第七十話 黒幕との対峙
三日後、セバスチャンが報告を持ってきた。
朝食の前だった。
一回多いノックだった。
「フィーナの部屋を観察していた人物の身元が分かりました」
「どなたですかしら」
「フィーナの兄です」
朱音は少し止まった。
「フィーナに兄がいましたかしら」
「はい。フィーナの実家、ロッソ男爵家の長男です。名をアルドといいます。二十三歳です」
「フィーナから、兄の話を聞いたことがありませんわ」
「私も把握していませんでした。フィーナの家族構成を確認した時、兄の存在は記録にありましたが、王都にいる情報はありませんでした」
「なぜ今、王都にいますかしら」
「妹が連れ去られたという情報を聞いて、王都に来たようです。しかし屋敷に直接来る勇気がなかったのか、外から様子を見ていたと思われます」
朱音は少し考えた。
「危険な人物ではないということですかしら」
「その可能性が高いです。監視や暗器の訓練を受けた者の動き方ではありません。普通の若者が、遠くから妹の様子を見ようとしている動き方です」
「まあ」
フィーナの兄だった。
危険ではなかった。
しかし屋敷に来る前に、外から見ていた。
「フィーナには伝えますかしら」
「エルシア様のご判断にお任せします」
「承知しましたわ。今日、伝えますわ」
「お祖母様への報告は」
「後でしますわ。話し方を相談してからと思っていましたが、危険ではないと分かりましたわ。フィーナ自身に関わることですわ。フィーナが決めることですわ」
「承知しました」
セバスチャンが出ていった。
しかし今回の件は、フィーナの兄だった。
それより先に、別の件があった。
上位の者の件だった。
フィーナを連れ去った者たちに指示した、顔の見えない者だった。
セバスチャンに確認した。
「上位の者の件は、まだ分かりませんかしら」
「引き続き調べています。一つだけ、新しい情報があります」
「どんな情報ですかしら」
「建物の中にいた者の一人が、騎士団の尋問で少し話しました。上位の者は、複数の勢力を同時に動かしていた可能性があるとのことです」
「複数の勢力を同時に動かす、というのはどういう意味ですかしら」
「魔法教会の残党だけでなく、別の組織にも同時に指示を出していたということです。フィーナの件は、その一つに過ぎなかったかもしれません」
「つまり、フィーナの件はより大きな動きの一部だったということですかしら」
「そう解釈できます」
「王太子との交渉を妨害することが目的だったとすれば、それだけ多くの手段を同時に使えるということですわね」
「そうなります。相当な影響力と資金力を持つ者だと思われます」
「ヴァレンシアの伯父上に共有してくださいますかしら」
「すでに昨夜、共有しました」
「速いですわね」
「緊急性が高いと判断しました」
「ありがとうございますわ」
フィーナに話したのは昼過ぎだった。
アカデミーから戻った後だった。
フィーナが部屋に来た時に話した。
「フィーナ、一つ伝えることがありますわ」
「なんですか」
「怖い話ではありませんわよ」
「それを先に言うのは、少し怖い話ですよ」
「まあ」
朱音は少し間を置いた。
「あなたのお兄様が、王都にいますわ」
フィーナが止まった。
「兄が」
「ええ。何日か前から、屋敷の外からあなたの部屋の方向を見ていましたわ。セバスチャンが調べて、お兄様だと分かりましたわ」
「なんで屋敷に来なかったんですか」
「勇気がなかったのかもしれませんわ。あるいは、どうすればいいか分からなかったのかもしれませんわ」
フィーナが少し間を置いた。
「連れ去られた件を聞いて来ましたか」
「そう思われますわ」
「知っていたなら、なんで来なかったんですか。心配なら来ればいいじゃないですか」
フィーナが少し怒った顔をしていた。
心配されていることへの照れと、来なかったことへの怒りが混じっていた。
「会いたいですかしら」
「会いたいです。でも、怒ってやります」
「まあ、会ってから怒ればいいですわ。今日会えますわよ」
「今日ですか」
「セバスチャンに頼めば、連絡が取れますわ」
「お願いしていいですか」
「どうぞ」
フィーナが少し間を置いた。
「なんで、早く教えてくれなかったんですか」
「確認してからと思いましたわ。危険な人物かどうかを確認してからでないと、伝えることが心配を増やすだけになる可能性がありましたわ」
「それは、私を心配してくれたということですよね」
「ええ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「でも」フィーナが続けた。「次からは早めに教えてください。心配させたくないという気持ちは分かります。でも、知らない方が不安になることもあります」
「承知しましたわ」
「本当ですか」
「本当ですわよ」
フィーナが少し頷いた。
それからセバスチャンを呼んだ。
兄への連絡を頼んだ。
セバスチャンが動いた。
夕方、フィーナの兄が屋敷に来た。
フィーナが正門で待っていた。
兄が来た。
フィーナが走った。
二人が会った。
何を話しているかは、遠くで見ていた朱音には聞こえなかった。
しかしフィーナが怒っていることと、兄が謝っていることは分かった。
しばらくして、フィーナが笑った。
怒った後の笑いだった。
それだけで、十分だった。
その夜、ヴァレンシア侯爵から連絡が入った。
セバスチャンが持ってきた。
「侯爵から、急ぎの連絡です。面会を求めています。明日の朝、王都に来てほしいとのことです」
「内容は」
「上位の者の件で、大きな進展があったとのことです。詳細は面会で話したいとのことです」
「明日の朝に参りますわ」
「護衛の手配をします。何名同行させますか」
「マルガレーテと二名でいいですわ。大人数では目立ちますわ」
「承知しました」
「お父様には伝えてくださいますかしら」
「はい」
「お母様にも」
「承知しました」
翌朝、王都に向かった。
ヴァレンシア家の屋敷は、王都の中心部にあった。
案内された応接間に、侯爵がいた。
いつもと違う顔をしていた。
疲れていた。
「お兄様、お顔の色が」
「昨夜ほとんど眠れなかった」
「何がありましたかしら」
「上位の者の正体が分かった」
侯爵が書類を出した。
「見ろ」
朱音は書類を受け取った。
読んだ。
名前があった。
王家の名前ではなかった。
貴族議会の中の、特定の派閥の名前だった。
五大公爵家ではなかった。
しかし五大公爵家に近い位置にいる家だった。
「この家が、フィーナの件を指示しましたかしら」
「そうだ。しかしこの家単独ではない」
「他の家も関与していますかしら」
「三つの家が連携していた。それぞれが別々に動いているように見えて、実際は一つの意志のもとに動いていた」
「一つの意志とは誰ですかしら」
侯爵が別の書類を出した。
「これだ」
朱音は受け取った。
読んだ。
名前があった。
今度は個人の名前だった。
「この方を存じませんわ」
「王家の傍系だ。表向きは政治に関与していない。しかし実際には、複数の貴族家に影響力を持っている」
「王家の傍系が、王太子との交渉を妨害しようとしていましたかしら」
「そうだ。王太子が暗属性と協力関係を結ぶことで、王国の権力構造が変わることを恐れている」
「権力構造が変わることを恐れる理由は」
「暗属性が王家に取り込まれれば、その暗属性を持つ者が王家の中で重要な位置を占める可能性がある。そうなれば、現在王家の傍系として影響力を持っている者の立場が薄くなる」
「自分の立場を守るために動いていたということですわね」
「そうだ。フィーナの件は、その一つの手段に過ぎなかった」
「他にどんな手段を使っていましたかしら」
「調べた限りでは、シュタルク家への働きかけも、この者が指示していた可能性がある」
「シュタルク家が、この者の指示で動いていましたかしら」
「直接ではない。しかしシュタルク家に情報を流して、特定の方向に動くよう誘導していた可能性がある」
「ヴェルナーが魔法教会の関係者のいる建物に行ったのも、その流れですかしら」
「そう考えられる。シュタルク家は直接動いたのではなく、情報を受けて自発的に動いた。それが厄介なところだ」
「証拠として使いにくいですわね」
「そうだ。シュタルク家を直接責めることは難しい」
朱音は書類を置いた。
「この王家の傍系の方に、どう対処しますかしら」
「それを考えていた。難しい問題だ」
「難しい理由は」
「王家の傍系だ。直接動くことは、王家への影響が出る。しかし放置すれば、また動く可能性がある」
「王太子は知っていますかしら」
「まだ伝えていない。これを伝えることで、王太子の反応を見る必要がある」
「王太子の反応が、この情報の扱い方を決めるということですわね」
「そうだ。王太子が傍系の問題を認識していた場合と、知らなかった場合では、対処が変わる」
朱音は少し考えた。
「伯父上はどちらだと思いますかしら」
「知らなかった可能性が高い。しかし知っていた可能性も排除できない」
「王太子が知っていた場合、交渉の意味が変わりますわ」
「そうだ。だから伝え方が重要になる」
「どう伝えますかしら」
「それも考えていた」侯爵が少し間を置いた。「お前が直接王太子に伝えることを提案したい」
「私が直接ですかしら」
「そうだ。この情報を持っているのが、エルシアだということを明確にする。王太子がどう反応するかを、エルシアが直接見る」
「それはつまり、王太子を試すということですわね」
「そうだ。交渉相手として信頼できるかどうかを、この件で確認する」
朱音は侯爵を見た。
「伯父上はどう思いますかしら。王太子を信頼できますかしら」
「まだ分からない。だから試す」
「分かりましたわ。面会を申し入れますわ」
「今日中に手配する」
侯爵が動いた。
朱音は応接間に一人残った。
書類を再度見た。
王家の傍系の名前があった。
顔の見えない者の正体が、見えた。
フィーナを連れ去った動きの中心が、見えた。
前世でも、こういう瞬間があった。
見えない者が見えた瞬間は、次の動きが決まる瞬間だった。
次の動きを、今日中に決める。
王太子に伝える。
それが今日の答えだった。
窓の外に王都の空が見えた。
春が終わろうとしていた。
夏が来ようとしていた。
見えない者が見えた春の終わりだった。




