけ目をまるくして、それからほほえみました。
〝人や他の神様にいたずらしないならね〟
めでたし、めでたし
勇気って、とても大きくて、それこそ「ぜったいむり!」ってものに立ち向かうようなものでないと、認められないような気がします。
でも、小さな勇気を振りしぼるほうが、もっとたいへんなんだと思います。だって、臆病で怖くて仕方ないのに、そこから勇気を出して踏み出すなんて、とても『勇気』のいることです。
だから、まずは小さな勇気を。そしていつか、大きな勇気に育てて。
一歩一歩、確かに歩んでいってください。
その想い全てで、あなたなのですから。