幕間 人斬りと黒薔薇・其の二
一週間後の朝、訓練場に全員が集まった。
前回と同じ顔ぶれだった。
しかし空気が違った。
前回は確認のための模擬戦だった。
今回は覚悟のある顔をしていた。
黒薔薇十名が横一列に並んでいた。
防具を着けていた。
前回はなかったものだった。
頭部と胴部に、革製の防具があった。
「防具を用意しましたわね」
「はい」とマルガレーテが言った。「怪我を覚悟の上ですが、致命的な部位への被弾は防ぎたいと思いました」
「よい判断ですわ」
朱音は訓練場の反対側に立った。
腰に刃引き刀を差していた。
三番刀だった。
最初にゴルドに発注した朱シリーズの三番刀だった。
実戦で使い込んだ刀だった。
刃こぼれが出て、稽古用になり、さらに刃引きされた刀だった。
柄の感触は変わっていなかった。
重心も変わっていなかった。
刃がないだけで、全部同じだった。
父が端に立っていた。
セバスチャンが記録係として来ていた。
カインが来ていた。
「今回は記録できるかどうか分からない」と昨日カインが言っていた。
「なぜですかしら」
「前回は峰打ちの速度だった。今回は神速と聞いた。神速で動く刀を、人間の目で追えるかどうかが分からない」
「記録できなかった場合は」
「感じたことを書く」
カインらしい答えだった。
マルガレーテが中央に出た。
「ルールを確認します。エルシア様は刃引き刀を刃として使用してください。防護のない部位への直撃は避けてください。黒薔薇は模擬暗器を使用。制圧または意識不明で脱落。制限時間は十分間」
「分かりましたわ」
「一つ確認があります」
「なんでしょうかしら」
「前回、エルシア様は影域展開を使いました。今回も使いますか」
「使いますわ。実戦では使いますので」
「承知しました。黒薔薇全員に伝えてあります。影域展開が来た時の対処を訓練しました」
「まあ、どんな対処ですかしら」
「感覚に頼らず、事前に決めた動きを続けることです。視覚が落ちても、体が動くように訓練しました」
「よく考えましたわ」
「エルシア様の手の内を全部把握した上で、どこまで対処できるかが今日の確認です」
マルガレーテが戻った。
全員が構えた。
「始め」
最初の一秒で、前回と違うことが分かった。
黒薔薇の動き方が変わっていた。
前回は全方向への展開を基本としていた。
今回は違った。
全員が密集していた。
固まっていた。
固まることで、互いに補い合う形にしていた。
一名が動けなくなった時、隣が補う。
密集した集団は、個別に狙いにくい。
しかし密集には弱点がある。
密集した集団に入り込まれれば、互いが邪魔になる。
影の回廊だった。
最初から、密集の中に入ることを選んだ。
踏み込んだ。
神速だった。
前回の峰打ちの速度ではなかった。
設計通りの刀の動きで、設計通りの速度で動いた。
黒薔薇の先頭が反応しようとした。
反応が完了する前に、刃引き刀が当たっていた。
当たった、という感触が相手に届く前に、次に移っていた。
二名目。
三名目。
止まらなかった。
密集の中を縫って動いた。
密集した集団は、互いが邪魔になった。
木剣でも、模擬暗器でも、密集した状態では振るえなかった。
しかし朱音には関係なかった。
刃引き刀は短い動きで動かせた。
密集した空間でも、必要な動きだけができた。
四名目。
五名目。
マルガレーテが動いた。
密集を抜けた。
一人で外に出た。
「エルシア様」
呼んだ。
朱音は密集の中で止まった。
六名目を制圧する瞬間だった。
しかし声が来た。
フィーナではなかった。
マルガレーテだった。
しかし呼ばれた。
影域展開が一瞬揺らいだ。
その瞬間に、黒薔薇の一名が暗器を投擲した。
模擬ナイフだった。
影域展開が揺らいだ一瞬の隙を狙っていた。
避けた。
しかし完全には避けられなかった。
肩を掠めた。
「まあ」
「影域展開が揺らいだ瞬間を狙いました」とマルガレーテが言った。
「名前を呼ぶことで、影域展開を乱せると考えましたかしら」
「はい。前回の訓練後に、エルシア様が名前を呼ばれた時に反応することを観察していました」
フィーナとの会話が、マルガレーテに観察されていた。
「まあ、よく見ていましたわね」
「護衛の仕事は観察ですから」
朱音は少し考えた。
名前を呼ばれると影域展開が揺らぐ。
フィーナが言っていた。
名前を呼べば戻れると。
その効果が、今日確認された。
しかし戦術として使われた。
「面白いですわ」
「弱点を見つけました」
「弱点と長所は表裏ですわ。名前で戻れることと、名前で乱れることは、同じ性質から来ていますわ」
「どう対処しますか」
「乱れた後に素早く戻ることを訓練しますわ。完全に防ぐことはできませんわ。しかし乱れる時間を短くすることはできますわ」
「承知しました。こちらは引き続き使います」
「どうぞ」
六名目の制圧を再開した。
今度はマルガレーテが呼んでも、揺らぎが小さかった。
一度揺らいだことで、予測できていた。
予測できれば、準備できた。
準備できれば、揺らぎが小さくなった。
七名目。
八名目。
密集が崩れ始めていた。
六名が脱落した時点で、残りの四名の密集は薄くなっていた。
薄くなった密集は、強みが消えていた。
九名目を制圧した。
残りはマルガレーテだけだった。
マルガレーテが構えていた。
仕込み杖だった。
「最後ですわ、マルガレーテ」
「はい」
「今日は前回より速かったですわよ」
「感じました。見える時と見えない時が、混在していました」
「どんな感触でしたかしら」
「踏み込みは見えました。しかし当たった瞬間が分かりませんでした。気づいた時には当たっていました」
「それが神速ですわ」
「超神速は」
「もっと速いですわ。見えない、ではなく、見えた時には終わっている速度ですわ」
マルガレーテが少し間を置いた。
「その速度には、対処できません」
「今は、ですわ」
「今は、ですか」
「訓練を続ければ、対処できない速度への対処が変わりますわ。完全に対処できるようにはならないかもしれませんわ。しかし変わりますわ」
「どう変わりますかしら」
「受けることから、避けることに変わりますわ。見えないものは受けられませんわ。しかし見えないものでも、来る前に動いていれば避けられますわ」
「来る前に動く、というのはどういう意味ですか」
「超神速には、予備動作がありますわ。小さいですわ。しかしゼロではありませんわ。その予備動作を読めれば、来る前に動けますわ」
「今日、その予備動作は見えましたか」
「見えませんでした。神速でも見えないほど小さいですわ。しかし訓練を続ければ、見えるようになるかもしれませんわ」
マルガレーテが頷いた。
「では最後にいかせていただきます」
「どうぞ」
マルガレーテが動いた。
仕込み杖での突きだった。
速かった。
前回より速かった。
一週間の訓練で、速くなっていた。
避けた。
仕込み杖が空を切った。
その瞬間に、刃引き刀で反撃した。
マルガレーテの胴に当たった。
防具があった。
音がした。
マルガレーテが止まった。
膝をついた。
倒れなかった。
こらえた。
「まあ」
「防具がなければ、動けなかったと思います」
「防具があって正解でしたわ」
「はい」
マルガレーテが立ち上がろうとした。
足がわずかに震えていた。
しかし立ち上がった。
「終わりです」
訓練場が静かになった。
セバスチャンが時間を確認していた。
「三分二十二秒です」
前回より三分以上短縮だった。
カインが来た。
「記録できなかった」
「まあ、予想していましたわ」
「動きが速すぎて目が追えなかった。しかし感じたことを書いた」
「どんなことを書きましたかしら」
「風が動く。次に当たっている。その二つの間に、何があったか分からない」
「詩的ですわね」
「事実だ。説明できないから、感じたことを書いた」
マルガレーテが全員に向かって言った。
「本日の訓練を踏まえて、今後の訓練方針を変えます」
全員が聞いていた。
「名前を呼ぶことで影域展開を乱せることが確認されました。これを訓練に組み込みます。ただし、エルシア様もそれへの対処を訓練しています。いたちごっこになります」
「それでいいですわ」と朱音は言った。「互いが対処し合うことで、どちらも強くなりますわ」
「そう考えます。もう一点。密集戦術は有効でした。しかし密集が薄くなった時の対処が不十分でした。密集を維持する訓練と、薄くなった後の対処を訓練します」
「三点目は」とカインが言った。
マルガレーテが少し止まった。
「三点目があると分かりましたかしら」
「あると思って聞いた」
「はい。防具の有効性が確認されました。今後の訓練では、防具の使用を標準にします。ただし実戦では防具を着けることができない場面があります。防具なしの訓練も、別途行います」
全員が頷いた。
父が端から来た。
「マルガレーテ」
「はい」
「密集が薄くなった時の対処は、縦に変えろ」
「縦に、とはどういう意味でしょうか」
「横の密集は、崩れると弱くなる。縦の配置は、一名が倒れても後続が補える」
「縦の一列ということですか」
「そうだ。狭窄路を作ることだ。外に逃げさせるな。一列に保て」
「承知しました」
父が出ていった。
短かった。
しかし指摘は正確だった。
黒薔薇が前回の課題を解決して密集を選んだ。
密集の弱点を父が即座に指摘した。
縦の一列にすることで、狭窄路の条件を作る。
狭窄路は、前世の朱音が最も有効に使った地形だった。
その地形を、屋外の訓練場に人間で作るという発想だった。
「鋭い指摘だ」とセバスチャンが言った。
「ええ」と朱音は答えた。
「縦の一列を維持しながら、入り込まれないようにする方法を考えなければなりませんね」
「それが次の課題ですわ」
カインが言った。
「縦の一列を突破する方法は」
「夜嵐ですわ。回転しながら全方位に一閃する技ですわ。縦の一列でも、回転すれば全員に当たりますわ」
「では縦の一列の対処は、夜嵐を防ぐことになる」
「そうですわ。夜嵐の対処を考えることが、次の黒薔薇の課題ですわ」
カインがメモした。
「訓練の課題が連鎖している」
「ええ。対処すれば次の課題が出ますわ。その繰り返しで、どちらも強くなりますわ」
訓練場の片付けが始まった。
朱音は刃引き刀を確認した。
刃がなかった。
しかし今日も十分に機能した。
実戦用の刀と同じ動きができた。
「セバスチャン」
「はい」
「訓練用台帳に、今日の記録を追加してくださいますかしら」
「すでに書いています」
「三番刀の状態は」
「刃引き後も、刀身の状態は良好です。当面は使い続けられます」
「ありがとうございますわ」
刃引き刀が今日も使われた。
実戦で刃こぼれが出て、稽古用になり、さらに刃引きされた。
それでもまだ使えていた。
消耗品としての刀の、最後の仕事。
セバスチャンが台帳に書いた言葉だった。
最後の仕事が、今日の訓練で役に立った。
悪くなかった。
前世でも、使い切ることへの敬意があった。
使えるうちは使い切る。
使い切った後は、感謝する。
それだけだった。
それで十分だった。




