幕間 幕末の夜 京都の朱音
夢を見た。
体が成長する度に、この夢を見る。
六歳から七歳になった夜。
八歳から九歳になった夜。
十歳から十一歳になった夜。
そして今夜。
十三歳から十四歳になろうとしている夜。
夢の中では、いつも京都にいた。
裏路地だった。
石畳が濡れていた。
雨が降っていた。
細い雨だった。
霧のような雨だった。
京の夜の雨は、いつもこういう雨だった。
音がしない。
気づいたら濡れている。
そういう雨だった。
着物が重かった。
サラシを巻いた胸が、濡れた着物に押さえられていた。
顔に包帯があった。
目だけが出ていた。
刀を腰に差していた。
二振り差していた。
前世の京では、常に二振りを差していた。
一振りが折れた時のために。
一振りが血で滑った時のために。
消耗品としての刀を、前世でも知っていた。
路地の奥から気配がした。
複数だった。
新選組だった。
夢の中でも分かった。
羽織の色が、暗がりの中でも見えた。
浅葱色だった。
その色を見ると、体が反応した。
戦う相手の色として、体が覚えていた。
何名いるか、数えた。
七名だった。
前と後ろから来ていた。
包囲しようとしていた。
この路地は細かった。
幅が一間半ほどしかなかった。
前と後ろから来ているなら、左右への逃げ道はなかった。
しかし上があった。
路地の両側に町家の壁があった。
壁に、梁が突き出していた。
夜の京の路地を知り尽くしていた。
どこに梁があるか。
どこに足がかりになる窓枠があるか。
どこに屋根に上れる場所があるか。
全部、前世の記憶に入っていた。
前の四名が動いた。
来た。
一の構えを取った。
刀を抜かなかった。
まだ抜かない。
前世の影抜きは、抜いた時に全てが終わっている剣術だった。
抜く前の間合いが、全てを決める。
四名が詰めてきた。
二間。
一間半。
一間。
この距離で抜いた。
一番手前の者への一の構えから三の構えを一瞬で流した。
倒れた。
その着地の勢いを殺さずに、二人目への踏み込みに変えた。
朱の糸だった。
二人目。
三人目。
止まらなかった。
考えなかった。
四人目への踏み込みの途中で、後ろの三名が動いた気配があった。
前世の勘だった。
振り返らなかった。
代わりに、踏み込みの軌道を変えた。
四人目への三の構えを放ちながら、体を半回転させた。
後ろの三名が見えた。
動いていた。
四人目が倒れた瞬間に、後ろの三名への一の構えが始まった。
路地が狭かった。
三名が並んで来られなかった。
一列になっていた。
一列は、朱の糸の条件だった。
五人目。
六人目。
七人目。
全員が倒れた。
路地が静かになった。
細い雨が降り続けていた。
刀身を確認した。
二箇所、刃こぼれがあった。
使えないほどではなかった。
しかし次の交戦には持たないかもしれなかった。
腰の二振り目に手をかけた。
切り替える必要があった。
倒れた七名を確認した。
全員、呼吸があった。
前世でも、必要がなければ殺さなかった。
必要がある時には、迷わなかった。
今夜は必要がなかった。
路地の奥に、一名が残っていた。
気配があった。
動かなかった。
見ていた。
朱音を見ていた。
「待て」
声がした。
低い声だった。
男の声だった。
路地の暗がりから、一名が出てきた。
新選組の羽織を着ていた。
刀を腰に差したままだった。
抜いていなかった。
「人斬りよ」
「なんだ」と朱音は答えた。
今夜の夢の中では、声が出た。
令嬢語変換がなかった。
前世の声が、前世の言葉で出た。
「お前の名前を聞いたことがない」
「知る必要がないからだ」
「七名を一人でやった。しかし誰も殺していない」
「それが聞きたかったのか」
「なぜ殺さない」
朱音は少し間を置いた。
「今夜は必要がなかった」
「必要があれば殺すということか」
「そうだ」
男が少し間を置いた。
「俺はお前と何度も対峙した。毎回、お前は殺さずに消える」
「記憶している」
「なぜ覚えている」
「強い相手は覚えている」
男が少し止まった。
「俺をそう評価するか」
「お前だけではない。新選組の中に、何名かいる。本物の剣士が」
「お前は志士か」
「さあな」
「倒幕を信じているか」
朱音は答えなかった。
細い雨が降り続けていた。
信じていたか。
大義を信じていたか。
泰平の世のために斬っていたか。
夢の中で、前世の朱音が考えていた。
「信じようとしていた」
「なぜ過去形だ」
「信じていたかどうか、分からなくなることがあるからだ」
男が少し動いた。
近づいてきた。
一間の距離で止まった。
刀は抜いていなかった。
「俺も、同じことを思う時がある」
朱音は男を見た。
「新選組が、か」
「局中法度がある。規律がある。誠の旗がある。それを信じて動いている。しかし何のための規律か、誰のための誠か、考えることがある」
「考えるということは、まだ人間だということだ」
「お前は考えるか」
「考える」
「斬る前に考えるか」
「斬った後に考える」
男が少し笑った。
暗がりの中で、口の端だけが動いた。
「同じだな」
「違う立場で、同じことをしているということか」
「そうかもしれない」
路地の奥で、別の気配があった。
別の新選組が来ていた。
男が振り返った。
「行け」
「は」
「今夜は終わりだ。お前と俺の話は、また今度だ」
「今度があるとは限らない」
「ある」男が言った。「お前はまだしばらく京にいる。俺もいる。また会う」
朱音は刀を鞘に収めた。
音がした。
壁を蹴って、梁に手をかけた。
屋根に上った。
屋根の上から路地を見下ろした。
男が倒れた七名の確認を始めていた。
全員の呼吸を確認していた。
朱音と同じことをしていた。
(強い剣士だ)
(名前を聞かなかった)
(聞かなくてよかった)
(名前を知ると、次に向き合う時に迷う)
(迷いは、次の朝を遠ざける)
屋根を走った。
雨の中を走った。
京の夜の屋根は、滑りやすかった。
しかし慣れていた。
何十回も走った屋根だった。
走りながら、男の言葉が残っていた。
また会う。
また会うということは、また剣を向け合うということだった。
しかし今夜、刀を向け合わなかった。
向け合う必要がなかった。
それだけのことだった。
しかし前世の京で、必要がないから向け合わなかった夜は、ほとんどなかった。
今夜は珍しい夜だった。
夢が変わった。
別の夜になった。
別の路地だった。
今度は一人ではなかった。
志士の一人が、傍にいた。
顔が見えなかった。
しかし声が聞こえた。
「朱音、お前のおかげで今夜助かった」
助けていた。
誰かを助けていた。
大義のためではなかった。
目の前にいる、この人間が危うかったから、動いた。
それだけだった。
その人間の顔が見えなかった。
しかし声が聞こえた。
「なぜ助けた」
「お前が目の前にいたからだ」
「それだけか」
「それだけだ」
声が続いた。
「大義のためではないのか」
「大義のために助けたなら、大義がなくなった時に助けなくなる」
「では何のために」
「お前が目の前にいたからだ。それ以上の理由は要らない」
夢の中の朱音が、そう言っていた。
前世の記憶の中に、そういう夜があったのかもしれなかった。
あったのかもしれないし、なかったのかもしれなかった。
夢だから分からなかった。
しかしその言葉は、前世の朱音のものとして、今も正しかった。
目が覚めた。
屋敷の自室だった。
春の夜明け前だった。
窓の外が、わずかに白み始めていた。
枕の下に鍵が二本あった。
稽古場の鍵と、書庫の鍵だった。
体が重かった。
成長の重さだった。
また体が変わろうとしていた。
夢を見た夜は、いつもこういう重さで目が覚めた。
廊下から足音が聞こえた。
フィーナだった。
昨夜書きかけの手紙を書いていたはずだった。
扉をノックした。
「エルシア様、起きていますか」
「起きていますわ」
扉が開いた。
フィーナが入ってきた。
手に紙を持っていた。
「書き終わりました」
手紙だった。
続きを書いた手紙だった。
「読んでいいですかしら」
「はい」
受け取った。
読んだ。
エルシア様へ。
今日シュタルク家の方が来ましたね。交渉が増えてきました。エルシア様は大変そうですが、全部一人で背負わないでください。私にできることは少ないですが、できることをします。最近、マルガレーテさんから護身術を習っているので、少しは役に立てると思います。それと、
ここで昨夜止まっていた。
それと、の続きが書いてあった。
今夜連れ去られました。怖かったです。でもエルシア様が来てくれました。当然ですわと言ってくれました。その当然が、とても嬉しかったです。私もエルシア様にとって、当然いる人間でいたいと思います。これからも傍にいます。フィーナより。
朱音は手紙を折った。
「ありがとうございますわ」
「変な手紙ですか」
「変ではありませんわよ」
「途中で止まったから、繋ぎ目が変な感じになりましたけど」
「繋がっていましたわよ」
フィーナが少し笑った。
「昨夜の夢は見ましたか」
「夢を見ましたわ」
「どんな夢ですか」
「前世の夢ですわ」
「前世の夢、って、たまに見るって言ってましたよね」
「体が変わる時に見ますわ。もう少しで十四歳になりますわ」
「今夜がそういう夜だったんですね」
「ええ」
「どんな夢でしたか。話せる内容なら」
朱音は少し考えた。
「京都の路地で、斬り合いをしていた夢ですわ」
「怖い夢じゃないですか」
「前世では普通の夜でしたわ。怖いとは思いませんでしたわ」
「今見ると、怖いですか」
「今は、別のことを感じますわ」
「何を」
朱音は窓の外を見た。
夜明けが近づいていた。
空が白くなっていた。
「目の前にいる人間のために動くことと、見えない誰かのために動くことの違いを感じましたわ」
「難しいですね」
「難しいですわね」
「エルシア様は、どちらがいいと思いますか」
朱音はフィーナを見た。
書きかけの手紙を書き終えた赤毛の侍女が、夜明け前の光の中に立っていた。
「今は、目の前の人のためですわ」
「私のことですか」
「フィーナだけではありませんわ。でもフィーナも含まれていますわ」
フィーナが少し黙った。
それから、にっこりした。
力いっぱいの笑顔だった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「令嬢語変換、来なかったですね、今の」
「そうですかしら」
「来なかったです。確かに」
朱音は少し止まった。
来なかったかもしれなかった。
来たかもしれなかった。
どちらでも、言いたいことと出た言葉が同じだったから、気づかなかった。
「さあですわ」
「さあじゃないですよ」
「さあですわ」
フィーナが笑った。
夜明けの光が窓から差し込んでいた。
今日も始まる。
前世の夢を見た朝も、今日は今日だった。
稽古場に行く。
刀を振る。
ゴルドへの連絡がある。
王太子との交渉の続きがある。
全部が続いていた。
前世では続かなかったものが、今は続いていた。
フィーナが続けてくれていた。
セバスチャンが続けてくれていた。
父が、母が、祖母が、レオンが、カインが、ゴルドが、続けてくれていた。
その全員の顔が見えた。
名前を知っていた。
声を知っていた。
所詮人斬りにできることは大きくなかった。
しかし見える範囲の人々の幸せを繋ぐことなら、できるかもしれなかった。
今日もそれをやる。
それだけだった。




