表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
緋色の魂は二度、剣を握る ~人斬り令嬢の異世界無双~  作者: N


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/77

第五十七話 無言の手

帰り道は一日半かかった。


行きより速かった。


戦闘の後は、体が疲れている。しかし動きが軽くなることがある。前世でも同じだった。緊張が解けた後の体は、不思議と速く動いた。


途中、クロイツェル領の騎士団駐屯地に寄った。


北方の状況を報告した。


父が隊長に指示を出した。


「ダークウルフの統率について、引き続き調査しろ。報告が入り次第、直接俺に連絡を入れろ」


「承知しました」


「北方の警戒を一段階上げる。今後一ヶ月、増員配置を続けろ」


「はい」


「それだけだ」


父が馬に戻った。


指示が短かった。


必要なことだけを言った。


余計なことを言わなかった。


前世の指揮官にも、こういう人間がいた。


言葉が少ない人間ほど、言葉の重さがあった。



屋敷に着いたのは夕方だった。


門の前にフィーナが立っていた。


待っていた。


馬を降りると、フィーナが走ってきた。


「お帰りなさい、エルシア様」


「ただいま帰りましたわ」


「怪我は」


「ありませんわ」


「本当ですか」


「本当ですわよ」


フィーナが朱音の全身を見た。


服に汚れがあった。


魔物との戦闘の跡だった。


しかし血ではなかった。


土と草だった。


「怪我は本当にないんですね」


「ええ」


フィーナが少し息を吐いた。


安堵の息だった。


「よかったです」


「心配をかけましたわ」


「心配しました。すごく」


「ごめんなさいですわ」


フィーナが首を振った。


「謝らなくていいです。戻ってきてくれたから」


父が馬を降りた。


フィーナが父を見た。


「クロイツェル公爵も、お怪我は」


「ない」と父が短く言った。


「よかったです」


父が屋敷に入った。


フィーナが朱音の横に来た。


「お父様と一緒に戦ったんですよね」


「ええ」


「どうでしたか」


「強かったですわ、お父様は」


「エルシア様がそう言うんですね」


「私より強いかもしれませんわ」


フィーナが少し驚いた顔をした。


「エルシア様が負けを認めることって、珍しくないですか」


「強いと言っただけで、負けを認めたわけではありませんわ。種類が違うと言いましたわ。前世でも、こういう剣があったか考えましたが」


「前世のことを話してくれるの、最近増えましたね」


朱音は少し止まった。


「そうですかしら」


「うん。前世、って言葉が出ることが増えた気がします」


「意識していませんでしたわ」


「いいことだと思います」と フィーナが言った。「隠さなくなったってことかなって」


朱音はフィーナを見た。


「そうかもしれませんわね」



セバスチャンが報告を持って来たのは、夕食の後だった。


「北方の件について、いくつかご報告があります」


「なんでしょうかしら」


「メルヒオール様から連絡が入りました。今回の魔物の動向について、アカデミーの魔物研究部門と共同調査を行いたいとのことです」


「ダークウルフの統率についてですかしら」


「そのように思われます。メルヒオール様は、魔物が統率されている可能性について、学術的な関心を持っているようです」


「父にも伝えてくださいますかしら」


「はい。もう一点あります」


「なんでしょう」


「王太子殿下からの連絡が届いています。修正案の件ですが、北方の件があったため、期日を延ばしてよいとのことです」


「まあ、気を遣ってくださいましたわね」


「はい。北方の状況については、王家にも情報が入っているようです。エルシア様が同行されたことも、把握されているようです」


「速いですわね」


「王家の情報網ですので」


「王太子殿下は、今回の件をどう評価しているかしら」


「連絡の文面からは読み取れませんでした。しかし、修正案の内容に北方の件を踏まえた追加項目を検討しているとの一文がありました」


「北方の件を踏まえた追加項目」


「詳細は次回の面会でとのことです」


「分かりましたわ」



翌朝、父が書斎にいた。


朱音が入ると、北方の地図が広げてあった。


帰ってきた翌朝も、地図を見ていた。


「お父様」


「ああ」


「ダークウルフの統率について、何か考えていますかしら」


「誘導した者の可能性を探っている」


「誰が魔物を誘導できますかしら」


「通常はできない。魔物の行動を制御する魔法は、理論上は存在する。しかし使える者はほとんどいない」


「暗属性に、そういう力がありますかしら」


父が少し止まった。


「なぜそう思う」


「暗属性の魔力は、影域展開で生き物の本能に影響を与えることができますわ。人間の恐怖を引き出せるなら、魔物の本能にも作用する可能性がありますわ」


「お前は試したことがあるか」


「ありませんわ。考えたことはありましたが、試していませんわ」


父が地図から目を上げた。


「試すつもりがあるか」


「必要があれば試しますわ。しかし今は必要がありませんわ」


「なぜ」


「今回の件は、誰かが誘導した可能性があるということですわよね。その誰かが目的を持って魔物を動かしているとすれば、私も同じことをする必要はありませんわ。誘導する者を探す方が優先ですわ」


父が頷いた。


「正しい判断だ」


「ありがとう存じますわ」


「もう一つ確認したいことがある」


「なんでしょうかしら」


「昨日の戦闘で、百二十七体を処理した。疲労はどうだ」


「体の疲れはありますわ。しかし回復しています」


「魔力の消耗は」


「影域展開を使いましたが、長時間ではありませんでしたわ。今朝の時点で問題ありません」


「朱鬼の状態は」


「昨夜確認しました。消耗なしですわ」


父が頷いた。


「一つ言う」


「はい」


「昨日の戦いで、お前の判断は正しかった」


朱音は少し止まった。


父が戦いの判断を評価することは、初めてではなかった。


しかし直接言葉にすることは、珍しかった。


「ありがとう存じますわ」


「後方の群れを分断した時、どう判断したか」


「ダークウルフが前に出てくる前に、グラウルとの境界を作る必要がありましたわ。ダークウルフは連携しますわ。連携される前に、動ける部分を制限したかったのですわ」


「そうだな」と父が言った。「俺も同じ判断をした。前方の群れでダークウルフが動き始めた時、後方からそれが来ていないことを確認した。お前が対処していたと分かった」


「見ていてくださいましたのね」


「ずっと見ていた」


「後方を見ながら、谷の出口を処理していたのですわね」


「処理できる余裕があったということだ」


「まあ、また同じことをおっしゃいますわね」


「事実だ」


朱音は父を見た。


地図の前に座っている父だった。


北方の状況を翌朝も確認している父だった。


昨日の戦場で、後方を見ながら前を処理していた父だった。


「お父様」


「なんだ」


「並んで戦えてよかったですわ」


令嬢語変換が来た。


来たが、変換前とほぼ同じだった。


父が地図を見たまま言った。


「俺もそう思った」


短かった。


それだけだった。


しかし父がそう思ったということが、言葉になって出てきた。


前世では、誰かにそう思ったと言われたことがなかった。


一緒に戦いたいと思われたことが、なかった。


書斎を出た。


廊下に出ると、フィーナが待っていた。


「エルシア様、朝食ができています」


「行きますわ」


「お父様は」


「もう少しかかりますわ。先に行きましょうかしら」


二人で食堂に向かった。


廊下を歩きながら、朱音は右手を腰の朱鬼に触れた。


昨日も消耗しなかった刀だった。


ゴルドとカインが作った刀だった。


今日、工房に寄る予定だった。


二人に報告する。


百二十七体、消耗なし。


その報告を届ける。


「今日、工房に行きますわよ」とフィーナに言った。


「ゴルドさんのところですか」


「ええ。刀の報告をしたいですわ」


「私も行っていいですか」


「もちろんですわよ」


フィーナが嬉しそうにした。


食堂に入った。


母がいた。


「おはよう、エルシア。昨日は疲れたでしょう」


「おはようございますわ、お母様。もう大丈夫ですわ」


「お父様は」


「書斎にいますわ。地図を見ていますわ」


「あの人らしいわね」


母が微笑んだ。


本音の微笑みだった。


完璧な社交用ではない、少し崩れた微笑みだった。


「お母様」


「なあに」


「お父様の剣を、昨日初めてちゃんと見ましたわ」


「どうだった」


「強かったですわ」


「そう」母が少し間を置いた。「あの人が剣を振っているところを、私も見たことがないわ。聞いた話しか知らない」


「見てみたいですかしら」


「機会があればね」


「次の時はお母様も来ますかしら」


「次の時があればの話よ」


「まあ、次がなければいいですわね」


「その通りよ」


母が朱音を見た。


「一つだけ聞いていいかしら」


「なんでしょうかしら」


「昨日、お父様と並んで戦って、どうだった」


朱音は少し考えた。


「前世ではなかったことでしたわ」


「前世では、並んで戦う相手がいなかったということかしら」


「ええ」


「今はいるということね」


「ええ」


母がまた微笑んだ。


今度は、さっきとは少し違う微笑みだった。


何かを確かめた後の、落ち着いた微笑みだった。


朝食が始まった。


しばらくして父が来た。


「遅くなった」


「大丈夫ですわよ」とフィーナが言った。


父が席に着いた。


食事が始まった。


全員が揃った朝食だった。


北方から戻った翌朝の、全員が揃った朝食だった。


前世では、朝食を誰かと食べたことがほとんどなかった。


一人で食べるか、食べる時間がないかのどちらかだった。


今は違った。


テーブルに全員がいた。


話す言葉は多くなかった。


しかしそれでよかった。


言葉がなくても、全員がここにいた。


それだけで十分だった。


朱音は右手を膝の上に置いた。


昨日、父が頭に手を置いた感触がまだ残っていた。


戦場の後で、頭に手を置いた。


言葉はなかった。


しかし手があった。


前世では、誰かの手が頭に来たことがなかった。


今世では、何度かあった。


六歳の時、父が初めて頭に手を置いた時から。


あの時の重さと同じ重さが、昨日もあった。


変わらない重さだった。


いつも同じ重さだった。


朱音は朝食を続けた。


今日は工房に行く。


ゴルドとカインに報告する。


朱鬼の消耗ゼロを伝える。


それだけではなく、昨日見たことも話したかった。


父の剣を見て、気づいたことがあった。


自分の剣に足りないものが見えた。


それをカインに話す。


カインが聞いて、何かを考える。


ゴルドが何かを言う。


そういう時間が、今日の午後に待っていた。


悪くなかった。


食堂の窓から外が見えた。


春の空だった。


北方の夜明けとは違う、穏やかな春の空だった。


今日も空が続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ