第六話 消耗品の哲学
最初の刃こぼれは、十日後だった。
夜の稽古場で、石造りの壁の角に切っ先が当たった。一の構えから二の構えへの移行を繰り返していた時、踏み込みの角度を読み違えて、刀身が壁を掠めた。
音がした。
嫌な音だった。
金属が石に当たる、短くて鋭い音だった。
蝋燭の光に刀身をかざした。切っ先から二寸ほど下、刃の部分に欠けがあった。小さな欠けだったが、確かにあった。
朱音は刀身を眺めて、鞘に収めた。
明日、セバスチャンに伝えれば次の刀の準備が早まるだろう。それだけのことだった。
翌朝の朝食の席で、セバスチャンに報告した。
「一番刀に刃こぼれが出ましたわ。二番刀の仕上がりを確認していただけますかしら」
「承知しました。ゴルド殿に今日中に連絡を入れます」
「ありがとう」
それで終わりのつもりだった。
フィーナが向かいの席で、みるみる顔色を変えていた。
「え」
「なんでしょう」
「え、刃こぼれ、ですか」
「ええ」
「修理しなくていいんですか」
「次の刀に替えますので、必要ありませんわ」
フィーナの顔が、驚きから困惑に変わった。それから何か言いたそうに口を開いて、閉じて、また開いた。
「捨てるんですか、一番刀を」
「稽古用に回しますわ。刃が欠けた刀は実戦には使えませんが、素振りには使えますので」
「でも、大事な刀じゃないんですか」
朱音はフィーナを見た。
赤毛の侍女は本気で困惑していた。何かがひどく引っかかっているような顔をしていた。刀一本の扱いにここまで動揺する理由が、朱音にはすぐには分からなかった。
この世界では、刀は大事なものなのかもしれない。
武門の家に生まれた者にとって、剣は魂の象徴のような扱いを受けることがある。エルシアとしての知識がそう教えていた。折れた剣を大切に保管する家もある。代々受け継がれた剣を家宝として祀る家もある。
前世の感覚では、理解しにくい話だった。
「刀とは消耗品ですわ」
朱音は言った。
フィーナが「えっ」と声を上げた。
テーブルの向こうでヴァルターが「消耗品」と繰り返して、困ったように眉を寄せた。セバスチャンは手帳に何かを書き込んでいた。
「消耗品、というのは」フィーナが恐る恐る聞いた。「使ったら終わり、という意味ですか」
「使えば減る。折れれば替える。それだけのことですわ」
「でも、一番刀は初めてゴルドさんに作っていただいた、特別な」
「特別かどうかは関係ありませんの」
フィーナが黙った。
納得していない顔だった。しかし反論する言葉が見つからない顔でもあった。
朱音は朝食の続きに手をつけながら、少し考えた。
説明すべきかどうか。
前世でも、この問答をしたことがあった。刀を大事にしろと言う者と、刀は道具だと言う者と、どちらも間違っていなかった。ただ立っている場所が違うだけだった。戦場に出たことのない者と、出たことのある者とでは、刀の見え方が違う。
フィーナは戦場を知らない。
しかし知らないことを責める気にはなれなかった。知らなくていいことだった。できれば知らないまま、この先も生きていってほしいことだった。
「前世では」
口が動いた。
止めた。
令嬢語変換が来る前に、自分で止めた。前世の話をするつもりはなかった。
「戦う者にとって」と言い直した。「刀は道具ですわ。道具は使えば減る。減ったら替える。それが当たり前のことで、嘆くことでも惜しむことでもありませんの」
フィーナがまだ何か言いたそうにしていた。
朱音は続けた。
「折れた刀を惜しんで手が止まる者は、次の朝を迎えられない。刀への未練が、自分の命より重くなった時、剣士は終わりますわ」
フィーナが静かになった。
今度は違う顔をしていた。さっきまでの困惑ではなく、何かを聞いてしまったような、静かな顔だった。
ヴァルターが「エルシア、それって」と言いかけて、止まった。
朱音はパンを一口食べた。
頭の中を、前世の記憶が一瞬だけ走った。
血で滑る柄。振り下ろした瞬間に根本から折れた刀身。地面に落ちる金属の音。それでも次の刀を抜いた。次の刀が折れたら、その次を抜いた。夜が明けるまで、手が届く限りの刀を使い続けた。
魂を折らなければ、刀はいくらでも替えがきく。
それが前世で学んだことだった。学んだというより、そうしなければ生きられなかっただけのことだったが。
「エルシア様」
セバスチャンが手帳から目を上げた。
「ゴルド殿への発注を、当初の予定より一振り増やしておきます」
「なぜ」
「稽古の頻度から消耗速度を計算しました。現在のペースでは、年間で想定より三振り多く必要になる見込みです」
朱音はセバスチャンを見た。
銀髪の少年は手帳を閉じながら、淡々としていた。一番刀の刃こぼれを聞いた朝から、もう計算していたのだろう。消耗速度を、稽古の頻度から逆算して。
(仕事が速い)
「ありがとう、セバスチャン。よく気が利きますこと」
「恐れ入ります」
フィーナが二人を交互に見ていた。
「あの、二人とも、もう刀が折れること前提で話してるんですね」
「当然ですわ」
「え、当然なんですか」
「消耗品ですから」
フィーナがまた「えっ」という顔をした。堂々巡りになってきた。
朱音は朝食を終えて席を立った。
腰に差した一番刀の重さが、いつもと同じようにあった。刃こぼれがあっても、重さは変わらなかった。あと何日かはこれを使う。二番刀が仕上がるまで、使えるだけ使う。
「フィーナ」
「はい」
「折れた刀を悼む気持ちは、分かりますわ」
フィーナが少し驚いた顔をした。
「ただ」朱音は続けた。「その気持ちは、次の刀を握った後でよろしいの。刀を悼む前に、次を握る。それが順番というものですわ」
フィーナはしばらく朱音を見ていた。
それから小さく頷いた。
完全に納得した顔ではなかった。しかしそれでよかった。納得しなくていい話だった。戦場を知らない者が無理に納得する必要はない。
食堂を出た。
廊下を歩きながら、右手を腰の柄に触れた。
刃こぼれのある一番刀だった。
切っ先の欠けは小さかったが、確かにあった。使い込んだ証拠だった。十日で刃こぼれが出るほど、この体で振り続けた証拠だった。
二番刀が来たら、これは稽古用になる。
そうして稽古用も使えなくなったら、その時は感謝して手放す。
前世でもそうしてきた。
名前のある刀も、名前のない刀も、使えなくなったら手放してきた。名残惜しくないわけではなかった。しかし手放せなかった刀は、一振りもなかった。
手放せないものは、重さになる。
重さは足を遅くする。
足が遅くなった人斬りは、次の夜を迎えられない。
廊下の窓から、中庭が見えた。
朝の光の中で、花が揺れていた。
刀の消耗を心配する侍女と、消耗速度を計算する従僕と、何も言わない父と、笑顔で全てを処理する母と、この世界にはそういう人間たちがいた。
前世には、誰もいなかった。
朱音は窓から目を離して、廊下を歩き続けた。
今夜も稽古場に行く。
一番刀を振る。
使えるうちは、使い切る。
それだけのことだった。




