第五十六話 父の剣を初めて見た
北方国境まで、二日かかった。
一日目は王都を出て、クロイツェル領を北上した。
途中、クロイツェル家の騎士団の駐屯地に立ち寄った。
駐屯地の隊長から情報を受け取った。
「魔物の群れは、現在国境から三里の地点で停滞しています。数は確認できているだけで百二十体以上。種類はグラウルとダークウルフが混在しています」
「停滞している理由は分かりますかしら」
「分かりません。通常、魔物の群れは止まらずに移動します。停滞していることが、むしろ不気味です」
「待っているということですかしら」
隊長が少し止まった。
「魔物が待つということは」
「ありませんわね、通常は」
父が言った。
「何かに反応している可能性がある。別の群れの動きを待っているか、何かに誘導されているか」
「誘導、ですかしら」
「百二十体が同じ場所で止まる。自然な行動ではない」
「魔物を誘導できる者がいるということですかしら」
「可能性だ。確認していない」
駐屯地を出た。
北に向かった。
二日目の昼頃、国境の駐屯所に着いた。
北方駐屯隊の本部だった。
隊長が出迎えた。
壮年の男だった。
古傷が多かった。
「クロイツェル公爵、お越しいただけて助かります」
「状況を報告しろ」と父が言った。
「昨日から動き始めています。停滞していた群れが、南に向かって動き出しました」
「速度は」
「ゆっくりです。急いでいない動き方です」
「やはり不自然だな」と父が言った。
「はい。騎士団員の中に、魔物の行動を研究している者がいますが、こういう動き方は見たことがないと言っています」
「先頭はどこにいるか」
「今朝の確認では、国境から一里半の地点です」
「あと半日で接触範囲に入る」
「そうなります」
父が地図を広げた。
国境の地形を確認した。
「ここに谷がある」
「はい。シュバルツ谷です」
「谷に誘導できるか」
「可能だと思いますが、誘導するには囮が必要になります」
「俺が囮になる」
隊長が少し止まった。
「公爵自らが」
「問題あるか」
「問題は、ありません。しかし」
「言え」
「囮になった場合、群れ全体が公爵に向かいます。百二十体以上が同時に動く可能性があります」
「一人では無理だ」と父が言った。「二人でやる」
父が朱音を見た。
「私がもう一人の囮ですわね」
「そうだ。俺が群れの先頭を引きつける。お前が別の方向から群れを割る。割れた群れを、騎士団が両側から挟む」
「私が群れを割る時、どの技を使うか指定がありますかしら」
「お前が判断しろ。俺はお前の剣を見てきた。任せられる部分だ」
「承知しましたわ」
隊長が地図を見ながら言った。
「シュバルツ谷への誘導は、今夜の夜明け前に始めるのが適切です。魔物は夜に動きが鈍くなります」
「夜明け前か」と父が言った。「分かった」
「準備を整えます」
隊長が動いた。
夕方、駐屯所の一角で父と話した。
「確認しますわ。父上が先頭を引きつける間、私は群れの後方から入りますわ。後方を割ることで、群れが二つに分断される」
「そうだ」
「分断された後は」
「騎士団が両側から押す。お前は分断した後、後方の群れを制圧する。俺は先頭の群れを谷に誘導する」
「先頭の群れを谷に誘導した後、お父様はどう動きますかしら」
「谷の出口で待って、出てきた魔物を処理する」
「一人でですかしら」
「騎士団の一部をそこに配置する」
「分かりましたわ」
「質問はあるか」
「一つありますわ」
「言え」
「ダークウルフが連携する場合、どう対処しますかしら」
父が少し考えた。
「ダークウルフは囲んでくる。囲まれたら負けだ」
「囲まれないために」
「常に動き続けることだ。止まるな。止まった瞬間に囲まれる」
「影踏みと影の回廊を使えば、囲まれにくいですわ」
「そうだ。お前の動きは、それに向いている」
「お父様はどうやって囲まれないようにしますかしら」
父が少し間を置いた。
「見ていれば分かる」
「まあ」
「今夜初めて見ることになる」
父の剣を、本格的な実戦で見たことがなかった。
稽古場で見た。
模擬戦で向き合った。
しかし本物の戦場で父が剣を振うところを、朱音はまだ一度も見ていなかった。
「楽しみですわ」
父が少し止まった。
「楽しみか」
「ええ」
「戦場を楽しみにするとは」
「父の剣を見られることがですわ」
父が無言になった。
長い沈黙があった。
それから、口の端が僅かに動いた。
笑ったのかもしれなかった。
確認する前に、元に戻った。
「寝ておけ。夜明け前に動く」
「はい」
夜明け前に目が覚めた。
駐屯所の外が暗かった。
星が出ていた。
朱鬼を確認した。
朱シリーズも確認した。
全部、問題なかった。
黒薔薇四名が準備していた。
マルガレーテがいないことを少し不思議に思ったが、今回はマルガレーテは屋敷に残っていた。
父が来た。
剣を差していた。
クロイツェル家の当主の剣だった。
長かった。
両刃の直剣だった。
この世界の標準的な形だった。
しかし普通の剣には見えなかった。
剣に、何かがあった。
「出るぞ」
全員が動いた。
夜明け前の暗闇の中、魔物の群れの位置を確認した。
騎士団の斥候から報告が入った。
「先頭が国境から一里の地点に達しました。速度が上がっています」
「誘導を始める」と父が言った。
父が先に動いた。
群れの先頭に向かって、単騎で動き始めた。
朱音は父の背中を見た。
馬に乗った父の背中が、夜明け前の暗闇に向かっていった。
大きな背中だった。
朱音は後方に向かった。
群れの後方に回り込む動きだった。
騎士団が両側に展開し始めた。
計画通りだった。
群れの後方に着いた。
魔物の気配が広がっていた。
百体以上の気配だった。
前世の新選組との戦いとは、種類の違う気配だった。
人間ではなく、獣だった。
本能で動く気配だった。
しかしダークウルフの気配は違った。
組織的な何かがあった。
群れの中に、統率されている部分があった。
「まあ」
呟いた。
令嬢語変換が来なかった。
戦闘前の、変換が来ない瞬間だった。
「始めますわ」
一の構えを取った。
朱鬼を抜いた。
魔力を流した。
刀身に黒が走った。
後方の魔物が反応した。
こちらを向いた。
一の構えで踏み込んだ。
後方の群れに向かって走った。
魔物が動いた。
しかし全体が動いたのではなかった。
後方の一部が、朱音に向かって来た。
残りが前方に向かって動き続けていた。
群れが分断されていた。
「効きましたわ」
朱の糸を使った。
後方に残った魔物を、連鎖で制圧し始めた。
一体目。二体目。三体目。
連鎖が続いた。
ダークウルフが来た。
グラウルとは動き方が違った。
速かった。
しかし一匹ではなかった。
三匹が同時に来た。
囲もうとしていた。
影踏みで動いた。
三匹の中に入り込んだ。
三匹の間で、影の回廊を使った。
三匹が互いの邪魔になる位置に誘導した。
その瞬間に、三の構えで一匹目を制圧した。
残り二匹が向き直った。
朱の糸で二匹目に繋げた。
三匹目が来た時、すでに二匹目が倒れていた。
「連携を崩せますわ」
後方の群れの制圧が続いた。
東の空が白み始めた頃、後方が静かになった。
倒れた魔物が周囲に散らばっていた。
全員生きていた。
致命傷は与えていなかった。
峰打ちと泡沫で制圧していた。
騎士団が両側から来た。
残った魔物を追い込んでいた。
朱音は前方を見た。
谷の方向から音がした。
父がいる方向だった。
走った。
谷の出口に向かった。
谷の出口に着いた時、父が剣を振っていた。
初めて見た。
本物の戦場での父の剣だった。
速かった。
朱音の抜刀より速くはなかった。
しかし速さの種類が違った。
朱音の剣は抜刀の一瞬に全てを集中する速さだった。
父の剣は、全ての動作が均等に速かった。
踏み込みが速く、斬撃が速く、次の構えに移行するのが速かった。
一つ一つが速いのではなく、全体として止まらない速さだった。
止まらない剣だった。
動き続けながら、来る魔物を全て処理していた。
谷から出てくるグラウルが、次々と倒れていった。
一頭も通していなかった。
ダークウルフが出てきた。
父の剣が変わった。
速さは同じだった。
しかし軌道が変わった。
ダークウルフの連携に対応した動きになった。
囲まれる前に動いていた。
ダークウルフが囲もうとする前の、僅かな予備動作を読んでいた。
予備動作の段階で、すでに囲みの外に出ていた。
(読んでいる)
前世で対峙した新選組の剣士の中にも、予備動作を読む者がいた。
しかし父のそれは、別の精度だった。
魔物の予備動作を、人間の予備動作を読むのと同じ精度で読んでいた。
(これが、父の剣か)
朱音は少し止まって、見ていた。
父が一度だけこちらを見た。
見ていることに気づいていた。
目が言った。
見るより動け。
朱音は動いた。
谷の出口の横から、残った魔物の制圧を始めた。
父が谷の中から押し出した魔物を、出口の横で受け取る形になった。
連携していた。
言葉はなかった。
指示もなかった。
しかし連携していた。
父が出した魔物を、朱音が受け取る。
朱音が受け取った魔物を、騎士団が囲む。
三重の動きだった。
夜明けになった。
空が明るくなった。
谷の中が静かになった。
倒れた魔物が谷の中と出口に散らばっていた。
騎士団が確認を始めた。
父が朱音の隣に来た。
剣を鞘に収めた。
音がした。
「どうだった」
「強いですわ、お父様は」
「剣のことを聞いている」
「強いと言いましたわ」
父が少し間を置いた。
「お前の剣と比べてどうだ」
「種類が違いますわ。優劣ではなく、種類が違いますわ」
「どう違う」
「私の剣は一点に集中する剣ですわ。お父様の剣は全体が動き続ける剣ですわ。どちらかが上ではなく、違うものですわ」
父が頷いた。
「お前の剣も、見た」
「いつですかしら」
「ずっと見ていた。後方で動いている時も、見ていた」
「後方を見ながら、前を処理していましたのね」
「処理できる余裕があったということだ」
朱音は父を見た。
後方を確認しながら、谷の出口を処理し続けていた。
余裕があったということだった。
「まあ、参りましたわ」
「何がだ」
「お父様の余裕にですわ」
父が少し止まった。
「お前もいつかそうなる」
「なれますかしら」
「なれる。お前の剣は、まだ伸びる剣だ」
朱音は少し止まった。
父がそういうことを言う人間だとは、思っていなかった。
「ありがとう存じますわ、お父様」
令嬢語変換が来た。
しかし変換前とほぼ同じだった。
父が地図を取り出した。
「残りの確認をする」
騎士団の隊長が来た。
「公爵、後方の群れも制圧されました。合計百二十七体、全員生存しています」
「全員か」と父が言った。
「はい。致命傷を与えた者がいません。クロイツェル家の方々の処理が、全て峰打ちと制圧だったためです」
隊長が朱音を見た。
「エルシア様も、一体も殺していません」
「必要がありませんでしたわ」
「百二十七体を、ですか」
「騎士団が囲んでくれましたわ。逃げる必要がなくなれば、殺す必要もありませんわ」
隊長が少し間を置いた。
「記録に残します」
「お願いしますわ」
父が隊長に向かって言った。
「ダークウルフの統率について調査しろ。自然な群れではない可能性がある」
「承知しました。調査します」
「誘導した者がいるなら、そちらが本当の問題だ」
「はい」
夜明けの光が、谷を照らしていた。
倒れた魔物が、光の中に見えた。
全員生きていた。
朱鬼を確認した。
刃こぼれはなかった。
三年間、ずっとそうだった。
「セバスチャンへの報告に、朱鬼の消耗ゼロを追加しますわ」
父が聞いていた。
「その刀は消耗しないのか」
「三年間、一度も刃こぼれが出ていませんわ」
「どんな素材だ」
「ミスリルとの複合素材ですわ。ゴルドとカインが作りましたわ」
「ゴルドが」
「ええ。カインが設計に関わりましたわ」
父が朱鬼を見た。
「一度見せてもらえるか」
「どうぞ」
鞘ごと渡した。
父が受け取った。
持った。
「軽い」
「ええ」
「これで百二十七体を処理したか」
「はい」
父が刀身を少し抜いた。
刃を見た。
傷がなかった。
「確かに消耗していない」
「ゴルドの仕事ですわ」
父が鞘に収めて返した。
「ゴルドに礼を言う」
「直接ですかしら」
「そうする」
「ゴルドは喜ばないかもしれませんわよ。口より仕事で返す人間ですわ」
父が少し間を置いた。
「では次の発注を持っていく」
「まあ、それが一番喜ぶかもしれませんわね」
朱音は谷の外を見た。
夜明けの空が続いていた。
今日、父の剣を見た。
初めて見た。
前世では、見られなかったものを見た。
(これが、父の剣か)
(前世では一度も、誰かの剣を横で見たことがなかった)
(戦場では一人だった)
(今日は一人ではなかった)
重さがあった。
しかし今日の重さは、昨日までの重さとは違う種類だった。
疲れの重さと、何か別のものが混じっていた。
その別のものが何かを、今はまだうまく言えなかった。
しかし悪くなかった。
馬が用意されていた。
帰り道が始まる。
屋敷には、フィーナとセバスチャンが待っていた。
工房には、ゴルドとカインが待っていた。
全部が、帰る場所だった。
前世には、帰る場所がなかった。
今は、ある。
それだけで、今日は十分だった。




