第六十九話 心配をかけた
その日の夕方、セバスチャンが来た。
いつもの報告だと思った。
しかし顔が違った。
何かを迷っている顔だった。
セバスチャンが迷う顔をすることは珍しかった。
「何がありましたかしら」
「報告があります。しかし報告する前に、一点確認したいことがあります」
「なんでしょうかしら」
「フィーナが昨夜泣いていたことを、ご存知ですか」
「知っていますわよ。来てくれましたわ」
セバスチャンが少し安堵した顔をした。
「そうですか。それなら話しやすいです」
「フィーナについての報告ですかしら」
「いいえ。フィーナに関連することですが、報告の主体は別の件です」
「どうぞ」
セバスチャンが台帳を開いた。
「フィーナの件以来、屋敷の周囲の監視を強化していました。その中で、一点気になる動きがあります」
「どんな動きですかしら」
「屋敷の周辺に、定期的に現れる人物が一名います。監視の者とは違います。特定の場所から、屋敷を観察しているようです」
「観察している、というのはどういう意味ですかしら」
「特定の窓に向けて、視線を向けていることが確認されています。フィーナの部屋の窓の方向です」
「フィーナの部屋を見ていますかしら」
「そうなります。ただし、何かをしようとしている様子はありません。ただ見ているだけです」
「その人物の身元は」
「調べました。フィーナが連れ去られた時の建物にいた者ではありません。騎士団に引き渡した者たちとも、一致しません」
「全く別の人間ですかしら」
「はい。外見から判断すると、若い男性です。二十代前後と思われます。魔法教会の関係者のような服装でもありませんし、傭兵のような風体でもありません」
「ただの人間、ですかしら」
「そうも取れます。ただし、フィーナの部屋の方向を定期的に確認しているのは事実です」
「フィーナには伝えていますかしら」
「まだです。エルシア様に先に報告しようと思いました」
朱音は少し考えた。
フィーナの部屋の方向を見ている若い男。
危険な意図があるのか。
それとも別の理由があるのか。
「もう少し観察してくださいますかしら。接触の様子や、他の動きを確認してほしいですわ」
「承知しました。フィーナには」
「当面は伝えませんわ。昨夜泣いていましたわ。今は余計な心配をかけたくありませんわ」
「分かりました」
セバスチャンが出ていった。
しかし扉を閉める前に、振り返った。
「もう一点、報告があります」
「なんでしょうかしら」
「フィーナが昨夜泣いていたことについてです」
「ええ」
「フィーナが来た時間、私は廊下にいました。エルシア様の部屋のノック音が一回だったことを確認しました」
「それが何かありますかしら」
「緊急ではないが普通でもないノックでした。フィーナが迷いながら来たということだと思いました」
「ええ、そうだと思いますわ」
「フィーナが迷いながらでも来られたことは、よかったと思っています」
朱音は少し止まった。
「あなたがそういうことを言いますかしら」
「言いたくなったので言いました」
「まあ」
「フィーナが来られなかった場合、一人で抱えていたと思います。一人で抱えるより、エルシア様に話した方がいいと、私は思います」
「同意しますわ」
「それだけです」
セバスチャンが出ていった。
今度は扉が閉まった。
一人になった。
セバスチャンが珍しいことを言っていた。
報告の後に、個人的な言葉を付け加えた。
フィーナが来られたことがよかった、という言葉だった。
感情を表に出さない人間が、そういうことを言った。
フィーナの件が、セバスチャンにも何かを残していた。
朱音は窓の外を見た。
夕方の光だった。
フィーナの部屋を観察している者がいた。
正体不明だった。
危険かどうかも分からなかった。
しかし気になった。
フィーナが昨夜泣いていた。
今日も来た時は普通だった。
しかし夢を見た夜があった。
その夜のことを、朱音は抱えていた。
フィーナは来てくれた。
話してくれた。
しかし朱音はフィーナに全部を話していなかった。
観察している人物のことを、話していなかった。
心配をかけたくなかった。
それは正しい判断だと思っていた。
しかし同時に、隠しているということでもあった。
前世では、全部を一人で抱えていた。
誰にも言わなかった。
今は、全部を一人で抱えていなかった。
セバスチャンが知っていた。マルガレーテが動いていた。
しかしフィーナには言っていなかった。
フィーナを守ることと、フィーナに伝えることは、違う話だった。
守るために隠すことが、正しい時がある。
守るために伝えることが、正しい時がある。
どちらが今かを判断する必要があった。
今夜は、まだ判断しなかった。
もう少し観察を続けてから判断する。
それがセバスチャンへの指示だった。
それが今夜の答えだった。
翌朝、祖母の部屋に行った。
久しぶりだった。
フィーナの件以来、北棟に行く機会がなかった。
ノックした。
「入りな」
入ると、祖母はいつもの椅子に座っていた。
茶が二つあった。
「来ると思っていたよ」
「まあ、分かりましたかしら」
「アカデミーが再開した翌日に来ないのは、何かあるからだ。翌々日に来るなら、整理がついたということだ」
「観察が細かいですわね」
「七十四年の経験だ」
朱音は椅子に座った。
茶を飲んだ。
温かかった。
「フィーナの件の後、どうだ」
「フィーナは元気ですわ。昨夜泣いていましたが、今朝は普通でしたわ」
「昨夜泣いたことを、誰が知っている」
「私と、おそらくセバスチャンですわ」
「フィーナが泣いたことを、お前はどう受け取った」
「遅れた、と思いましたわ」
「遅れた、とはどういう意味だ」
「フィーナが怖い思いをしたことが、時間を置いて出てきましたわ。もう少し早く気づけていれば、という気持ちがありましたわ」
「お前が気づくことができたか」
「難しかったかもしれませんわ。フィーナが普通を装っていましたから」
「装っていたわけではないだろう。本当に普通だったが、夜中に夢を見た」
「そうですわね」
「お前が気づけなかった部分は、フィーナが選んで来たことで解決した」
「ええ」
「それでいい」祖母が茶を飲んだ。「全部を先回りして気づくことはできない。しかし来た時に受け取れれば、それで十分だ」
「それで十分ですかしら」
「十分だ。わしはお前が六歳の時から記録しているが、全部を先回りできた場面はない。しかし来た時に受け取ることはできた」
「それが関係というものですかしら」
「そうだな」
朱音は少し考えた。
「お祖母様」
「なんだ」
「フィーナの部屋を定期的に観察している者がいますわ」
祖母が少し間を置いた。
「セバスチャンから聞いているか」
「報告を受けましたわ。まだ正体が分かりませんわ」
「フィーナには言っていないのか」
「まだですわ。心配をかけたくないと思っていますわ」
「その判断は正しいか」
「分かりませんわ。だから今日、お祖母様に聞きに来ましたわ」
祖母が窓の外を見た。
少し間があった。
「フィーナはどういう娘だ」
「明るくて、感情が顔に出ますわ。しかし芯があります。昨夜泣いた後、今朝は自分で来て話しましたわ。そして名前を呼ぶことで役に立てると言いましたわ」
「役に立てると言えた娘だ」
「ええ」
「そういう娘は、隠されることを喜ばない」
「守るために隠すのですわ」
「守ることと、信頼することは別の話だ」
朱音は少し止まった。
「信頼、ということですかしら」
「隠すことは、相手を信頼していないということになる場合がある。この情報を知ったら対処できない、と判断することは、相手の力を信頼していないということだ」
「フィーナは対処できますかしら」
「お前が判断することではない。フィーナが判断することだ」
「知った上で、フィーナが判断する機会を与えるということですかしら」
「そういうことだ」
朱音は祖母の言葉を聞いた。
隠すことが守ることではない場合がある。
信頼することが守ることになる場合がある。
「いつ伝えますかしら」
「お前が決めることだ。ただし遅すぎることはない方がいい」
「分かりましたわ」
茶を飲んだ。
祖母と二人で、静かに茶を飲んだ。
「お祖母様」
「なんだ」
「フィーナの件で、私も心配をかけましたわよね」
「かけたな」
「申し訳ありませんでしたわ」
「礼はいらない」
「礼ではなく謝りですわ」
「謝りもいらない」祖母が少し笑った。「お前が無事だったから、結果として心配だけで終わった。それで十分だ」
「次は心配をかけないようにしますわ」
「次があるかどうかは分からない。あった時にそうすればいい」
「まあ、お祖母様らしいですわ」
「七十四年生きると、そういう言い方になる」
「私もいつかそうなりますかしら」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない。お前はわしとは違う」
「どこが違いますかしら」
「わしは一人でいることを選んだ。お前はそうでないかもしれない」
「一人ではありませんわ」
「そうだな」祖母が頷いた。「それがわしとの違いだ」
茶が終わった。
立ち上がった。
扉に向かった。
「フィーナに話す前に、もう一度来なさい」
振り返った。
「また来ますかしら」
「話す前に来い。話し方を一緒に考えてやる」
朱音は少し止まった。
「ありがとう存じますわ、お祖母様」
「礼はいらない。わしも聞きたいからだ」
扉を閉めた。
廊下に出た。
北棟の冷たい空気が来た。
フィーナに伝える前に、もう一度来る。
話し方を一緒に考える。
七十四年間、一人でいることを選んだ老婦人が、そういうことを言った。
前世では、そういう人間がいなかった。
話す前に一緒に考えてくれる人間が、いなかった。
今はいた。
北棟の廊下を歩きながら、朱音はそのことを噛み締めた。
心配をかけた。
心配をかけた側が、言えることだった。
心配してくれる人間がいる側が、言えることだった。
前世では言えなかった言葉だった。
今は言えた。
それだけで、今日は十分だった。




