第七話 漆黒の瞳
祖母と二人きりになったのは、その日が初めてだった。
エルザ・フォン・クロイツェルは屋敷の北棟に部屋を持っていた。北棟は日当たりが悪く、冬は特に寒い。しかし祖母は長年そこに住んでいた。理由は聞いたことがなかった。エルシアとしての記憶の中にも、祖母が北棟を選んだ理由は残っていなかった。
呼ばれたのは昼過ぎだった。
侍女が「エルザ様がお呼びでございます」と告げに来た時、朱音は稽古場から戻ったばかりだった。昼間も時間があれば稽古場に行くようになっていた。夜だけでは足りなかった。六歳の体に技術を刻み込むには、時間が必要だった。
着替えて、北棟に向かった。
フィーナがついてこようとしたので、首を振った。
「一人で参りますわ」
「でも」
「大丈夫ですわ」
フィーナが不安そうな顔をした。祖母のことが少し怖いのかもしれなかった。屋敷の中で、エルザ・フォン・クロイツェルを怖いと思っている者は多かった。エルシアとしての記憶がそう教えていた。
理由は分かる気がした。
北棟の廊下は静かだった。他の棟に比べて人の気配が少なかった。使用人たちもここにはあまり近づかない。祖母がそれを望んでいるからだった。
扉の前に立った。
ノックした。
「入りな」
しわがれた声がした。若い頃は美声だったのだろうと思わせる、骨格だけが残った声だった。
扉を開けた。
部屋は、思ったより明るかった。
北向きだから日が入らないはずだが、壁に掛けた鏡が外からの光を上手く取り込んでいた。誰かが工夫して設置したのか、それとも長年住むうちに自然にそうなったのか。
家具は少なかった。椅子が二脚と、小さなテーブルと、本棚と、寝台。それだけだった。本棚には古い本が詰まっていた。タイトルが読めないほど背表紙が傷んでいるものもあった。
椅子に祖母が座っていた。
小柄な老婦人だった。白髪を高く結い上げていた。背筋が真っ直ぐだった。七十四歳とは思えない姿勢だった。手が膝の上で重なっていた。節くれだった手だった。
そして目が、朱音を見ていた。
漆黒の目だった。
この屋敷で、漆黒の目を持つ人間は二人だけだった。エルシアと、この祖母だけだった。父も兄も、目の色が違った。
「座りな」
朱音は向かいの椅子に座った。
テーブルの上に茶が二つ置いてあった。いつ用意したのか分からなかった。部屋の中に他の人間はいなかった。
「飲みな」
朱音は茶を手に取った。温かかった。
祖母は自分の茶を持ったまま、朱音を見ていた。
長い沈黙だった。
この屋敷には無口な人間が多いと、朱音は思った。父もそうだった。祖母もそうだった。言葉を持たない家系なのかもしれない。それとも言葉が要らないほど、目が語る家系なのかもしれない。
「目が変わったな」
祖母が言った。
朱音は茶を一口飲んだ。
「まあ、何のことでしょう」
「誕生日の夜からだ。気づいておる者は少ないがね」
「さようでございますか」
「わしは気づいた」
朱音は祖母を見た。
漆黒の目が、真っ直ぐに朱音を見ていた。値踏みでも、試しでもない目だった。確認している目だった。既に答えを持っていて、それが合っているかどうかを確認している目だった。
「また出たか、と思ったよ」
また、という言葉に、朱音は引っかかった。
「また、とおっしゃいますと」
祖母は茶を一口飲んだ。それから、ゆっくりと話し始めた。
クロイツェル家の女性に、数百年に一度、暗属性の魔力が現れることがある。それは家の中では長い間、秘密として扱われてきた。表向きは存在しないこととして。内向きには、呪いとして。
「あなたで三人目よ」
「三人目」
「二百年前に一人。八十年前に一人。そして今のあなた」
朱音は茶を持ったまま、祖母の話を聞いた。
先の二人がどうなったか、朱音はもう少しで聞こうとした。しかし聞かなかった。聞かなくても、ある程度は想像できた。この世界で暗属性がどう扱われているか、エルシアとしての知識がある。良い扱いをされてきたとは思えなかった。
祖母がそれを読んだように言った。
「知りたければ、書庫を見なさい」
「書庫、でございますか」
「クロイツェル家の古い書庫だ。鍵がいる」
祖母は懐から何かを取り出した。
古い鍵だった。
稽古場の鍵より古かった。金具が変色していて、形が微妙に歪んでいた。長い間、使われずにいたような鍵だった。
テーブルの上に置いた。
「読みなさい。全部」
朱音は鍵を見た。
拾い上げた。
冷たかった。稽古場の鍵とは違う冷たさがあった。長い間、誰にも触れられていなかったものの冷たさだった。
「お祖母様は」
「なんだね」
「なぜ私に見せてくださいますの」
祖母は少し間を置いた。
「わしが三人目を見つけた時のために、ずっと持っていたのさ」
それだけ言った。
説明でも、感傷でもなかった。ただの事実として言った。前世で出会った年嵩の人間の中に、似た話し方をする者がいた。長く生きた人間は、感情に言葉をかけることをやめることがある。事実だけを語る。感情は目だけに残す。
祖母の漆黒の目が、じっとこちらを見ていた。
「ありがとう存じますわ、お祖母様」
令嬢語変換が来た。
来たが、今回は言いたいことと大差なかった。ありがとうは、ありがとうだった。
祖母は返事をしなかった。
茶を飲んだ。
朱音も茶を飲んだ。
二人はしばらく無言で座っていた。
この沈黙は、父との沈黙とは種類が違った。父との沈黙は、言葉の代わりに何かが伝わってくる沈黙だった。祖母との沈黙は、言葉が要らないということが伝わってくる沈黙だった。
「一つ、聞いてよろしいですか」
「なんだね」
「お祖母様も、暗属性をお持ちで」
祖母は少し笑った。
唇の端だけが動く、小さな笑いだった。
「わしは持っておらんよ。持っておったら、もっと若い頃に分かっておった」
「では、なぜ」
「わしの母が、二人目だった」
朱音は黙った。
八十年前に一人、と祖母は言った。七十四歳の祖母の母が、八十年前に暗属性を持って生まれた。そしてそれがどうなったか、書庫に記録がある。
「お母様は」
「記録を読みなさい」と祖母は言った。「わしの口からは言わん」
朱音は聞くのをやめた。
鍵を握りしめた。
小さな手の中で、古い金属が体温で少しだけ温かくなった。
「もう一つ」
「なんだね」
「お祖母様は、私が怖くはありませんか」
「何がだね」
「私の目が変わったことが。私が何者か分からないことが」
祖母はまた、唇の端だけで笑った。
「変わった目の娘を見たのは、これで二度目じゃよ」
二度目。母親のことを言っているのだろうと朱音は思った。
「怖かったかね」と祖母は続けた。「最初はな。しかし怖いだけでは何も分からん。見続けることにした」
「見続けた結果は」
「お前が来た」
それだけ言って、祖母は茶を飲み干した。
会話が終わった気配がした。
朱音は立ち上がった。一礼した。扉に向かった。
「一つ、言っておくよ」
振り返った。
祖母は椅子に座ったまま、窓の方を向いていた。朱音を見ていなかった。
「消えるなよ」
朱音は止まった。
令嬢語変換が来る前に、何かが来た。
変換ではなかった。変換の前に、喉の奥で何かが止まった。令嬢らしい返事が来るはずだった。来なかった。
代わりに出たのは、変換されていない言葉だった。
「……消えない」
祖母は振り返らなかった。
しかし小さく頷いたのが、横顔から分かった。
朱音は扉を開けて、北棟の廊下に出た。
冷たい空気が頬に当たった。
鍵を手の中で転がした。古い金属の感触があった。
(消えない)
前世でも消えた。歴史に名前一つ残らなかった。今度も消えるかもしれない。この世界でも、暗属性は封じられてきた歴史がある。書庫の記録がそれを示しているのだろう。
しかし今度は違う。
何が違うのかは、まだはっきりとは言えなかった。ただ、違うとだけ分かった。
廊下を歩いた。
北棟の冷たい空気の中を、鍵を握りしめて歩いた。
フィーナが北棟の入口で待っていた。
「エルシア様、大丈夫でしたか」
「ええ」
「お祖母様、怖くなかったですか」
朱音はフィーナを見た。
「少しも」
フィーナが「そうですか」と安心したような顔をした。
二人で廊下を歩きながら、朱音は手の中の鍵を感じた。
今夜、書庫に行く。
稽古場の次に、書庫の鍵ができた。この屋敷には、開けるべき扉がまだあった。




