第六十七話 フィーナの涙
その夜、フィーナが来た。
夕食が終わった後だった。
ノックが一回だった。
緊急の時のノックではなかった。
しかし普段のノックでもなかった。
「どうぞ」
フィーナが入ってきた。
目が赤かった。
泣いていた。
あるいは泣いた後だった。
「どうしましたかしら」
「えっと」
フィーナが部屋の入口に立ったまま、少し間を置いた。
「泣いていましたかしら」
「少し」
「入りなさいな」
フィーナが入った。
椅子に座った。
朱音も向かいに座った。
テーブルの上に茶はなかった。
フィーナが自分で用意しなかったということは、それどころではなかったということだった。
「何がありましたかしら」
「怖い夢を見ました」
「連れ去られた時の夢ですかしら」
「はい」フィーナが少し間を置いた。「あの部屋の夢でした。暗くて、縄が巻いてあって、誰も来なかったら、という夢でした」
「誰も来なかったら」
「エルシア様が来てくれなかったら、どうなっていたか、という夢でした」
朱音は黙っていた。
フィーナが続けた。
「夢の中では、誰も来なくて。朝になって、また夜になって。それが何日も続いて」
「怖い夢でしたわね」
「目が覚めても、しばらく怖かったです。本当にそうだったんじゃないかって、しばらく分からなくて」
「今は分かっていますかしら」
「分かっています。部屋に戻ってきましたから。ここにいますから。でも」
フィーナが目を拭いた。
「怖かった、という気持ちが残っています。あの時の怖さが、夢で来ました」
「そうですわね」
「エルシア様は来てくれました。でも夢の中では来なかった。その差が怖かったです」
朱音は少し考えた。
何を言うべきかを考えた。
前世では、誰かがこういう状態の時にどう言葉をかけるかを、知らなかった。
知る機会がなかった。
しかし今は、少し分かる気がした。
「フィーナ」
「はい」
「夢の中では来なかったかもしれませんわ。しかし現実では来ましたわ」
「はい」
「来た、という事実は変わりませんわよ」
「変わらないですね」
「ええ。夢がどうであっても、現実に来ましたわ。それは覚えていてくださいますかしら」
フィーナが頷いた。
「覚えています」
「それで十分ですわ」
「十分ですか」
「ええ。夢の中のことと、現実のことは違いますわ。夢で怖い思いをすることはあると思いますわ。しかし現実に戻ってきた時に、現実を確認できれば大丈夫ですわ」
フィーナが少し考えた。
「確認する方法はありますか」
「今夜のように、来ればいいですわ」
「エルシア様のところに来ていいんですか」
「いつでも」
「夜中でも」
「いつでもですわ」
フィーナが少し笑った。
泣いた後の、少し歪んだ笑いだった。
「それは、エルシア様の睡眠を奪うことになりますね」
「構いませんわよ。稽古で起きていることが多いですわ」
「それもどうかと思いますけど」
「まあ」
二人が少し笑った。
静かな笑いだった。
夜の部屋の静かさに合った笑いだった。
「フィーナ」
「はい」
「一つ聞いていいですかしら」
「なんですか」
「護身術の訓練は続けていますかしら」
「続けています。マルガレーテさんが厳しいですけど」
「マルガレーテは厳しいですわ」
「エルシア様より厳しいです」
「まあ、そうかもしれませんわね」
「でも、できることが増えると、少し安心します」
「安心、とはどういう意味ですかしら」
「また連れ去られることが、完全には防げないかもしれない。でも、何かできることがあると、気持ちが違います」
「無力ではないということですわね」
「そうです。あの部屋にいた時、何もできなかったです。縄が巻いてあって、暗くて、何もできなかった。その感覚が一番嫌でした」
「何もできなかった、という感覚が残っているということですかしら」
「はい。だから訓練しています。次は少しでも何かできるようにしたいです」
朱音はフィーナを見た。
赤い目をしていた。
怖い夢を見た後だった。
しかし何かができるようになりたいと言っていた。
前世で似た感覚があったかを考えた。
あった。
初めて新選組と対峙した夜の後に、似た感覚があった。
何もできなかった感覚ではなかった。
しかし次は違うようにしたいという感覚は、あった。
「フィーナ」
「はい」
「今夜の夢の話を、してくれてありがとうございますわ」
フィーナが少し驚いた顔をした。
「なんでですか、私が一方的に話しに来ただけですよ」
「それでも、ありがとうですわ」
「どういたしまして。でも、なぜですか」
「あなたが怖い夢を見たことを、私が知ることができましたわ。知らなければ、気づけませんでしたわ」
「気づく、とはどういう意味ですか」
「フィーナが怖い思いをしていることを、知ることができましたわ。知れば、何かができますわ。知らなければ、何もできませんわ」
「でも、私が来ただけですよ」
「来ることが大事ですわよ」
フィーナが少し間を置いた。
「エルシア様に来てよかったです」
「よかったですわ」
「また来てもいいですか」
「いつでも来なさいな」
「夜中でも」
「夜中でもですわ」
フィーナが立ち上がった。
扉に向かった。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「今日の夢、もう一度見るかもしれないです」
「そうかもしれませんわね」
「その時また来てもいいですか」
「いつでも」
「ありがとうございます」
扉が閉まった。
一人になった。
窓の外に夜があった。
星が出ていた。
フィーナが怖い夢を見た夜だった。
しかしフィーナは来た。
来て、話して、帰った。
話すことで、少し楽になったかもしれなかった。
ならなかったかもしれなかった。
しかし来た。
来たことが大事だった。
前世では、怖い夢を見ても誰のところにも行けなかった。
行く場所がなかった。
今のフィーナには、行く場所があった。
それが朱音のところだった。
(見える範囲の人々の幸せを繋ぐこと)
フィーナが来られる場所があること。
それが今夜の、小さな幸せだった。
大義には遠い話だった。
しかし確かなことだった。
確かだから、重かった。
重さが今夜の全てだった。
稽古場に行こうかと思った。
しかし今夜は行かなかった。
フィーナがまた来るかもしれなかった。
来た時に、部屋にいる方がよかった。
寝台に横になった。
眠れるかどうかは分からなかった。
しかし横になった。
フィーナが夢をもう一度見た時に、来られるように。
それだけのために、今夜は部屋にいた。
それだけのことが、前世には一度もなかったことだった。
それだけで、今夜は十分だった。




