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緋色の魂は二度、剣を握る ~人斬り令嬢の異世界無双~  作者: N


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第五十八話 ヴァレンシアとの本格交渉

工房から戻った翌日、ヴァレンシア侯爵が来た。


予告なしだった。


昼前に馬車が来た。


セバスチャンが朱音に知らせた。


「ヴァレンシア侯爵がいらっしゃいました。イレーナ様と話をされています」


「すぐ参りますわ」


応接間に向かった。


母と侯爵が向かい合って座っていた。


テーブルの上に書類があった。


「エルシア、タイミングよく来たわ」と母が言った。


「何かありましたかしら」


侯爵が口を開いた。


「王太子からの修正案が、ヴァレンシア家に先に届いた」


「私の元ではなくですかしら」


「そうだ。王太子は修正案をクロイツェル家だけでなく、ヴァレンシア家にも送ってきた。賢い判断だ」


「なぜ賢いのですかしら」


「修正案をヴァレンシア家にも送ることで、クロイツェル家が単独で判断することを防いでいる。ヴァレンシア家が関与することで、条件の交渉が複雑になる。複雑になれば、王太子側が主導権を持ちやすくなる」


「しかし伯父上は、それを見抜いていますわね」


「見抜いた上で来た」侯爵が修正案を手に取った。「内容を見ろ。面白いことが書いてある」


朱音は修正案を受け取った。


読んだ。


前回の五つの確認事項への回答が書いてあった。


一つ目、特別顧問の業務内容について。


具体的な業務として、王国の防衛に関する助言、魔物対処への協力、暗属性に関する研究への参加が列挙されていた。


二つ目、有事の定義について。


王国の領土への外部からの武力侵攻、大規模な魔物の侵攻、王家が正式に宣言した緊急事態の三つが定義されていた。


「定義が明確ですわね」


「そうだ。前回より具体的になっている。ただし」侯爵が一点を指した。「この三つ目の緊急事態宣言に注目しろ」


「王家が正式に宣言した緊急事態、とありますわ」


「宣言の判断は王家にある。つまり王家が緊急事態と言えば、どんな状況でも有事になり得る」


「曖昧さが残っていますわね」


「そうだ。表面上は具体的だが、三つ目の条件が抜け穴になっている」


「交渉が必要な部分ですわね」


「これを修正させる必要がある」


三つ目、クロイツェル家への支援内容について。


騎士団との連携強化、北方国境の防衛費用の王家負担、クロイツェル家の政治的立場の正式保護が書いてあった。


「北方国境の防衛費用の王家負担は、今回の件があったからですわね」


「タイミングを計算して入れてきた。北方の件の直後に提示することで、クロイツェル家が受け入れやすいと判断したのだろう」


「計算が細かいですわ」


「王太子はそういう人間だ」


四つ目、暗属性見解変更の約束と期限について。


一年以内という目標を約束に格上げすることについて、六ヶ月以内に正式な文書を発行することが書いてあった。


「六ヶ月に縮まりましたわ」


「縮めることで、誠意を示している」侯爵が続けた。「しかし達成できなかった場合の対応が、まだ書いていない」


「前回の面会で宿題になっていた部分ですわね」


「ここも交渉が必要だ」


五つ目、道具にしないという約束の書面化について。


「エルシア・フォン・クロイツェルを、王家の政策の執行手段として一方的に扱わない。クロイツェル家の意思を尊重した協力関係を構築する」という文言が書いてあった。


朱音は少し間を置いた。


「書面にしてくれましたわ」


「そうだ」と侯爵が言った。「前回、ライナルトが求めた点だ。王太子は約束通り書面にしてきた」


「この文言は使えますかしら」


「法的な拘束力があるかどうかは、解釈の問題がある。しかし書面として残ることは確かだ」


「どう評価しますかしら、伯父上は」


「全体として、前回より誠実な内容になっている」侯爵は修正案を置いた。「しかし二つの問題が残っている。緊急事態宣言の曖昧さと、暗属性見解変更が達成できなかった場合の対応だ」


「この二点を修正させることが、次回の課題ですわね」


「そうだ。しかしここで一つ判断が必要になる」


「なんでしょうかしら」


「全部を修正させようとすれば、交渉が長引く。長引けば、北方の件のような状況が再び起きた時に、まだ合意が成立していない状態になる可能性がある」


「合意のない状態での協力は、道具になる可能性があるということですわね」


「そうだ。早く合意した方がいい部分と、じっくり交渉すべき部分を分ける必要がある」


母が口を開いた。


「お兄様、一つ確認していいかしら」


「なんだ」


「ヴァレンシア家として、この交渉にどこまで関与するつもりかしら」


侯爵が少し間を置いた。


「同盟として関与する。ヴァレンシア家の利益も一部含まれているからだ」


「どんな利益ですかしら」


「暗属性の公式見解が変われば、情報網の運用幅が広がる。これまで魔法教会の目を気にして動けなかった部分が、動けるようになる可能性がある」


「ヴァレンシア家にとっても、この合意は重要なのですわね」


「そうだ。だから本格的に関与する」


朱音は侯爵を見た。


「伯父上の判断として、どちらを優先しますかしら。早い合意か、完全な条件か」


「どちらでもない」と侯爵が言った。


「どういう意味ですかしら」


「二点の問題のうち、達成できなかった場合の対応については、今すぐ決める必要がない。文書に盛り込む表現を工夫すれば、後から対応できる余地が作れる」


「どんな表現ですかしら」


「達成できなかった場合、双方で改めて協議するという一文を入れる。内容は確定しないが、協議の義務を書面に残す。これで完全に曖昧でもなく、詳細を今決める必要もなくなる」


「なるほどですわ」


「緊急事態宣言の問題は、別の解決が必要だ。こちらは表現の工夫では解決できない」


「どうすれば解決できますかしら」


「緊急事態宣言に、別の機関の承認を条件にする。王家の一存では宣言できない仕組みを作る」


「例えば、貴族議会の承認を条件にするということですかしら」


「そうだ。あるいは五大公爵家の過半数の同意を条件にしてもいい。どちらにしても、王家の単独判断を制限する条件を入れる」


「王太子がそれを受け入れますかしら」


「受け入れるかどうかは交渉次第だ。しかし今回の王太子の行動を見ていると、対等を重視している。対等を本気で考えているなら、王家の単独判断を制限することも受け入れる可能性がある」


母が言った。


「リスクがあるわ」


「何のリスクだ」と侯爵が聞いた。


「王太子が受け入れなかった場合、交渉が決裂する可能性がある。そうなれば、今の状況に戻るだけだけれど、それで十分かという問題よ」


「今の状況で十分かどうかは、エルシアが判断することだ」


二人が朱音を見た。


朱音は少し考えた。


「今の状況で十分ではありませんわ」


「なぜ」と侯爵が聞いた。


「今の状況は、封印が棄却されたというだけですわ。魔法教会の強硬派は切り捨てられましたが、暗属性への認識が変わったわけではありませんわ。次に暗属性を持つ者が現れた時、同じことが繰り返される可能性がありますわ」


「だから四つ目の見解変更が重要だということか」


「ええ。それだけでなく、王家との正式な協力関係があれば、次の者が現れた時の状況が変わりますわ。王家が暗属性を有用と認めた前例がある上に、王家との協力関係がある者が暗属性を持っていたという事実が残りますわ」


「将来への積み重ねを考えているのか」


「前世では、何も積み重ならなかったですわ。今世では、積み重ねられますわ」


侯爵が少し間を置いた。


「分かった。交渉を続ける価値があるということだな」


「ええ」


「では方針を決める。二点の問題を修正させるが、決裂のリスクを取る覚悟で交渉するということだ」


「はい」


侯爵が立ち上がった。


「王太子への返答を作る。一週間後に会いたいと連絡を入れる」


「お手伝いできますかしら」


「できる。返答の文書を一緒に作ろう」


三人で文書を作り始めた。


母が文字を書いた。


侯爵が内容を指定した。


朱音が確認した。


三人の作業だった。


前世では、書類を誰かと作ったことがなかった。


全部一人でやっていた。


全部一人でやる必要があった。


今は、一人でやる必要がなかった。


それぞれが得意な部分を担っていた。


侯爵が交渉の内容を考えた。


母が言葉を整えた。


朱音が当事者として確認した。


三人の仕事が合わさって、一つの文書になった。


昼過ぎに文書が完成した。


侯爵が封をした。


「王太子への連絡は今日中に出す」


「ありがとう存じますわ、伯父上」


「礼はいい。これはヴァレンシア家としても必要な交渉だ」


侯爵が帰り際に言った。


「エルシア」


「はい」


「北方の件で、一つ確認しておきたいことがある」


「なんでしょうかしら」


「ダークウルフが統率されていた。誰かが誘導した可能性があるという話を、ライナルトから聞いた」


「ええ」


「その誰かが、今回の王太子との交渉と無関係だと言い切れるか」


朱音は少し止まった。


「どういう意味ですかしら」


「王太子が交渉を求めてきた時期と、北方の件の時期が近い。偶然かもしれない。しかし情報の仕事をしていると、偶然を疑う習慣がある」


「王太子が北方の件を仕組んだ可能性があるということですかしら」


「可能性の一つとして言っている。王太子がクロイツェル家の実力を改めて確認したかった場合、北方の件がその機会を作ったとも解釈できる」


朱音は考えた。


「王太子が魔物を誘導できますかしら」


「直接はできないかもしれない。しかし誘導できる者を知っている可能性はある」


「証拠はありますかしら」


「ない。だから可能性の一つとして言っている」


「調べますかしら」


「俺の情報網で調べる。しかし今日の交渉を止める理由にはならない。可能性があるというだけで、証拠がない段階では動かない」


「承知しましたわ」


「ただし頭に置いておけ。王太子が今後どう動くかを、その可能性を念頭に見ておけ」


侯爵が出ていった。


母と二人になった。


「お兄様らしい見方ね」


「でも、否定できませんわ」


「否定できないけれど、証拠がない。それがお兄様の言っていることの全てよ」


「ええ」


「王太子を信用するかどうかは、これからの行動で判断するしかないわ」


「ですわね」


「ただ」母が少し間を置いた。「今日の修正案を見る限り、王太子はこちらの要求を真剣に考えている。それは確かよ」


「計算の上かもしれませんわ」


「計算でも、真剣でも、結果としてこちらの要求が通るなら、同じことよ」


「まあ、お母様らしいですわ」


母が微笑んだ。


「さて、今週の準備を続けましょう」


「はい」


応接間を出た。


廊下を歩いた。


北方の件と、王太子との交渉と、ダークウルフの統率と。


全部が繋がっているかもしれなかった。


繋がっていないかもしれなかった。


今は分からなかった。


分からないことを、分からないまま持ちながら進む。


前世でも同じだった。


全部が分かることはなかった。


分からないまま、次の夜に向かっていた。


今も同じだった。


ただ今は、分からないことを一緒に考える人間がいた。


侯爵がいた。母がいた。父がいた。


それだけが違った。


廊下の窓から外が見えた。


春の午後の光が差していた。


一週間後、また王城に向かう。


それまでにできることをやる。


それだけだった。

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