第六十五話 霧島朱音の目
その日の午後、フィーナが来た。
珍しい顔をしていた。
困った顔と、何かを言おうとしている顔が混じっていた。
「どうしましたかしら」
「えっと」フィーナが少し間を置いた。「昨夜のことで、聞きたいことがあります」
「なんでしょうかしら」
「建物の中で、エルシア様の目を見たんですけど」
「目、ですかしら」
「はい。部屋に来てくれた時、暗くてよく見えなかったんですけど。朱鬼を光らせてくれましたよね」
「ええ」
「その時、エルシア様の目が見えて」
フィーナが少し止まった。
「目が、怖かったです」
朱音は少し間を置いた。
「怖かった、というのはどういう意味ですかしら」
「エルシア様じゃないみたいな目、というか。いつものエルシア様じゃない目でした」
「まあ」
「前に言ったことがあります。救出に行く前に、エルシア様の目が怖い時があるって。あの時と同じ目でした」
フィーナが言っていた。
審問の前に、エルシア様の目が怖かった時があると。
「怖い目というのは、どんな目ですかしら」
「うまく言えないんですけど。感情がない目、というか。全部切り捨てた目というか」
感情がない目。
全部切り捨てた目。
「前世の目ですわ」と朱音は言った。
フィーナが少し止まった。
「前世の目、というのは」
「前世で人を斬っていた時の目ですわ。感情を切って動いていた時の目ですわ」
フィーナが黙った。
処理していた。
「昨夜、エルシア様は感情を切って動いていたんですか」
朱音は少し考えた。
今朝の稽古で確認したことがあった。
感情を持ちながら動けたという確認だった。
しかし建物の中に入る前は、どうだったか。
建物の中に入る前に、感情を切っていた。
前世の習慣だった。
裏口の鍵を開ける前に、切っていた。
廊下を進む時に、切っていた。
三名の声が聞こえた部屋の前で、切っていた。
「切っていましたわ。奥の部屋に着くまでは」
「フィーナの部屋に来た時は」
「来た時は、来た瞬間に戻っていたかもしれませんわ。意識していませんでしたわ」
「戻っていた、というのは感情が戻ったということですか」
「そうですわ」
フィーナが少し間を置いた。
「だから怖い目をしていたのに、声は普通でしたね」
「目と声が別だったということですかしら」
「目はまだ怖かったけど、声は普通のエルシア様でした。来ましたわよ、って言った時」
目は前世のまま、声は令嬢語変換で出ていた。
そういうことだったらしかった。
「フィーナ」
「はい」
「怖かったですかしら、昨夜の私が」
フィーナが少し考えた。
「怖かったです。でも、助けてくれてありがとうという気持ちの方が大きかったです」
「その二つが同時にありましたかしら」
「ありました。怖いのと、嬉しいのが一緒にあって、変な感じでした」
「変ではありませんわよ」
「そうですか」
「当然そうなりますわよ。怖い目をした人間が、助けに来たのですわから」
フィーナが少し笑った。
「そう言われると、確かにそうですね」
「フィーナ」
「はい」
「怖い目だったということを、教えてくれてありがとうございますわ」
「え、どういたしましてですけど。なんで嬉しそうなんですか」
「知らなかったことを知れましたわ。感情を切っている時、自分では分かりませんわ。外から見た人間が教えてくれないと、気づけないことがありますわ」
「私がそれを教えられるんですか」
「ええ。あなたは見ていてくれますわ。そして言ってくれますわ。それは大事なことですわよ」
フィーナが少し考えた。
「前世の目って、また出ることがありますか」
「あると思いますわ」
「その時、また言っていいですか」
「言ってくださいますかしら」
「分かりました」
フィーナが頷いた。
それから、少し違う顔をした。
「もう一つ聞いていいですか」
「なんでしょうかしら」
「前世の目をしている時のエルシア様は、何を考えていますか」
「考えていませんわ」
「考えていない」
「感情を切ると、考えることも減りますわ。動くことだけが残りますわ」
「それって、辛くないですか」
「辛い、という感情も切れていますわ」
「じゃあ、何もないんですか」
「目の前のことだけがありますわ。フィーナのいる部屋に向かうことだけが、あの瞬間はありましたわ」
フィーナが黙った。
しばらく黙っていた。
それから言った。
「それって、すごく孤独ですね」
朱音は少し止まった。
孤独、という言葉が来た。
「そうかもしれませんわ」
「前世では、ずっとそうだったんですか」
「ずっとではありませんわ。しかし多かったですわ」
「今は違いますか」
「今は切らなくても動けますわ。今朝確認しましたわ」
「今朝、稽古していましたね」
「ええ」
「私のために確認していたんですか」
「あなただけではありませんわ。しかし昨夜の確認の続きでしたわ」
フィーナが朱音を見た。
真っ直ぐに見た。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「もし前世の目になった時、私がそばにいれば、戻れますか」
朱音は少し考えた。
「分かりませんわ」
「分からないんですか」
「試したことがありませんわ。しかし」
「しかし」
「今朝、父の言葉で分かったことがありますわ。守りたいものを思いながら動くと、感情が乱れない。むしろ安定すると分かりましたわ」
「フィーナの顔を思えば、感情が切れないかもしれないということですか」
「そうかもしれませんわ」
フィーナが少し笑った。
「じゃあ、戻れると思います」
「なぜそう思いますかしら」
「エルシア様は昨夜、フィーナのために行ったんでしょう。フィーナのことを思っていたんでしょう。それで前世の目になっても、来てくれた。来た瞬間に、目が少し戻っていた。だから戻れると思います」
朱音はフィーナを見た。
赤毛の侍女が、真っ直ぐに言っていた。
論理的な根拠があるわけではなかった。
しかしフィーナのその言い方が、正確だと思った。
「そうかもしれませんわ」
「思います」
「まあ」
「思いますよ」
フィーナが笑った。
今日は元気だった。
昨夜連れ去られた翌日とは思えない元気さだった。
「フィーナ、昨夜の件で怖い思いをしましたわね」
「しました」
「しかし今日は元気そうですわ」
「元気です。怖かったけど、戻れたので」
「怖かった記憶は残っていますかしら」
「残っています。でも、戻れた記憶の方が大きいです」
「どういう意味ですかしら」
「怖かったことより、エルシア様が来てくれたことの方が、今は大きいです。来ましたわよって言ってくれた時の声が、まだ残っています」
朱音は少し止まった。
「来ましたわよ、という言葉が残っていますかしら」
「はい。あの声を聞いた時、ああ終わった、って思いました」
「終わった、というのは」
「怖いことが終わった、という意味です」
朱音は窓の外を見た。
午後の光が差していた。
来ましたわよ、という言葉が残っている。
前世では、誰かにそういう言葉を言ったことがなかった。
誰かを助けに行って、来たと言ったことがなかった。
助けに行く相手がいなかったから。
今世では、言えた。
言えて、残った。
フィーナの中に残った。
「フィーナ」
「はい」
「護身術の練習、続けてくださいますかしら」
「続けます。マルガレーテさんに昨夜も言われました。もっと早く動けるようになれって」
「まあ、マルガレーテらしいですわね」
「でも、正しいと思います。次は自分で逃げられるくらいには、なりたいです」
「よろしいですわ」
「エルシア様に全部任せっぱなしは、嫌なので」
「任せてくれて構いませんわよ」
「嫌です」
フィーナが言い切った。
珍しく言い切った。
「なぜですかしら」
「エルシア様に全部やってもらうと、私がただそこにいるだけの人になります。私はそこにいるだけじゃなくて、何かをしたいです」
「何をしたいですかしら」
「まだ分かりません。でも、役に立ちたいです。昨夜みたいなことが、また起きないとは限らないので」
朱音はフィーナを見た。
昨夜連れ去られた翌日に、そういうことを言っていた。
「まあ、頼もしいですわね」
「まだ全然頼もしくないですけど」
「なりますわよ」
「そうですか」
「なると思いますわ」
フィーナが嬉しそうにした。
部屋を出る前に振り返った。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「もし前世の目になった時、私が声をかけていいですか」
「どうぞ」
「何て言えばいいですか」
朱音は少し考えた。
「さあですわ。フィーナが言いたいことを言えばいいですわ」
「私が言いたいことでいいんですか」
「ええ」
フィーナが少し考えた。
「じゃあ、エルシア様って呼びます。それだけです」
「それで十分ですかしら」
「十分だと思います。名前を呼ばれれば、戻れると思います」
「根拠はありますかしら」
「ありません。でも、そう思います」
朱音は少し間を置いた。
「試してみますわ」
「はい」
フィーナが出ていった。
一人になった。
名前を呼ばれれば、戻れる。
根拠のない言葉だった。
しかし今夜の確認でも、似たことが起きていた。
感情を切って動いていたのに、フィーナの部屋に入った瞬間に何かが来た。
フィーナがそこにいたからだった。
フィーナがいることで、切れていた何かが動いた。
名前を呼ばれれば、という根拠のない言葉が、あながち間違いではないかもしれなかった。
朱鬼を触れた。
今日も問題なかった。
消耗はなかった。
セバスチャンの台帳に、今日も消耗ゼロが記録される。
窓の外に光があった。
今日も続いていた。
前世の目が出ることがある。
しかし戻れる可能性がある。
戻れる理由がある。
顔が見える人たちがいるからだった。
フィーナが名前を呼んでくれるからだった。
それで十分だった。
今日も、十分だった。




