第六十八話 目が怖かった
翌朝、フィーナは普通に来た。
ノックが二回だった。
いつものノックだった。
「おはようございます、エルシア様」
「おはようございますわ」
「昨夜はよく眠れましたか」
「まあまあですわ。フィーナは」
「一度起きましたけど、また眠れました」
「よかったですわ」
「エルシア様のところに来ようかと思いましたが、眠れたので来ませんでした」
「眠れたなら来なくて正解ですわよ」
フィーナが着替えを手伝いながら言った。
「昨夜、話を聞いてくれてありがとうございました」
「どういたしまして」
「少し楽になりました」
「それはよかったですわ」
「また夢を見たら来てもいいですか」
「何度でも来なさいな」
フィーナが嬉しそうにした。
着替えが終わった。
鏡の前に立った。
フィーナが髪を整えながら言った。
「エルシア様、一つ聞いていいですか」
「なんでしょうかしら」
「前にも聞きましたけど、また聞きたいことがあって」
「どうぞ」
「救出に来てくれた時、エルシア様の目が怖かったって言いましたよね」
「ええ」
「あの目は、どういう状態の時に出ますか」
朱音は少し考えた。
「感情を切っている時ですわ」
「感情を切ると、ああいう目になるんですね」
「そうですわ。自分では分かりませんわ。あなたが教えてくれなければ、知りませんでしたわ」
「昨夜の模擬戦の後、マルガレーテさんと話したんです」
「マルガレーテと」
「はい。模擬戦を見ていたんですよ、私。止められていたんですけど、少し遠くから見ていました」
「見ていましたかしら」
「はい。模擬戦の途中で、エルシア様の目があの時の目になりました」
「刃引き刀を使っていた時ですかしら」
「はい。刃引き刀を使い始めてから、目が変わりました」
朱音は少し考えた。
刃引き刀を使うことで、設計通りの動きになる。
設計通りの動きは、前世の影抜きの動きだった。
前世の動きをする時、前世の感覚が戻ってくる。
前世の感覚が戻る時、感情が切れていく。
「その流れは分かりましたわ」
「どういう流れですか」
「刃引き刀を使うと、前世の動きになりますわ。前世の動きをすると、前世の感覚が来ますわ。前世の感覚が来ると、感情が切れていきますわ。感情が切れると、目が変わりますわ」
フィーナが聞いていた。
「それって、自動的に起きることですか」
「意識しなければ、自動的に起きると思いますわ。意識すれば、ある程度は防げますわ」
「意識するとは、どういうことですか」
「守りたいものを思うことですわ」
「守りたいもの」
「ええ。昨日の朝、お父様と話しましたわ。守りたいものを思いながら剣を振うと、感情が乱れない。むしろ安定するとおっしゃいましたわ」
「お父様がそんなことを」
「珍しいでしょう」
「珍しいです。お父様って、ほとんど話さないじゃないですか」
「ええ。しかし剣の話は、正確におっしゃいますわ」
フィーナが髪を整え終えた。
鏡の中で、朱音と目が合った。
「エルシア様の目、今は普通ですよ」
「そうですかしら」
「はい。いつもの目です」
「いつもの目というのはどんな目ですかしら」
フィーナが少し考えた。
「鋭いけど、ちゃんとこっちを見ている目です。怖い時は、見ているんだけど何かを見ていない感じがします」
「何かを見ていない」
「はい。私を見ているんだけど、私を見ていない。向こう側を見ているみたいな感じです」
朱音は鏡の中の自分の目を見た。
鋭かった。
しかしフィーナの言う通り、フィーナを見ていた。
「向こう側を見ている、という表現が正確ですわ」
「そうですか」
「前世の感覚が来ると、今世の景色が薄くなりますわ。薄くなった分、向こう側が見えてくるのかもしれませんわ」
「向こう側というのは前世のことですか」
「そうかもしれませんわ。はっきりと見えているわけではないですわ。しかし今世の景色が薄くなった分だけ、前世の何かが透けて見えているのかもしれませんわ」
フィーナが少し間を置いた。
「それって、怖くないですか。エルシア様自身は」
「怖いとは思いませんわ。ただ」
「ただ」
「戻る時に、少し時間がかかることがありますわ。戻ることに慣れていない時は、どこに戻ればいいか迷う感覚がありますわ」
「迷う」
「前世と今世の間に、一瞬だけ宙に浮いている感覚がありますわ」
フィーナが真剣な顔で聞いていた。
「その時に名前を呼べば、戻れると言いましたよね」
「ええ」
「効果がありましたか、マルガレーテが呼んだ時」
「揺らぎましたわ。完全に戻ったわけではありませんでしたが、揺らぎましたわ」
「揺らいだということは、効果があったということですよね」
「そうですわ」
「じゃあ、次は完全に戻れるかもしれないですね」
「そうかもしれませんわ。しかし戦闘中に戻りすぎると、問題がありますわ」
「問題というのは」
「感情が戻ると、動きに影響が出る可能性がありますわ。戦闘中は、ある程度感情を切った状態の方が動きが安定しますわ」
「難しいですね」
「ええ。感情を持ちながら動くこともできますわ。しかしそれには訓練が必要ですわ。今朝の確認では、できていましたわ。しかし激しい戦闘ではまだ分かりませんわ」
「一つずつ確認しているんですね」
「そうですわ」
フィーナが窓の外を見た。
朝の光が差していた。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「私が名前を呼ぶことが、役に立てるかもしれないということですよね」
「そうなるかもしれませんわ」
「マルガレーテさんが呼んでも効果があった。でも私が呼んだ方が、もっと効果があるかもしれないって思います」
「なぜですかしら」
「守りたいものを思うと安定するって言いましたよね。私がいることで、守りたいものを思い出せるかもしれないから」
朱音は少し止まった。
「自分をそういう存在として言えますかしら」
「言えます」フィーナが真っ直ぐに言った。「私はエルシア様に守ってもらいました。だから、今度は少しでも役に立ちたいです。名前を呼ぶくらいなら、私にもできます」
「まあ」
「できますよね」
「できますわよ」
「じゃあ、そうします」
朱音はフィーナを見た。
昨夜泣いた赤毛の侍女が、今朝は真っ直ぐに言っていた。
「よろしくお願いしますわ」
「どういたしまして」
フィーナが嬉しそうにした。
着替えが全部終わった。
朝食に向かった。
廊下を歩きながら、朱音は今朝の会話を整理した。
目が怖かった、とフィーナが言った。
向こう側を見ている目、とも言った。
正確な表現だった。
前世の感覚が来ると、今世が薄くなる。
薄くなると、前世が透けて見える。
その状態が、怖い目として映っていた。
しかし名前を呼ばれると揺らぐ。
揺らいだということは、今世に引き戻される力が働いたということだった。
守りたいものを思う力が、働いたということだった。
フィーナが、その力を自分が担えると言っていた。
担えるかどうかは、試してみなければ分からなかった。
しかし試せる状況がある。
試せる人間がいる。
それだけで十分だった。
食堂に入った。
父がいた。
母がいた。
ヴァルターがいた。
全員が揃っていた。
「おはようございますわ」
「おはよう」とヴァルターが言った。
父が頷いた。
母が微笑んだ。
いつもの朝だった。
フィーナが席についた。
朝食が始まった。
昨夜フィーナが泣いた翌朝の、いつもの朝食だった。
いつもと同じ朝食だったが、昨夜のことがあった上でのいつもだった。
その違いが、今朝の空気に少しだけ混じっていた。
分かる者には分かる違いだった。
分からない者には分からない違いだった。
それでよかった。
全部が全員に分かる必要はなかった。
分かる者が、分かる範囲で動けばよかった。
それが今の朱音たちのやり方だった。
朝食が続いた。
今日も動く。
それだけだった。




