第四十六話 審問の結末
翌朝、王家から正式な文書が届いた。
封印請願の棄却が、正式に記録されたという通知だった。
審問の結論と、直裁権行使の記録と、魔法教会の協調路線声明が、全て王家の公式記録として保管された。
これによって、同じ根拠での封印請願は、今後提出できないことになった。
セバスチャンが説明した。
「一度棄却された請願と同一の根拠での再請願は、王国法上認められません。魔法教会が協調路線を声明した以上、教会側からの新たな請願も当面難しい状況です」
「当面、という言葉が引っかかりますわね」
「完全に終わったわけではありません。新たな根拠が生じれば、別の形での動きはあり得ます。ただし現時点での封印の脅威は、大幅に低下したと判断しています」
「監視は」
「昨日と同様、確認できません。引いたままです」
「しばらくはこの状況が続きますかしら」
「直裁権行使の後、これ以上動くことへの抑止力が働いています。しばらくは続くと思います」
父が書斎から出てきた。
朝食に向かう途中だった。
「文書を見た」
「ええ」
「一段落だ」
「そうですわね」
「一段落だが、終わりではない」
「存じておりますわ」
父が頷いた。
腕の包帯が、昨日より小さくなっていた。
回復が早かった。
「お父様、腕は」
「問題ない」
「医師が一週間とおっしゃいましたわよ」
「四日で十分だ」
「お父様」
「稽古は見ているだけにする。剣は持たない」
「よろしいですわ」
朝食の席に全員が揃った。
いつもと同じ朝食だった。
ヴァルターが言った。
「エルシア、ひとまず終わったのか」
「一段落ですわ」
「よかった。詳しくは後で聞かせてくれよ」
「後でですわ」
「今日は食べよう」
「そうですわね」
食事が続いた。
午前中、母とヴァレンシア侯爵の話し合いに同席した。
応接間に三人が揃った。
侯爵が開口した。
「封印棄却が正式に記録された。これで第一段階は終わりだ」
「第一段階、とおっしゃいますかしら」
「そうだ。封印を防ぐことが第一段階だった。第二段階は、暗属性の社会的立場を変えることだ」
「社会的立場、というのは具体的にはどういう意味ですかしら」
「今回の審問で、暗属性が危険ではないという事実が記録された。しかしそれは一件の事例だ。社会全体の認識が変わったわけではない」
「時間がかかる話ですわね」
「時間がかかる。しかし記録が残った。記録が残れば、参照できる。参照されれば、認識が少しずつ変わる」
母が言った。
「実験の記録もあるわ。光と暗が共存できた記録が、アカデミーに残っている」
「メルヒオールが保管していますわ」
「それも重要よ。学術的な記録として残ることで、魔法教会の教義に対抗できる根拠になる」
侯爵が続けた。
「ドラクロワ家が動いた。あの家が中立として立会人に立ったことは、武門としての評価だ。クロイツェルの剣を認めたということだ」
「ドラクロワ公爵が、今後の同盟について話したいとおっしゃっていましたわ」
「知っている。ヴァレンシアとして、その話し合いに関与させてほしい」
「お任せしますわ。私はそういう交渉が得意ではありませんわ」
侯爵が少し止まった。
「正直だな」
「得意ではないことを得意なように見せることに、意味を感じませんわ」
「そういう考え方は、交渉において有利に働くことがある」
「そうですかしら」
「自分の不得意を明示する者は、信頼される。全部得意だと言う者より、任せられると感じさせる」
「まあ、意図していませんでしたわ」
「意図せずにやれていることの方が、本物だ」
侯爵が話を戻した。
「ルミナール家の動向を確認している。レオンが父と話し合いを続けているようだ」
「ええ、アカデミーでも話していましたわ」
「ルミナール公爵が、どこまで変わるかは分からない。しかし今回の件で、強硬な姿勢を取りにくくなったことは確かだ」
「息子が反対したからですかしら」
「それもある。しかし直接的には、審問場での行動を止めようとした事実が記録されていることだ。強硬派と同一視されることを、あの公爵は望まない」
「メルヒオールが記録していましたわ」
「記録が、ルミナール公爵を縛っている。記録とはそういうものだ」
話し合いが終わった。
侯爵が帰り際に言った。
「エルシア」
「はい」
「今週末、工房に行くと聞いた」
「ゴルドの工房ですわ。朱鬼の確認に」
「朱鬼というのは」
「ミスリルで作る刀ですわ。カインが設計に関わっています」
侯爵が少し考えた。
「ミスリル刀か。費用はクロイツェル家が持っているのか」
「はい」
「費用の一部を、ヴァレンシア家で負担しよう」
「なぜですかしら」
「投資だ。クロイツェル家の剣が強くなることは、ヴァレンシア家にとっても有益だ。同盟として当然の判断だ」
「お断りしますわ」
侯爵が止まった。
「なぜ」
「刀は私のものですわ。誰かの投資で作られた刀を、私の刀とは呼べませんわ」
侯爵が少し間を置いた。
それから小さく笑った。
「そうか。失礼した」
「いいえ。ご好意はありがたく存じますわ」
「頑固なところはイレーナに似ているな」
母が「お兄様」と言った。
「褒め言葉だ」と侯爵が言って、出ていった。
午後、アカデミーに行った。
通常の授業だった。
何事もなかった日の授業だった。
魔法理論の講義があった。
歴史と政治の講義があった。
剣術の実技があった。
ガルドが実技の前に言った。
「今週の事態について、アカデミーとして記録した。今後の授業の参考にする」
「参考、とはどういう意味ですかしら」
「暗属性と光属性の共存実験の記録を、魔法理論の授業に組み込む。実例として教えることができる」
「それはよいことですわね」
「レオン・ルミナールの協力も得た。実験の当事者が授業で語ることには、意味がある」
「レオン様がご承諾なさいましたの」
「昨日、自分から申し出てきた」
朱音はレオンを見た。
少し離れた場所に立っていた。
目が合った。
レオンが少し頷いた。
自分から動いていた。
剣術実技が始まった。
今日は通常の稽古だった。
特別なことは何もなかった。
木剣を持って、基本の動作を繰り返した。
ガルドが巡回しながら各学生を見ていた。
カインの横に来た。
「お前の重心の取り方が変わったな」
「ゴルドの工房で学んでいる。鍛冶の重心感覚が剣に反映された」
「面白い経路だ」
「同じ物理の話だから、当然かもしれない」
ガルドが頷いて、次の学生に移った。
稽古が終わった。
帰りの馬車の中でフィーナが言った。
「今日は普通の一日でしたね」
「ええ」
「普通の一日って、こんなに良いものなんですね」
朱音は窓の外を見た。
王都の夕方の景色が流れていた。
普通の一日。
前世には、普通の一日があったかどうかを考えた。
なかった。
毎日が非常だった。
普通の日を知らなかった。
「ええ、いいものですわ」
「エルシア様が同意するのは珍しいですね」
「そうですかしら」
「いつもはさあとか、そうかもしれませんわとか言うじゃないですか」
「今日は素直に同意できる気分ですわ」
フィーナが嬉しそうにした。
「明日も普通の一日だといいですね」
「そうですわね」
「明後日も」
「そうですわね」
「今週末は工房ですよね」
「ええ」
「普通ではないですね」
「まあ、工房はいつも通りですわ」
「ゴルドさんのところは普通といえば普通ですね」
「ええ」
馬車が走った。
クロイツェル領に向かった。
屋敷が近づいた。
今夜は稽古をする。
通常の稽古だった。
三段構えの反復と、予備動作を小さくする練習だった。
今日刀の消耗状況を確認する。
十番刀の状態を見る。
セバスチャンに報告する。
今週末の工房の準備を確認する。
全部、普通のことだった。
普通のことが、今日は普通にある。
前世にはなかった普通が、今はある。
屋敷の門が見えた。
マルガレーテが門のところに立っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま帰りましたわ」
「本日の報告があります」
「なんでしょうかしら」
「監視の人員、引き続きゼロです。変化なし」
「ありがとうございますわ」
「それだけです」
「よろしいですわ」
それだけだった。
普通の報告だった。
屋敷に入った。
廊下を歩いた。
稽古場の鍵を触れた。
今夜も、この鍵でここから始まる。
六歳の夜から続いていた。
今夜も続く。
それだけだった。
それで十分だった。




