第七十一話 泡沫・暗、三段
王太子との面会は、その日の午後に設定された。
侯爵の手配が速かった。
王城の小会議室だった。
前回と同じ部屋だった。
しかし今回は人数が少なかった。
王太子が一人で来た。
側近もいなかった。
朱音も一人で来た。
侯爵も、父も、マルガレーテも、部屋の外に残った。
二人だけの面会だった。
王太子が先に座っていた。
朱音が入ると、立ち上がった。
「来てくれてありがとうございます。急な申し入れにもかかわらず」
「急いだ理由がありましたわ」
「そうですね。ヴァレンシア侯爵から、重要な情報があると聞きました」
「ええ」
席についた。
朱音は書類を出した。
二枚あった。
テーブルの上に置いた。
「これをご覧くださいますかしら」
王太子が書類を受け取った。
読んだ。
表情が変わった。
一枚目を読んで、少し止まった。
二枚目を読んで、また止まった。
「これは」
「ヴァレンシア家の情報網で集めた情報ですわ。フィーナを連れ去った件の、上位の指示者です」
「王家の傍系の者が」
「ええ。複数の家を同時に動かしていた可能性があります。フィーナの件は、その一つでしたわ」
王太子が書類から目を上げた。
朱音を見た。
観察する目だった。
しかし今回は、観察の質が違った。
動揺を隠している目だった。
「これを、なぜ私に直接持ってきましたか」
「伝えるべき相手だと思いましたわ」
「ヴァレンシア侯爵が持ってくることもできた」
「ええ。しかし私が持ってきましたわ」
「理由を聞かせてもらえますか」
「殿下がこの情報を見て、どう反応されるかを見たかったからですわ」
王太子が少し間を置いた。
「試しているということですね」
「ええ」
「正直に言ってくれましたね」
「隠す理由がありませんわ」
王太子が書類を机に置いた。
「この者の名前を知っていましたか、というのがあなたの本当の問いですね」
「そうですわ」
王太子が少し間を置いた。
今まで見せなかった間だった。
計算ではなく、本当に考えている間だった。
「知らなかった」
「まあ」
「信じますか」
「どちらだと思いますかしら」
「信じるかどうかを、あなたが判断できない情報を今持っていると思う」
「正直ですわね」
「嘘をついても、あなたには見抜かれると思っています」
朱音は王太子を見た。
動揺が残っていた。
しかし動揺の種類が分かってきた。
知らなかったことへの驚きと、傍系の者への怒りが混じっていた。
策謀が露見した動揺ではなかった。
知らなかった事実を突きつけられた動揺だった。
「殿下は、本当に知らなかったと思いますわ」
「なぜそう判断しましたか」
「動揺の種類が、知っていた人間のものではありませんわ。知っていた場合、もっと違う反応になりますわ」
「どんな反応ですか」
「知っていて知らないふりをする時、人間は必要以上に落ち着こうとしますわ。殿下の反応は、そうではありませんでしたわ」
王太子が少し笑った。
「あなたに読まれているとは思いませんでした」
「人を観察することが、習慣になっていますわ」
「前世から、ですか」
「そうですわ」
王太子が書類を再度見た。
「この者への対処を、あなたはどう考えていますか」
「私が考えることではありませんわ。王家の問題ですわ」
「しかし、あなたに影響がある問題です」
「ええ。だから情報を持ってきましたわ。対処は殿下がなさることですわ」
「協力は求めませんか」
「求めませんわ。これは私が解決すべき問題ではありませんわ。殿下が解決すべき問題ですわ」
王太子が朱音を見た。
長い間だった。
「一つ、確認させてください」
「なんでしょうかしら」
「この情報を持ってきたことで、あなたは何を期待していますか」
「期待はしていませんわ」
「何も」
「ええ。正しい人間に正しい情報を届けることが、今日の目的でしたわ。その後どうなるかは、殿下が決めることですわ」
「クロイツェル家への利益を考えなかったのですか」
「考えましたわ。しかしこの情報を取引に使うことは、したくありませんでしたわ」
「なぜですか」
「取引に使えば、情報の価値が歪みますわ。情報はそれ自体が正しいから価値があるのですわ。取引の道具にした瞬間に、別のものになりますわ」
王太子が少し間を置いた。
「ヴァレンシア侯爵も同じ考えですか」
「伯父上は違うかもしれませんわ。伯父上は情報を取引に使うことを、時に正しいと考えますわ。しかし今回は私が持ってきましたわ。私の判断ですわ」
「分かりました」
王太子が立ち上がった。
窓の方に歩いた。
窓の外を見た。
「エルシア様」
「はい」
「この件で、フィーナという侍女が連れ去られましたね」
「ええ」
「彼女は無事ですか」
「無事ですわ。昨日、兄が王都に来ていることが分かりましたわ。今頃は会っているかもしれませんわ」
「兄が来ていましたか」
「妹が連れ去られたと聞いて来たようですわ。しかし屋敷に来る勇気がなくて、外から様子を見ていましたわ」
王太子が少し笑った。
窓の外を見たままだった。
「その兄の気持ちは、少し分かります」
「まあ」
「大事な者のそばにいたい。しかし直接行く勇気がない。遠くから様子を見ることしかできない」
「殿下にも、そういう経験がおありですかしら」
「一度か二度」
「どんな状況でしたかしら」
王太子が振り返った。
「今は言いません。しかしいつか話せる関係になれれば、話します」
「まあ、それは楽しみにしておきますわ」
王太子が席に戻った。
「今日持ってきてくれた情報について、私はこの者への対処を始めます。時間がかかるかもしれませんが、放置はしません」
「ありがとう存じますわ」
「一つお願いがあります」
「なんでしょうかしら」
「この件が解決するまでの間、クロイツェル家への警護を強化させてください。王家として、費用を負担します」
「費用はよろしいですわ」
「受け取ってください。この件は、私の側の問題から来ています。王家の傍系の問題です。クロイツェル家が巻き込まれた責任の一端は、王家にあります」
朱音は少し考えた。
「では、受け取りますわ。ただし条件をつけてよろしいですかしら」
「なんでしょう」
「警護の内容と方法は、クロイツェル家が決めますわ。外部から人員を入れることはしませんわ」
「分かりました。費用だけを負担します」
「よろしいですわ」
面会が終わった。
廊下に出た。
侯爵が待っていた。
「どうだった」
「知らなかったと思いますわ」
「根拠は」
「動揺の種類ですわ」
侯爵が少し間を置いた。
「俺と同じ判断だ」
「伯父上も同じ根拠でしたかしら」
「そうだ。知らなかった可能性が高い。しかし確認が必要だった。お前が直接会って確認したことで、ヴァレンシア家としての判断が固まった」
「そのための今日でしたかしら」
「そうだ」
侯爵が歩き始めた。
「今後の対処について、話し合う必要がある。王太子が動き始める前に、こちらも準備をしておいた方がいい」
「分かりましたわ」
王城の廊下を歩いた。
窓から外が見えた。
春が終わろうとしていた空だった。
上位の者の正体が分かった。
王太子が知らなかったことが確認できた。
王家として対処が始まる。
全部が動き始めていた。
前世でも、こういう瞬間があった。
見えない者が見えた瞬間、次の動きが始まる瞬間が。
しかし前世との違いがあった。
前世では、動きが見えても一人で対処していた。
今は、動きが見えた時に、複数の人間が同時に動き始めた。
それが今世との違いだった。
それだけで、今日は十分だった。
廊下を歩き続けた。
夏が来ようとしていた。




