第六十四話 感情を切る
夜明けが来た。
フィーナが部屋に戻った。
朱音は寝台に横になったが、眠れなかった。
夢の余韻が残っていた。
京都の路地の濡れた石畳の感触が、体に残っていた。
目が覚めている間に来る記憶は、眠っている間に来る記憶より薄かった。
しかし消えなかった。
前世の記憶は、十三歳から十四歳になる体の変化に合わせて、いつも鮮明になった。
体が大きくなるたびに、前世の感覚が戻ってきた。
刀の重さの感覚。
路地の暗さの感覚。
包帯の下の、顔の感覚。
それらが鮮明になって、今の体に重なった。
厄介だった。
しかし悪くなかった。
前世の技術が体に染み込む感覚があった。
成長するたびに、前世と今世が少しずつ近づいていた。
起き上がった。
まだ夜明けだった。
稽古場に行った。
誰もいなかった。
蝋燭を灯した。
朱鬼を抜いた。
構えた。
動いた。
前世の路地での動きを、今の体で再現しようとした。
七名を一人でやった時の連鎖。
朱の糸が、前世の感覚で走った。
今の体では、前世ほど速くなかった。
しかし確かに近づいていた。
前世の七割から、七割五分に近づいていた。
動きながら、感情を切った。
切る練習をした。
昨夜フィーナを見つけた時、感情が動いていた。
フィーナが隅にいた時、何かが来ていた。
恐怖ではなかった。
安堵でもなかった。
何か別のものだった。
それが戦闘中に来ていたことが、今朝の確認事項だった。
感情が来た時、動きが変わっていなかったかを確認する。
確認するために動いた。
一の構えから三の構えを、百回流した。
途中で、意図的に感情を思い出した。
フィーナの顔を思い出した。
縄に縛られていた腕を思い出した。
震えていた足を思い出した。
感情が来た。
動きを確認した。
変わっていなかった。
感情が来ても、動きは変わらなかった。
(よかった)
(内心:感情を切ることに慣れすぎると、戻し方を忘れる)
(昨夜、感情が来ながら動けた)
(切らなくても動けた)
(それが今夜の確認の結果だ)
百回終わった。
刀を鞘に収めた。
音がした。
稽古場の扉が開いた。
父だった。
「早いですわね、お父様」
「お前の方が早い」
「眠れませんでしたわ」
「夢を見たか」
「ええ。体が変わる時の夢ですわ」
父が入ってきた。
壁際に立った。
いつもの場所だった。
「見ていていいですかしら」
「見ろ」
もう一度動いた。
今度は感情を切らずに動いた。
フィーナのことを考えながら動いた。
昨夜の路地の感触を持ちながら動いた。
前世の夢の余韻を持ちながら動いた。
全部を持ちながら、三段構えを流した。
止まらなかった。
父が見ていた。
重心が微かに動いていた。
朱音の動きを追っていた。
十回流して、止まった。
「どうですかしら」
「変わっていない」
「感情を持ったまま動いても、動きが変わらなかったということですわ」
「そうだな」
「前世では、感情を切って動いていましたわ。今世では、感情を持ったまま動けるようになってきましたわ」
「それが昨夜の稽古か」
「確認でしたわ。昨夜フィーナを見つけた時、感情が来ていましたわ。その状態で動きが変わっていなかったかを確認したかったのですわ」
父が少し間を置いた。
「変わっていなかった」
「ええ」
「なぜ確認が必要だと思った」
「感情が来ると判断が変わることがありますわ。伯父上が言っていましたわ。昨夜は大丈夫でしたが、今朝確認しておきたかったのですわ」
「戦場でも、感情を持ちながら動けるか」
「今夜の確認では、できると思いますわ。しかし実際の戦場では、昨夜より激しい状況になることがありますわ。その時どうなるかは、また確認が必要ですわ」
父が頷いた。
「お前の剣は、前世から来ている」
「ええ」
「今世で変わったことはあるか」
朱音は少し考えた。
「感情の扱い方ですわ。前世では切ることしかできませんでしたわ。今世では、持ちながら動けるようになってきましたわ」
「それは剣の強さに繋がるか」
「繋がると思いますわ。前世では、感情を切ることで動いていましたわ。切り続けることの限界がありましたわ。今世では、感情を持ちながら動ける。持てる時間が長くなるということは、動ける時間も長くなるということかもしれませんわ」
父が少し間を置いた。
「俺は感情を切らない」
「えっ」
「剣を振う時、感情を切ったことがない」
朱音は父を見た。
「どういう意味ですかしら」
「剣を振う時、守りたいものを思う。それが力になる。感情を切れば、剣から力が抜ける。俺の剣術では、感情は切るものではない」
「しかしお父様の剣は、全体が均等に速いですわ。感情が来ていれば、動きが乱れることがありますわよ」
「乱れない」
「なぜですかしら」
「守りたいものを思う感情と、動きが乱れる感情は、種類が違う」
朱音は少し考えた。
「乱れる感情というのは、どういう感情ですかしら」
「焦り。恐れ。怒り。それらが乱れを作る」
「守りたいという感情は、乱れを作らないということですかしら」
「むしろ安定させる」
朱音はその言葉を聞いた。
守りたいという感情が、剣を安定させる。
昨夜、フィーナを思いながら動いた。
動きが変わらなかった。
乱れなかった。
感情が来ていたのに、乱れなかった。
それは守りたいという感情だったからかもしれなかった。
「前世では」
「なんだ」
「守りたいものがありませんでしたわ。だから感情を切ることしかできませんでしたわ」
父が少し間を置いた。
「今世では」
「ありますわ」
「剣が変わった理由だな」
「そうかもしれませんわ」
父が壁から離れた。
稽古場の中央に向かった。
「もう一度、合わせるか」
「お父様の腕は」
「もう大丈夫だ」
「一週間経っていませんわよ」
「問題ない」
朱音は少し考えた。
「受けるだけにしてくださいますかしら。攻撃はなしで」
「分かった」
父が構えた。
朱音が動いた。
一の構えから踏み込んだ。
父が受けた。
受け流した。
前回と同じだった。
予備動作を読んで、対応していた。
しかし今回、朱音は感情を持って動いていた。
守りたいものを思いながら動いていた。
父が少し驚いた顔をした。
一瞬だった。
すぐに戻った。
「今のは違った」
「何がですかしら」
「踏み込みの質が変わった。速度は同じだが、重さが違った」
「重さが違う、というのは」
「前回までの踏み込みは、技術の踏み込みだった。今回は、力のある踏み込みだった」
「感情を持ちながら動いたからかもしれませんわ」
「そうだな」父が頷いた。「守りたいものを思いながら剣を振うと、剣に重さが乗る。俺はずっとそうしてきた。お前も今日、それを確認した」
「お父様は、剣を振う時に何を思いますかしら」
父が少し間を置いた。
珍しい沈黙だった。
感情の話をしている沈黙だった。
「家だ」
「クロイツェル家のことですかしら」
「家族だ」
短かった。
それだけだった。
しかしそれで全部だった。
「ありがとう存じますわ、お父様」
令嬢語変換が来た。
来たが、変換前と同じだった。
父が稽古場を出た。
朱音は一人になった。
稽古場に朝の光が差し込んでいた。
「守りたいものを思いながら剣を振う」
声に出してみた。
前世ではできなかったことだった。
守りたいものがなかったから。
今世では、ある。
だから今日の確認ができた。
感情を切らなくても、動けた。
むしろ感情を持った方が、剣に重さが乗った。
父がずっとやってきたことを、今朝初めて体で理解した。
朱鬼を鞘に収めた。
今日の稽古が終わった。
まだ朝早かった。
朝食まで時間があった。
書庫の鍵を触れた。
ポケットの中にあった。
久しぶりに書庫に行こうと思った。
イーダとクラーラの記録を、また読もうと思った。
前世の夢を見た朝に、二人の先祖の記録を読む。
そういう朝があってもいいと思った。
稽古場を出た。
廊下を歩いた。
地下への石段を降りた。
書庫の扉の前に着いた。
鍵を差し込んだ。
回した。
扉が開いた。
冷たい空気が来た。
蝋燭を灯した。
一番奥の棚に向かった。
黒い革張りの冊子を取り出した。
読んだ。
二百年前のイーダ。七歳で封印された。
八十年前のクラーラ。十二歳で封印された。
最後の頁。
すまなかった、という言葉。
今日、この記録を読む気分は、最初に読んだ時とは違った。
最初に読んだ時は、消えないと決めた。
今日読む時は、違うことを感じた。
(二人とも、守りたいものがあったかもしれない)
(しかし守れなかった)
(守れなかった理由の一つは、一人だったからかもしれない)
(今の私には、守りたいものがある)
(そして一人ではない)
(それが違いだ)
冊子を棚に戻した。
元の位置に。
書庫を出た。
鍵を閉めた。
石段を上った。
廊下に出た。
朝の光が廊下に差していた。
今日も続いていた。
前世の夢を見た朝も、今日は今日だった。
守りたいものがある今日が、続いていた。
それだけで、今朝は十分だった。




