第五話 最初の刀
三週間は、思ったより早く過ぎた。
稽古場に毎夜通った。木剣を振った。最初は腕が震えていたが、十日を過ぎた頃から少しずつ体がついてくるようになった。六歳の体は覚えが早かった。前世の記憶が道筋を作って、体がその道筋を辿る。筋肉がない分、重心移動だけに集中できた。それが思わぬ形で基礎を固めることになった。
一の構えだけを、毎夜百回繰り返した。
二の構えには手をつけなかった。
一が体に馴染むまで、次には進まない。前世からそう決めていた。土台のない建物は、高く積み上げるほど早く崩れる。剣も同じだった。
三週間目の朝、父が馬車の準備を命じた。
何も言わなかったが、朱音には分かった。
黒炉に向かう馬車の中で、フィーナが落ち着かない様子で膝の上で手を組んだり解いたりしていた。
「エルシア様、刀って、本当に使うんですか」
「使いますわ」
「稽古で、ですよね」
「さあ」
「さあって……」
フィーナが困った顔をした。セバスチャンは窓の外を見ていた。父は向かいの席で目を閉じていた。眠っているのか考えているのか、表情からは分からなかった。
黒炉に着いた。
工房の扉を開けると、ゴルドが待っていた。
いつものパイプを咥えていたが、今日は落とさなかった。それだけ心の準備ができているということだと、朱音は思った。
「来たか」
「参りましたわ」
「できておる」
ゴルドが奥に引っ込んだ。
朱音は工房の中で待った。炉の熱気が顔に当たった。金属の匂いがした。前世の刀鍛冶の工房とは素材も工法も違うはずだが、この匂いだけは似ていた。何かを作り続けてきた場所の匂いだった。
ゴルドが戻ってきた。
両手で、横に持っていた。
鞘に収まった刀だった。
黒い鞘だった。飾りはなかった。金具は鈍い銀色で、実用一点張りの拵えだった。ゴルドがそれを朱音の前に差し出した。
「受け取れ」
朱音は両手を出した。
重かった。
六歳の腕には重かったが、持てないほどではなかった。ゴルドが重心を計算して作っていた。鞘ごと持った時のバランスが、腕の力が弱くても扱いやすいように調整されていた。
右手で柄を握った。
鞘の口に左手を添えた。
抜いた。
音がした。金属が鞘を抜ける、細い音だった。
刀身が出た。
光が走った。工房の炉の赤い光が、刀身に映って揺れた。刃紋が見えた。波のような、複雑な刃紋だった。前世で見た刃紋とは模様が違ったが、鋼の中に力があることは分かった。
構えた。
重心がぴたりと合った。
柄寄りの重心設計が、六歳の腕の弱さを補っていた。切っ先が上がりすぎない。腕が疲れる前に構えが決まる。ゴルドが寸法だけでなく、使い手のことを考えて打ったことが分かった。
(悪くない)
朱音は刀を持ったまま、一の構えを取った。
踏み込み。腰の回転。腕の軌道。
木剣より刀の方が重かったが、重心が正確に作られているから扱いやすかった。体の動きに刀がついてくる感覚があった。木剣にはなかった感覚だった。
一閃した。
ゆっくりと、力ではなく軌道だけを確かめる速度で。
切っ先が止まった。
静止した刀身を見た。
(前世の業物には及ばない)
正直に思った。前世で使った最良の刀は、もっと鋼の密度が高くて、もっと刃紋が複雑で、もっと全体が一つの意志を持っているような刀だった。しかしそれは何十年もかけて鍛えた職人が、最良の素材で打った刀だった。
(しかし育てられる)
使い込むほどに馴染む刀だと分かった。前世でも、最初から完璧な刀より、使い込んで馴染ませた刀の方が手に合った。この刀はその種類だった。
ゴルドを見た。
職人は腕を組んで待っていた。評価を待っていた。前世の職人と同じ顔をしていた。作ったものを渡した後の、緊張と矜持が混じった顔だった。
「次は鞘の重心も、もう少し柄側に寄せていただけますかしら」
ゴルドの目が細くなった。
「抜刀の時、鞘が前に出すぎますの。もう少し手元で支点を作れると、速度が上がると思いますわ」
「……お主、本当に六歳か」
「六歳ですわ」
ゴルドは朱音を見た。それから刀を見た。それから朱音を見た。
ゆっくりと、深く、頭を下げた。
「承った」
朱音は刀を鞘に収めた。
金属が鞘に戻る音がした。
さっきとは逆の音で、しかし同じくらい細くて静かな音だった。
フィーナがいつの間にか口を手で覆っていた。目が丸かった。何に驚いているのか、いくつか候補はあったが、全部に驚いている顔だった。
セバスチャンが静かに近づいてきた。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「在庫の管理台帳を作りました。一番刀、受領完了と記録してよろしいですか」
朱音はセバスチャンを見た。
銀髪の少年は小さな手帳を開いていた。几帳面な文字で、刀の寸法と受領予定日が書いてあった。余白には今後の発注スケジュールの欄まで作ってあった。
「よろしくてよ」
「ありがとうございます」
セバスチャンがペンを走らせた。
父は工房の入口に立ったまま、何も言わなかった。刀を受け取る娘を見ていた。その目が何を思っているか、朱音にはまだ読めなかった。読めなかったが、悪い目ではなかった。
帰りの馬車の中で、フィーナがようやく口を開いた。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「刀、十振りも作るんですよね」
「ええ」
「なんでそんなに」
「消耗しますので」
フィーナはしばらく黙った。
窓の外に流れる領地の景色を見て、また朱音を見て、それから意を決したように聞いた。
「エルシア様は、戦うんですか」
朱音は膝の上に置いた刀を見た。
黒い鞘が、馬車の揺れに合わせて僅かに動いていた。
「必要があれば」
「必要って、どんな時ですか」
「さあ」
「さあじゃないですよ」
フィーナが少し声を上げた。それからすぐに「申し訳ございません、声が大きくなりました」と縮こまった。朱音はそれを見て、少し考えた。
「守るべきものが、危うくなった時ですわ」
フィーナが顔を上げた。
「守るべきもの、ですか」
「ええ」
フィーナはまた黙った。今度の沈黙は、さっきと種類が違った。何かを飲み込んで、それを自分の中で確かめているような沈黙だった。
馬車が屋敷の門をくぐった。
降りる前に、セバスチャンが手帳を閉じながら言った。
「ゴルド殿への次回発注は、二番刀から四番刀の三振りをまとめてお願いする予定でございます。一ヶ月後を目安に」
「ありがとう」
「鞘の重心修正分も、仕様書に追記しておきます」
「助かりますわ」
父が先に馬車を降りた。
振り返らなかった。
しかし屋敷の扉を開ける前に、一瞬だけ立ち止まった。ほんの一瞬で、それから何事もなく扉を開けて中に入った。
朱音は馬車を降りながら、腰に刀を差した。
重かった。六歳の体には不釣り合いな重さだった。しかしその重さが、今は悪くなかった。前世でも刀を腰に差した時、この重さがあって初めて落ち着いた。重さがないと、何か足りない気がした。
この世界でも同じだった。
屋敷に入りながら、朱音は右手で柄頭に触れた。
冷たかった。
金属の冷たさが手のひらに伝わった。
(育てよう)
前世の最良の刀には及ばない。しかし育てられる刀だ。使い込んで、馴染ませて、この体と一緒に育てていく刀だ。
廊下を歩きながら、朱音はそう決めた。
夜になったら稽古場に行く。
今夜からは木剣ではなく、この刀で振る。
まだ切れない。刃を潰してある訓練用ではないから、本来なら屋内で振るうものではない。しかしそれはいい。切れる刀の重さと軌道を、体に覚えさせる必要がある。
六歳の夜は、まだ長かった。




