第五十五話 北方国境の報告
修正案が届く前に、別の報告が来た。
王太子との二度目の面会から四日後だった。
セバスチャンが朝食前に来た。
いつもより早かった。
「北方国境からの報告があります」
「北方ですかしら」
「はい。クロイツェル領の北、王国最北端の国境付近で、大規模な魔物の移動が確認されています」
「大規模、というのはどのくらいですかしら」
「詳細はまだ入っていません。しかし騎士団の北方駐屯隊から、本部への緊急報告として上がってきた情報です。クロイツェル家にも同時に連絡が入りました」
「お父様には」
「すでにお知らせしました。今朝の早い時間に届いた情報です」
「お父様はどちらにいらっしゃいますかしら」
「書斎です」
朱音は朝食を後回しにした。
書斎に向かった。
父が地図を広げていた。
机の上に王国北部の地図があった。
「報告を聞きましたわ」
「来たか」
「どのくらいの規模ですかしら」
「詳細はまだだ。しかし北方駐屯隊が単独で対処できないと判断した規模だ」
「単独で対処できない、というのは」
「百体を超える可能性がある」
百体。
クロイツェル領に来たグラウルの群れは、十数体だった。
桁が違った。
「お父様は北方に向かいますかしら」
「今日の夕方に出る予定だ」
「私も行きますわ」
父が朱音を見た。
「アカデミーは」
「今の状況が優先されますわ。メルヒオールに連絡を入れれば、事情を理解してくださいますわ」
「一人で判断するな」
「相談してから決めますわ。しかし私の意志はお伝えしておきますわ」
父が少し間を置いた。
「理由を言え」
「お父様が北方に向かいますわ。私が一緒に行く理由は、いくつかありますわ」
「全部言え」
「一つ目は戦力の問題ですわ。百体を超える可能性があるなら、お父様一人では足りないかもしれませんわ。二つ目は経験の問題ですわ。大規模な戦闘の経験が、私にはまだ少ないですわ。三つ目は」
止まった。
「三つ目は」と父が繰り返した。
「父と並んで戦いたいですわ」
令嬢語変換が来た。
しかし変換前とほぼ同じだった。
父が地図を見た。
長い沈黙があった。
「セバスチャンに準備を言え」
「承知しましたわ」
「今夜の出発に間に合わせろ」
「はい」
「一つ条件がある」
「なんでしょうかしら」
「俺の指示に従え。戦場では俺が決める」
「承知しましたわ」
「逆らうな」
「お父様の判断が間違っていた場合は言いますわ」
父が少し止まった。
「言え。しかし動きは俺の指示で動け」
「分かりましたわ」
書斎を出た。
準備が始まった。
セバスチャンが動いた。
「刀の在庫を確認します。朱鬼は携帯されますね」
「ええ。朱シリーズも何振りか持ちますわ」
「現在の実戦用は朱シリーズが十番刀から十三番刀の四振りです。朱鬼と合わせて五振りになります」
「それで行きますわ」
「試作は工房に置いたままになりますが」
「今回は持ちませんわ。まだ実戦段階ではありませんわ」
「承知しました」
マルガレーテが来た。
「黒薔薇から何名同行しますか」
「四名でいいですわ。屋敷の守りも必要ですわ」
「承知しました。今日の午後に選抜します」
「ありがとうございますわ」
フィーナが来た。
「エルシア様、北方に行くんですか」
「ええ」
「私は」
「屋敷にいてくださいますかしら」
「でも」
「フィーナ」
「はい」
「屋敷を守ることも、大事な仕事ですわよ」
フィーナが少し考えた。
「分かりました。でも絶対戻ってきてください」
「戻りますわ」
「約束ですよ」
「できる約束だけしますわよ」
「それは約束じゃないですよ」
「戻るために全力を尽くしますわ。それが私にできる言葉ですわ」
フィーナが黙った。
それから頷いた。
「分かりました」
母に報告した。
イレーナは地図を持っていた。
セバスチャンとは別の経路で、すでに情報を集めていた。
「北方の状況は、私の情報網でも確認できたわ」
「どんな情報が入りましたかしら」
「魔物の種類が分かったわ。グラウルだけではないようよ。別の種類が混じっているという報告が入っているわ」
「別の種類、とはどのような魔物ですかしら」
「ダークウルフという種類よ。グラウルより俊敏で、群れで連携する」
「連携する魔物ですかしら」
「そう。単純な群れではなく、組織的に動く可能性があるわ」
「それは厄介ですわね」
「お父様には伝えたの」
「今から伝えますわ」
「私が伝えるわ。あなたは準備を続けなさい」
母が書斎に向かった。
情報が足りていなかった部分が、母の情報網で補われていた。
前世では、こういう補い方がなかった。
一人で全ての情報を集めて、一人で判断していた。
今は補ってくれる人間がいた。
午後になった。
アカデミーに連絡を入れた。
メルヒオールへの書簡をセバスチャンが用意した。
返事が夕方に来た。
学業についての心配は不要との内容だった。
戦況の記録を持ち帰れるなら持ち帰ってほしいとも書いてあった。
「メルヒオールらしいですわ」
「記録への関心は一貫していますね」とセバスチャンが言った。
「カインへの連絡も入れてくださいますかしら」
「どんな内容でしょうか」
「北方に向かうことと、刀の状況を報告してほしいという連絡ですわ。戻ってから工房に寄りますわ」
「承知しました」
「ゴルドへも同じ内容でお願いしますわ」
「はい」
夕方、出発の準備が整った。
馬が五頭用意されていた。
父と朱音と黒薔薇四名の計六名だった。
荷物は最小限だった。
刀と食料と医療の基本的なものだけだった。
前世でも、荷物は最小限にしていた。
重いものは動きを遅くする。
動きが遅くなると、次の朝が来ない。
出発前に、祖母の部屋に行った。
「北方に行くのか」
「ええ」
「いつ戻る」
「分かりませんわ。状況次第ですわ」
「ライナルトと一緒か」
「ええ」
祖母が少し間を置いた。
「消えるなよ」
「消えませんわ」
「記録を続けている。戻ったら話せ」
「はい」
祖母の部屋を出た。
屋敷の前に父がいた。
馬に乗っていた。
朱音も馬に乗った。
腰に朱鬼があった。
背に朱シリーズが三振りあった。
「行くか」と父が言った。
「行きますわ」
馬が動いた。
北方に向かった。
王都を出た。
空が夜に向かっていた。
星が出始めていた。
前世でも、こういう夜があった。
夜に向かって動き出す夜が。
しかし前世は一人だった。
今は隣に父がいた。
黒薔薇四名がついていた。
屋敷にフィーナとセバスチャンとマルガレーテが残っていた。
前方に夜道が続いていた。
父が無言で走っていた。
朱音も無言で走った。
言葉が要らない時がある。
こういう時だった。
ただ走ることだけが、今この瞬間の全てだった。




