第四十七話 祖母の部屋
その夜、稽古が終わった後に祖母の部屋に行った。
夜に祖母の部屋に行くのは珍しかった。
いつもは昼間だった。
ノックした。
灯りがついていた。
「入りな」
入ると、祖母は文机に向かっていた。
何かを書いていた。
夜遅くに何かを書いている祖母を見たのは、初めてだった。
「珍しいですわね、こんな夜遅くに」
「お前も珍しいな、夜に来るのは」
「稽古が終わってから来たくなりましたわ」
「座りな」
座った。
茶はなかった。
夜遅かったから準備していなかった。
しかし祖母は書いていたものを机に置いて、こちらを向いた。
「何かあったか」
「特別なことはありませんわ」
「では何をしに来た」
「さあですわ」
「さあ、か」
「来たくなりましたわ。それだけですわ」
祖母が少し間を置いた。
「まあいい」
二人で静かに座った。
茶がなかったが、それでも沈黙は落ち着いていた。
祖母との沈黙は、いつもそうだった。
「お祖母様が書いていたのは、何ですかしら」
「記録だ」
「何の記録ですかしら」
「お前のことの記録だ」
朱音は少し止まった。
「私のことを書いていましたの」
「六歳の誕生日から、今日まで書いてきた」
「それは」
「誰かが記録しておく必要があると思った。お前がこの世界で生きていることの記録が、どこかにある必要があると思った」
「なぜですかしら」
「二人の先祖の記録を書庫で見ただろう」
「ええ」
「あの記録は、誰かが残したものだ。誰が残したかは分からない。しかし残っていたから、お前は読めた。読めたから、自分が何番目かを知った」
「ええ」
「お前の記録も、誰かが残す必要がある。わしが残す」
朱音は祖母を見た。
七十四年間、一人でいることを選んだ老婦人が、六歳から今日まで書き続けていた。
「どんなことを書いていますかしら」
「大したことではない。いつ何をしたか。何を言ったか。誰と話したか。刀が何振りになったか。そういうことだ」
「細かいですわね」
「お前の刀の数が増えていく記録は、面白かったな」
「まあ」
「最初の十振りの発注から始まって、今は何振りあるか分かるか」
「セバスチャンが正確に管理していますわ」
「わしも記録している。稽古用に回った刀の数と、実戦用の数と、折れた数が全部書いてある」
「折れた数まで」
「全部記録することに意味がある。折れた刀の数は、お前が動いた証拠だ」
朱音は窓の外を見た。
夜の窓だった。
星が見えた。
「お祖母様」
「なんだ」
「その記録は、私が見てもよろしいですかしら」
「今はまだだ」
「いつになったらですかしら」
「わしが死んだ後でいい」
「そんな先のことをおっしゃいますな」
「七十四だ。先のことではない」
「まだお元気ですわよ」
「元気だが、七十四だ。現実的に話している」
朱音は祖母を見た。
漆黒の目が、現実的に話していた。
「では、お祖母様が記録を続けている間、私は動き続けますわ。記録することが沢山できるように」
「そういうことだ」
「記録が終わる前に、私が終わる可能性もありますわね」
「それはわしが先に終わる」
「どちらが先かは分かりませんわよ」
「お前はまだ十歳だ。わしより長く生きろ」
「努力しますわ」
「努力ではなく、生きろ」
「はい」
祖母が机に向き直った。
記録の続きを書き始めた。
朱音は少し見ていた。
細かい字だった。
几帳面な字だった。
七十四年間、感情を内側に持ち続けてきた人間の字だった。
「お祖母様は、一人でいることを選んだとおっしゃっていましたわね」
「言った」
「後悔していますかしら」
「少しな」
「どのくらい少しですかしら」
「切り捨て型の後悔ではない。あの時にそう選んだことは理解している。しかし別の選択もあったかもしれないと思う程度だ」
「切り捨て型の後悔、とはどういう意味ですかしら」
「あの時の自分を否定するような後悔のことだ。そういう後悔は持っていない。ただ、違う道もあったかもしれないとは思う」
「私も、前世についてそう思うことがありますわ」
「あの時の自分は否定しないが、今は違う選択をしている、ということか」
「そうですわ」
祖母が書くのを止めた。
振り返った。
「それでいい」
「ええ」
「過去を否定せずに、今を選ぶ。それが一番難しくて、一番正しい」
「難しいですわね」
「難しい。しかしお前はやっている」
「お祖母様もやっていますわよ」
「わしは」祖母が少し間を置いた。「遅かったかもしれないが、今はやっている」
「遅くはありませんわ」
「そうかな」
「そうですわ」
祖母がまた机に向き直った。
書き続けた。
朱音はしばらくそこにいた。
立ち去る気になれなかった。
前世では、誰かがそこにいてくれることが、なかった。
今夜は逆だった。
朱音が、祖母のそこにいた。
どちらが側にいるか、という問題ではなかった。
同じ部屋に、二人がいた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
しばらくして、立ち上がった。
「そろそろ戻りますわ」
「ああ」
「また来ますわ」
「来い」
扉に向かった。
「一つだけ」
振り返った。
祖母が机に向かったまま言った。
「お前が今夜来た理由が、さあだとしても、来たことは記録しておく」
「何と書きますかしら」
「夜遅くに来た、とだけ書く」
「それだけですかしら」
「それだけで十分だ。後で読む者が、想像する余地を残す方がいい」
朱音は少し間を置いた。
「よろしいですわ」
扉を閉めた。
廊下に出た。
北棟の冷たい空気が頬に当たった。
夜遅くに来た。
それだけが記録される。
なぜ来たかは書かれない。
しかし来たことは残る。
前世では、来たことが残らなかった。
今は残る。
稽古場の鍵を触れた。
今夜の稽古は終わっていた。
部屋に戻る時間だった。
廊下を歩いた。
星が窓から見えた。
今週末、工房に行く。
朱鬼を見る。
ゴルドとカインと三人で、刀について話す。
その前に、明日の稽古がある。
明日の授業がある。
全部が続いていた。
前世も、ある意味続いていた。
しかし前世の続きは、いつ終わるかが分からない続きだった。
今は違う。
続きに、内容がある。
工房がある。刀がある。フィーナがいる。祖母が記録している。
内容のある続きが、今の自分の日々だった。
部屋に戻った。
寝台に横になった。
枕の下に鍵が二本あった。
稽古場の鍵と、書庫の鍵。
六歳の夜から、ずっとそこにあった。
今夜も、そこにあった。
目を閉じた。
眠れた。




