第六十三話 情報が届き続ける
夜の九時になった。
全員が動き始めた。
レオンが正面に向かった。
黒薔薇三名が左右と上に散った。
朱音は裏に向かった。
セバスチャンとカインが外の監視位置についた。
動きながら、情報が届き続けた。
建物の裏に着いた。
壁があった。
高さは二間ほどだった。
前世の京でも、こういう壁を何度も越えた。
体の使い方は変わっていなかった。
踏み込んで、壁に手をかけて、腕の力で体を引き上げる。
六歳の時には無理だった。
十三歳になった今は、できた。
壁の上に出た。
裏の警戒が二名いた。
夜の暗がりの中で、二名が立っていた。
影域展開を使った。
自身の気配を消した。
二名が気づかなかった。
壁から降りた。
音がしなかった。
前世で磨いた、着地の技術だった。
石畳への着地は、足の使い方が全てだった。
かかとから着くと音がする。
つま先から、足の外側に体重を移しながら降りると、音がしない。
何百回も繰り返した技術だった。
裏の二名の間を、影踏みで通り抜けた。
二名が向き合っていた。
その間の、視界が交差する盲点を縫って通った。
建物の裏口に着いた。
鍵がかかっていた。
鍵穴を確認した。
セバスチャンから事前に聞いていた鍵の形状と一致していた。
腰の道具入れから、細い金属の道具を出した。
前世でも使っていたものと、同じ原理の道具だった。
鍵穴に差し込んだ。
回した。
固かった。
しかし開いた。
扉を開けた。
軋まなかった。
事前に確認していた。
軋む扉は、油を差してあると軋まない。
セバスチャンが昼間に別の理由で建物に接近した時、扉の蝶番に油を塗っておいたと報告があった。
どうやって近づいたかを朱音は聞かなかった。
セバスチャンのやり方があると知っていた。
建物の中に入った。
暗かった。
しかし全く暗くはなかった。
廊下に薄い明かりがあった。
蝋燭が数本、壁に沿って灯っていた。
廊下の幅を確認した。
二間ほどだった。
前世の路地より広かった。
しかし広さは問題ではなかった。
廊下の構造が分かれば、動き方が決まる。
「セバスチャン」と小声で言った。
外から通信用の魔道具でセバスチャンに繋がっていた。
小型の魔道具だった。
レオンが用意してくれていた。
「聞こえています」
「裏口から入りましたわ。廊下の状況を確認しますわ」
「承知しました。外の状況を報告します。父上が北側の監視者を無力化しました。東側が一名残っています」
「父が動きましたわね」
「はい。音もなく処理されたようです。観察していたカインが、何が起きたか分からなかったと言っています」
(さすがお父様ですわ)
(内心:前世でも、あの動き方は見たことがなかった)
廊下を進んだ。
右に曲がる分岐があった。
一階の奥の部屋、という情報があった。
奥に向かった。
途中、部屋のドアが並んでいた。
三つ目の部屋を確認した時、声が聞こえた。
複数の男の声だった。
会話していた。
内容が聞こえた。
「三日待てと言ったが、相手が動いてくる可能性がある」
「もう動いているかもしれない。今夜中に別の場所に移した方がいいんじゃないか」
「上の指示があるまで動くな」
「上の指示が来なかった場合は」
「その時は俺が決める」
三名がいた。
その部屋の隣が、フィーナのいる部屋だと侯爵の情報にあった。
「セバスチャン」
「はい」
「三名が部屋にいますわ。移動の話をしていますわ。急いだ方がいいかもしれませんわ」
「承知しました。レオン様に伝えます」
正面からレオンが動いた気配があった。
光が走った。
建物の正面から、光属性の魔法が展開された。
派手な光だった。
外の警戒が反応した音がした。
建物の中の三名も反応した。
「何だ」
「表から何かが来た」
「確認しろ」
三名が部屋から出てきた。
廊下に出てきた。
朱音の方に来ようとした。
影域展開を強めた。
廊下が薄く暗くなった。
三名が止まった。
前世でも知っていた反応だった。
人間は暗い空間に、本能的に踏み込もうとしない。
理由が分からなくても、体が拒否する。
三名が正面の方に向かった。
光の方に向かった。
明るい方に向かった。
廊下がその瞬間、朱音の独占になった。
「セバスチャン、三名が正面に向かいましたわ。奥の部屋に向かいますわ」
「了解しました。レオン様に三名が向かっていることを伝えます」
「レオンに無理はさせないでくださいますかしら」
「伝えます」
奥の部屋に向かった。
扉の前に着いた。
外から鍵がかかっていた。
単純な鍵だった。
また道具を使った。
今度は五秒で開いた。
扉を開いた。
中に人がいた。
暗かった。
窓がなかった。
「フィーナ」
小声で呼んだ。
声がした。
「えっ」
隅の方から声がした。
朱音は影域展開を解除した。
代わりに、暗属性の魔力を微量だけ刀身に流した。
朱鬼が僅かに黒く光った。
その光で、部屋の中が少し見えた。
フィーナがいた。
隅に座っていた。
手首に縄が巻かれていた。
顔が朱音を見た。
「エルシア様」
声が震えていた。
しかし怪我はなかった。
「来ましたわよ」
「来てくれた」
「縄を切りますわ」
朱鬼を出した。
縄に当てた。
峰ではなく刃を使った。
一瞬だった。
縄が切れた。
フィーナが手首をさすった。
「立てますかしら」
「立てます」
フィーナが立った。
足がわずかに震えていた。
長時間座っていたからだった。
「肩を貸しますわ」
「大丈夫です」
「借りなさいな」
フィーナが朱音の肩に手を置いた。
二人で扉に向かった。
廊下に出た。
「セバスチャン、フィーナを確保しましたわ。今から脱出しますわ」
「了解しました。裏口の状況を確認します」
少し間があった。
「裏口は現在クリアです。黒薔薇の一名が確保しています。そちらに向かってください」
「分かりましたわ」
廊下を歩いた。
フィーナを連れて、来た道を戻った。
途中で物音がした。
建物の正面の方から来ていた。
レオンと三名の交戦の音だった。
光が走る音と、誰かが倒れる音が聞こえた。
「レオン様の状況は」
「三名を制圧中です。問題ないとのことです」
「まあ、頼もしいですわ」
裏口まで来た。
黒薔薇の一名が外で待っていた。
裏の警戒二名は、その黒薔薇が制圧していた。
外に出た。
夜の空気が来た。
フィーナが深く息を吸った。
「外に出た」
「ええ、出ましたわ」
「本当に来てくれた」
「当然ですわ」
令嬢語変換が来た。
しかし変換前とほぼ同じだった。
当然は、当然だった。
どう変換されても、当然だった。
「セバスチャン、脱出完了ですわ。フィーナは無事ですわ」
「了解しました。全員の撤収を確認します」
レオンが正面から来た。
走っていた。
「フィーナは」
「無事ですわ」
「よかった」
短かった。
しかし本当に思っていることが分かった。
カインが来た。
無言だった。
フィーナを見た。
それだけだった。
セバスチャンが来た。
フィーナを見た。
「ご無事で」
「セバスチャン」とフィーナが言った。
「はい」
「あなたが追跡してくれたんですよね」
「そうです」
「ありがとう」
セバスチャンが少し止まった。
「恐れ入ります」
フィーナが笑った。
震えが残っていたが、笑った。
父が来た。
東側から来た。
東側の監視者を処理してきた。
全員が集まった。
「撤収する」と父が言った。
全員が動いた。
建物から離れた。
王都の夜道を歩いた。
フィーナが朱音の隣を歩いていた。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「怖かった」
「ええ」
「エルシア様は怖くなかったですか」
朱音は少し考えた。
怖かったかどうか。
建物の中で、廊下を歩いた時。
三名が部屋から出てきた時。
奥の部屋の扉を開けた時。
フィーナが隅にいた時。
怖い、という感情が入る余地がなかった。
体が動いていた。
前世でも同じだった。
動いている間は、怖さが来なかった。
「動いている間は来ませんでしたわ」
「それって、怖くないということですか」
「来なかっただけで、なかったとは言えませんわ」
フィーナが少し考えた。
「じゃあ、今は怖いですか」
「今は」
朱音はフィーナを見た。
隣を歩いている赤毛の侍女を見た。
手首に縄の跡があった。
震えがまだ少しあった。
しかし歩いていた。
自分の足で歩いていた。
「今は怖くありませんわ」
「なんでですか」
「フィーナが歩いていますわ」
フィーナが少し止まった。
それから、また歩き始めた。
「そういう言い方をするんですね、エルシア様は」
「変でしたかしら」
「変じゃないです。嬉しかったです」
二人で歩いた。
夜の王都を、全員で歩いた。
父が先を歩いていた。
セバスチャンが後ろで記録していた。
レオンが横を歩いていた。
カインが無言でついていた。
黒薔薇が周囲を固めていた。
全員が揃っていた。
「セバスチャン」
「はい」
「建物の中で制圧した者たちの処理はどうしますかしら」
「騎士団への引き渡しを準備します。ヴァレンシア侯爵に連絡して、証拠の保全をお願いします」
「お願いしますわ」
「もう一点」
「なんでしょうかしら」
「フィーナに関する手紙を書いた者の特定が必要です。建物の中の者たちへの聴取が必要になります」
「騎士団に任せますわ。私たちが直接聴取する必要はありませんわ」
「承知しました」
屋敷が見えてきた。
門の前にマルガレーテが立っていた。
今夜は屋敷の守りを担っていた。
フィーナを見た。
一歩前に出た。
「ご無事で」
マルガレーテらしくない言い方だった。
感情が少ない人間が、感情を出した瞬間だった。
「ただいま戻りましたわ」とフィーナが言った。
「お帰りなさい」
マルガレーテが扉を開けた。
全員が屋敷に入った。
暖かかった。
夜の外気より、屋敷の中は暖かかった。
フィーナが立ち止まった。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「部屋に戻っていいですか」
「もちろんですわ。疲れましたわよね」
「疲れました。でも、一つだけやりたいことがあります」
「なんでしょうかしら」
「手紙の続きを書きたいです。昨日の夜、途中で止まったので」
朱音は少し止まった。
フィーナが書きかけていた手紙のことだった。
エルシア様へ、と書いて、途中で止まっていた手紙だった。
「書いてくださいますかしら」
「書きます」
フィーナが廊下を歩いていった。
自分の部屋に向かった。
その背中を見ていた。
書きかけの手紙の続きを書くために、歩いていった。
(フィーナが笑えること)
(書きかけの手紙の続きを書けること)
(それだけで、十分だ)
(それだけのために、今夜修羅になった)
(大義より小さな理由だった)
(しかし今の私には、この理由が本物だった)
父が朱音の横に来た。
何も言わなかった。
ただ、立っていた。
しばらく、二人で廊下に立っていた。
「お父様」
「ああ」
「今夜、ありがとう存じますわ」
「当然のことをした」
変換された言葉が出た。
しかし父の言葉も、当然だった。
当然のことを、当然にやった。
それが今夜の全てだった。
廊下の奥でフィーナの部屋の扉が閉まる音がした。
フィーナが部屋に戻った。
手紙の続きを書いているかもしれなかった。
それでよかった。
それだけで、今夜は十分だった。




