第九話 包帯の代わり
朝が来た。
目を覚ました時、枕の下に手を入れた。鍵が二本あった。稽古場の鍵と、書庫の鍵。夢ではなかった。
起き上がって、窓の外を見た。
曇っていた。光が薄くて、中庭の花が昨日より色褪せて見えた。気のせいかもしれなかった。花は変わっていない。光が変わっただけだった。
フィーナが来る前に、鏡の前に立った。
六歳の令嬢が映っていた。
黒髪が寝乱れていた。切れ長の目が、眠そうだった。肌が白かった。クロイツェル家の令嬢として申し分のない顔立ちだった。
朱音はその顔を眺めた。
前世でも、鏡を見ることがあった。顔を包帯で覆う前に、一度だけ見た。覆った後は見なかった。見る意味がなかった。包帯の下に何があるかは自分が一番よく知っていた。見なくても分かった。
包帯を巻く理由は二つあった。
一つは実用だった。顔が知られると動きにくくなる。人斬りは顔を知られてはいけない。知られた瞬間から、顔を覚えた人間全員が敵になる可能性がある。
もう一つは、別の理由だった。
こちらは説明しにくい理由だった。
包帯を巻くと、霧島朱音ではなくなれた。霧島朱音は困る場面で困らなくなれた。霧島朱音では動けない時に、包帯の下の誰かとして動けた。名前のない誰かとして。
今は包帯がない。
代わりに、令嬢語変換がある。
朱音は鏡の中の自分と目が合った。
似ていると思った。機能として、似ていた。包帯が顔を隠したように、令嬢語変換が内心を隠す。外に出てくる言葉だけが変わって、中にあるものは変わらない。
違いは、外せないことだった。
包帯は自分で外せた。川で洗う時、一人でいる時、外せた。令嬢語変換は外せない。眠っている間も機能しているかどうかは分からないが、起きている間は常に動いていた。
もう一つ違うことがあった。
包帯を巻いていた時、隠れることに後ろめたさはなかった。必要だから隠れていた。それだけだった。
令嬢語変換で隠れている今、後ろめたさがあるかと言えば、ない。しかし何かが、微妙に違う感覚があった。
うまく言えなかった。
考えている間にフィーナが来た。
「おはようございます、エルシア様。今日は曇っていますね」
「おはようございますわ」
フィーナが着替えを手伝いながら、昨夜書庫に行ったことを聞いてくるかどうか、朱音は少し警戒した。しかし聞いてこなかった。フィーナは昨夜ぐっすり眠ったらしく、朱音が深夜に動いていたことに気づいていないようだった。
それでいいと思った。
知らなくていいことがある。
祖母の部屋に行ったのは午前中だった。
扉をノックすると、昨日と同じしわがれた声が「入りな」と言った。
中に入ると、祖母は昨日と同じ椅子に座っていた。手に本を持っていたが、朱音が入ると閉じた。
「来たか」
「昨夜、書庫に参りましたわ」
祖母は頷いた。
「読んだか」
「読みましたわ」
二人の間に間があった。
朱音は続けた。
「お祖母様のお母様が、クラーラ様でございますか」
「そうだよ」
「記録の最後に、すまなかった、と書いてありました」
「知っておる」
祖母は窓の外を見た。曇った空が見えていた。
「わしの父が書いた。わしが二十歳になってから、書庫を見せてもらった時に読んだ。父はもう死んでおった」
朱音は黙った。
「死ぬ前に言えばよかったのにな」と祖母は言った。感傷ではなく、事実として言った。「しかし言えなかったのだろうよ。そういう時代だった」
「お祖母様は、お母様を覚えておいでですか」
「わしが三つの時に、いなくなった。覚えておらんよ」
三つ。
十二歳で封印されたクラーラが、三つの娘を残していなくなった。残された娘が七十四歳になって、孫娘が書庫を読んで戻ってくるのを待っていた。
「ありがとう存じますわ、お祖母様」
令嬢語変換が来た。しかし今回もずれていなかった。
「礼はいらん」祖母は朱音を見た。「どうする気だね」
「消えませんわ」
「具体的にはどうするつもりだ」
朱音は少し考えた。
具体的な話をするには、まだ早い段階だった。六歳で、刀が一振りあって、稽古場で木剣を振っているだけの段階だった。政治的な手を打てる立場でもなければ、力で全てを解決できる力もまだなかった。
しかし何もないわけではなかった。
「まず、剣を鍛えますわ」
「剣か」
「この世界でも、前世と同じく、腐った世には腐った匂いがしますの。匂いのするところには、必ず剣を持った者が来る。来た時に、受けて立てるだけの剣があれば、それが最初の答えになりますわ」
祖母は朱音を見ていた。
長い間、見ていた。
それから小さく笑った。昨日と同じ、唇の端だけの笑いだった。
「前世、とは何だね」
朱音は止まった。
令嬢語変換が猛烈に働いた。しかし今回は変換の前に、自分で言葉を選んだ。
「まあ、譫言でございますわ。お気になさらず」
祖母は笑いを消した。
「そうかね」
信じていない目だった。しかし追わなかった。この老婦人は、追わないことを知っていた。追うべき時と、待つべき時の区別を、七十四年かけて学んでいた。
「剣を鍛えるのはいい」と祖母は言った。「しかし剣だけでは足りんよ」
「存じておりますわ」
「同盟が要る。味方が要る。剣を持った者だけでなく、別の力を持った者が要る」
「ええ」
「クロイツェル家の外に、友を作りなさい」
朱音は頷いた。
言われなくても考えていたことだった。前世でも、剣だけでは足りないことは知っていた。剣で全てを解決しようとして限界があることも知っていた。それでも剣しか持っていなかったから、剣を振り続けた。
今度は違う。
令嬢として生まれた。貴族社会の中にいる。社交界という名の戦場がある。前世では包帯で顔を覆って、人の目から逃げ続けた。今度は逆だった。
顔を出して、令嬢として立って、その場所で戦う。
武器は剣だけではない。
令嬢語変換でさえ、使いようによっては武器になる。
「よく分かっておりますわ、お祖母様」
祖母はまた頷いた。
それから本を開いた。会話が終わった合図だった。
朱音は立ち上がって、一礼して、扉に向かった。
「一つだけ」
振り返った。
祖母は本を見たまま言った。
「鍵は返さなくていいよ。あれはお前のものだ」
朱音はポケットの中の二本の鍵を感じた。
「ありがとう存じますわ」
扉を閉めた。
廊下に出た。
北棟の冷たい空気の中を歩きながら、朱音は昨夜のことを考えた。
書庫で読んだ記録。
七歳と十二歳の娘が消えた記録。
消させられた記録。
そして鏡の前で考えた、包帯のことを。
前世では包帯があった。顔を隠すものがあった。それで十分だと思っていた。いや、十分かどうかを考えたこともなかった。それしかなかった。
今は包帯がない。
代わりに令嬢語変換がある。顔を出して、上品な言葉を纏って、貴族社会の真ん中に立っている。
しかし今度は、それ以外にもある。
父の稽古場の鍵。ゴルドの刀。セバスチャンの在庫管理表。フィーナの赤毛。祖母の消えるなよ。
前世では一人だった。
包帯を巻いて、名前を隠して、一人で夜の京を駆けた。誰かと一緒に何かをするということを、ほとんどしなかった。できなかった。一緒にいた者が、次の夜にはいなくなることが多かった。いなくなる痛みを重ねるうちに、一人でいることを選んだ。
今は違う。
フィーナは朝に来る。セバスチャンは台帳をつける。ゴルドは刀を打つ。祖母は書庫の鍵を待っていた。父は稽古場を開けた。
一人ではない。
一人ではないということが、今の自分にとって何を意味するのか、まだうまく言えなかった。前世には比べるものがなかったから、どう違うかを言葉にできなかった。
ただ、重さが違うとは思った。
包帯一枚だった頃と、今とでは、背負っているものの重さが違った。重くなっていた。しかしその重さが、悪い重さではなかった。
押しつぶされる重さではなく、地に足をつけるための重さだった。
中央棟に入ったところで、ヴァルターに会った。
兄は書類を持って歩いていて、朱音を見ると少し驚いた顔をした。
「エルシア、祖母上の部屋に行ってたのか」
「ええ」
「珍しいな。何か話したのか」
「少し、いろいろと」
兄は何か言いたそうな顔をした。祖母のことを聞きたいのか、それとも別のことを聞きたいのか、表情から判断がつかなかった。ヴァルターは感情が顔に出る男だったが、出すぎて何を考えているか逆に分からない時があった。
「エルシア」
「なんでしょう」
「俺、お前のこと、守るからな」
朱音は止まった。
兄はまっすぐに言った。照れた顔をしていたが、言葉はまっすぐだった。
「暗属性とか、測定器が壊れたとか、そういうの、関係ないから。お前は俺の妹だから。それだけだから」
令嬢語変換が来た。
来たが、その前に何かが来た。
変換ではなかった。
前世では一度も聞いたことがなかった言葉が、変換される前に胸のどこかに触れた。
「……ありがとう存じますわ、お兄様」
変換された言葉が出た。
しかし声が少し違ったかもしれなかった。いつより低くて、いつより遅かった。
ヴァルターは少し安心したような顔をした。
「よし。じゃあ俺、用事があるから」
「ええ、行ってらっしゃいませ」
兄が廊下を歩いていった。
書類を抱えて、少し急ぎ足で。
朱音は兄の背中を見ながら、ポケットの中の鍵を二本、指で触れた。
稽古場の鍵と、書庫の鍵。
それから、兄の言葉が加わった。
全部足すと、前世の自分には想像もつかない重さになった。
重かった。
しかし不思議と、足が軽かった。
廊下を歩きながら、朱音は今夜の稽古のことを考えた。
二の構えに入る頃合いかもしれなかった。一の構えだけを百回繰り返して、二週間が経っていた。体が一の構えを覚えてきた。次に進む時だった。
前世では、こうして段階を踏む余裕がなかった。
覚える前に使わなければならなかった。使いながら覚えた。それが前世の稽古だった。
今度は違う。
覚えてから使える。段階を踏める。時間がある。
前世になかったもので、今一番貴重なのは、時間かもしれなかった。
自分の部屋に戻った。
窓から外を見ると、曇っていた空に少しだけ光が差し始めていた。
花が、さっきより明るく見えた。
気のせいではなかった。光が変わった。
朱音は窓から離れて、机の前に座った。
紙を出した。ペンを取った。
ゴルドへの次回発注の仕様を書いた。鞘の重心修正の詳細、刃の角度の微調整、柄の太さの変更点。セバスチャンに渡すための覚え書きだった。
書きながら、思った。
前世で覚え書きを書いたことはなかった。
書く相手がいなかったし、書いたものを受け取って動いてくれる人間もいなかった。
今はいる。
それだけのことだった。
それだけのことが、しかし随分と違うことだと、朱音はペンを走らせながら、静かに思った。




