第八話 書庫の記録
書庫は屋敷の地下にあった。
エルシアとしての記憶にも、その存在は薄くしか残っていなかった。子供が近づく場所ではなかったし、家族の誰かが頻繁に出入りしているところも見たことがなかった。屋敷の地図の中に、あることだけは知っていた。
夜になった。
フィーナが寝室に引き取って、屋敷が静まるのを待った。
稽古場に向かう時と同じ手順だった。蝋燭を一本持って、廊下に出る。ただし今夜は西棟ではなく、中央棟の奥に向かった。地下への石段は、厨房の裏手にあった。
石段を降りた。
冷たかった。
地上より明らかに気温が低かった。石の壁から冷気が染み出してくるようだった。蝋燭の火が揺れた。風はないはずだが、地下特有の空気の流れが微かにあった。
石段を降りきった先に、扉があった。
鉄製の重い扉だった。錆びていた。しかし錆は表面だけで、芯はまだ生きていた。鍵穴に祖母から受け取った鍵を差し込んだ。固かった。長い間、使われていなかった鍵穴は、最初の抵抗が強かった。
力を込めた。
六歳の手には難儀だった。
両手で握って、ゆっくりと回した。金属が軋む音がした。それから、何かが外れる感触があった。
扉が開いた。
冷たい空気が流れ出てきた。
蝋燭を前に出して、中に入った。
書庫は思ったより広かった。
棚が並んでいた。本と、書類の束と、箱が詰まっていた。全体的に古かった。新しいものが一つもなかった。この書庫に最後に何かが加えられたのが、いつなのか分からなかった。
蝋燭を棚の前に掲げた。
背表紙を読んだ。
歴史書。土地の記録。騎士団の記録。魔法の記録。領地の収支。家系図。様々なものが年代順に並んでいた。整理はされていた。誰かが意図を持って整理していた。おそらく祖母だった。
奥に進んだ。
一番奥の棚の、一番下の段に、他とは違う冊子があった。
背表紙に文字がなかった。
表紙も、ただの黒い革張りだった。タイトルも日付もなかった。しかし他の記録とは明らかに置かれ方が違った。棚の一番奥に、少し引っ込んだ位置に置かれていた。見つけようとしなければ見つからない場所だった。
取り出した。
表紙を開いた。
一人目の記録は、二百年前のものだった。
筆跡は整っていた。書いた人間が誰なのかは分からなかった。記録者の名前が書いていなかった。ただ事実だけが書かれていた。
クロイツェル家の第七代公爵の長女、名をイーダという。七歳の魔力測定で暗属性と判定された。測定器が破損した。会場が混乱した。その日のうちに家に連れ戻された。
翌月。
王家からの使者が来た。魔法教会の司祭が来た。三日間の審議があった。
その後、イーダの記録は途切れた。
途切れ方が不自然だった。記録の途中で、別の筆跡になっていた。最後の一行だけが、違う人間が書いたような字で、短く書かれていた。
処置、完了。
それだけだった。
朱音は一度、冊子から目を離した。
蝋燭の火が揺れた。
処置、という言葉の意味を考えた。この世界で暗属性に対して行われる処置とは何か。エルシアとしての知識と、この記録が示すものを合わせれば、答えは一つだった。
魔力の封印だった。
魔力を封印された者がどうなるか。魔力と人間の精神は深く結びついている。特に幼い頃から魔力と共に育った者にとって、封印は単なる制限ではない。自分の一部を切り取られることに近い。
七歳で。
七歳の子供に、それをした。
朱音は次の頁を開いた。
二人目の記録は、八十年前のものだった。
これは書いた人間の名前があった。当時のクロイツェル家の当主、つまり朱音の曾祖父にあたる人物の名前だった。筆跡は力強くて、しかしところどころ乱れていた。書きながら何かを堪えていたような筆跡だった。
名をクラーラという。第十一代公爵の妹、十二歳。
魔力測定の結果、暗属性と判定された。測定器が完全に破壊された。当日から監視が始まった。家族は引き離された。
引き離された。
朱音はその部分を読み返した。
家族は引き離された。監視下に置かれた彼女に、家族が会うことを禁じられた。許可されたのは月に一度、時間を区切っての面会だけだった。
記録は続いた。
クラーラは剣を習っていた。兄から習っていた。当主、つまり記録を書いた人間から、習っていた。
その記述の後に、一行分の空白があった。
記録は続いた。
三ヶ月後。王家と魔法教会の合同審議。結論は一週間で出た。
封印、執行。
十二歳だった。
記録はそこで終わっていた。最後の頁に、当主の署名があった。しかしその署名の下に、別の文字が小さく書き添えてあった。当時の筆跡とは違う、後から書き加えたような文字だった。
すまなかった。
それだけだった。
朱音は冊子を閉じた。
しばらく、そのまま立っていた。
地下の冷たい空気の中で、蝋燭の火が揺れていた。
消されたのではない。
消させられたのだ。
七歳と十二歳の娘が、誰かに消させられた。七歳のイーダには最後の一行に「処置、完了」と書かれた。十二歳のクラーラの記録には、記録者が後から「すまなかった」と書き添えた。
書き添えた人間が、どういう気持ちで書いたかは分からなかった。
分からなかったが、想像することはできた。
今度は違う。
前世でも消えた。京の闇に消えて、歴史のどこにも名前が残らなかった。あの時は選んで消えたわけではなかった。消えるしかなかっただけだった。
今度も消えるかもしれない。
しかし今度は、消えたくないと思う理由がある。
父の稽古場の鍵がある。ゴルドの刀がある。セバスチャンの在庫管理がある。フィーナの無防備な笑顔がある。そして祖母の、消えるなよ、がある。
前世には、何もなかった。
それだけが違った。たったそれだけが、しかし確かに違った。
朱音は冊子を棚に戻した。
元の位置に、元の向きで戻した。
扉まで戻って、外に出た。鍵を閉めた。石段を上った。
廊下に出ると、地下より温かかった。
温かいと感じるくらい、地下が冷たかったのだと気づいた。
歩きながら、鍵を握りしめた。
書庫の鍵と、稽古場の鍵が、ドレスのポケットの中で当たり合って小さな音を立てた。
部屋に戻った。
寝台に座った。
六歳の体が疲れていた。稽古の疲れと、地下の冷気の疲れが混じっていた。しかし眠気は来なかった。珍しかった。この体はいつも疲れたらすぐに眠ろうとする。
窓の外に月が出ていた。
雲の切れ間から、白い月が見えた。
前世の京でも、月を見た夜があった。血を洗い流した後で、川沿いに座って、空を見上げた夜があった。あの時は何も考えていなかった。考える余裕がなかった。ただ月があって、まだ生きていると思っただけだった。
今は考えられる。
六歳の体の中で、三十年以上分の記憶を持った魂が、静かに考えられる。
消えない。
七歳のイーダが消えた方法では消えない。十二歳のクラーラが消えた方法では消えない。前世の霧島朱音が消えた方法でも消えない。
どう消えないかは、まだ分からなかった。
ただ消えないと決めた。
それだけで、今夜は十分だった。
月が雲に隠れた。
部屋が少し暗くなった。
朱音は寝台に横になった。
六歳の体は、決意を聞いてもやはり正直で、少しずつ眠気を送ってきた。
鍵を二本、枕の下に入れた。
稽古場の鍵と、書庫の鍵。
この屋敷で、自分だけが持っている鍵だった。
目を閉じた。
眠る直前に、一つだけ思った。
明日、祖母に礼を言う。令嬢語変換が来ても、それは構わなかった。ありがとうは、どう変換されてもありがとうだった。
月のない暗い部屋の中で、人斬りの魂を持った六歳の令嬢は、静かに眠った。




