第四十五話 必要がなかったから
屋敷に戻った時、フィーナが門の前にいた。
待っていた。
朱音の顔を見た瞬間、何も言わなかった。
走ってきて、朱音の隣に並んだ。
それだけだった。
何も聞かなかった。
何も言わなかった。
ただ隣を歩いた。
屋敷の中に入って、廊下を歩いて、朱音の部屋の前まで来た。
フィーナが扉を開けた。
中に入った。
椅子を引いた。
「座ってください」
座った。
フィーナがお茶の準備を始めた。
いつもと同じ動作だった。
お湯を注いで、茶葉を入れて、少し待って、カップに移した。
置いた。
「どうぞ」
朱音は茶を受け取った。
温かかった。
フィーナが向かいに座った。
自分の茶も持っていた。
二人で茶を飲んだ。
何も言わなかった。
しばらくの間、二人で静かに茶を飲んだ。
フィーナが最初に口を開いた。
「終わりましたか」
「ええ、終わりましたわ」
「そうですか」
それだけだった。
また静かになった。
窓の外に空が見えた。
曇っていた空が、完全に晴れていた。
青い空だった。
「フィーナ」
「はい」
「何も聞かないのですかしら」
「聞かない方がいいと思いました」
「なぜですかしら」
「エルシア様が話したいことは、話してくれると思っているので」
朱音はフィーナを見た。
赤毛の侍女が、真っ直ぐに見ていた。
怖がっていなかった。
引いていなかった。
ただ、ここにいた。
「重いですわ」
「はい」
「前世では、こんなに重くなかったですわ」
「重くなったのは、なぜですか」
「余裕ができたからですわ。余裕ができると、感じる時間ができますわ」
「余裕が重さを作ったんですね」
「ええ」
「それは」フィーナが少し考えた。「悪いことじゃないと思います」
「そうですかしら」
「重さを感じられない方が、怖いです。感じられるということは、ちゃんと人間だということだと思います」
レオンと同じことを言った。
言葉は違ったが、内容が同じだった。
「レオン様も同じことをおっしゃいましたわ」
「そうですか。あの人も、そう思ったんですね」
フィーナが茶を一口飲んだ。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「前世では、重さを感じなかったって言いましたよね」
「ええ」
「その前世の自分と、今の自分、どちらが好きですか」
朱音は少し止まった。
好きか嫌いか、という問い方をされたことがなかった。
前世と今世を、好き嫌いで比べたことがなかった。
「さあですわ」
「さあじゃなくて、どっちですか」
「どちらも自分ですわ」
「それは答えになっていません」
「まあ」
フィーナが引かなかった。
珍しかった。
今日のフィーナは引かなかった。
「今の自分の方が、今は好きかもしれませんわ」
「今は、ということは、前世の自分の方が好きな時もあるんですか」
「前世では、迷わなかったですわ。今日のように三日も迷いませんでしたわ。その潔さは、羨ましいと思う時がありますわ」
「でも今の方が好きなんですね」
「今はそうですわ」
フィーナが笑った。
嬉しそうな笑いだった。
「よかったです」
「何がですかしら」
「今の自分の方が好きって言ってくれたので」
「それがよかったのですかしら」
「はい。今のエルシア様がいてよかったって思いました」
朱音は窓の外を見た。
青い空が続いていた。
夕方、祖母の部屋に行った。
ノックした。
「入りな」
入ると、祖母はいつもの椅子に座っていた。
茶が二つ、テーブルに置いてあった。
「座りな」
座った。
茶を飲んだ。
祖母は何も聞かなかった。
しばらく二人で窓の外を見ていた。
「終わったか」
「ええ」
「重いか」
「重いですわ」
「そうか」
それだけだった。
また沈黙が来た。
祖母との沈黙は、いつも言葉が要らない種類だった。
「お祖母様」
「なんだ」
「前世では、消えましたわ。今回は消えませんでしたわ」
「そうだな」
「消えるなと言ってくれましたわよね」
「言った」
「消えませんでしたわ」
祖母が朱音を見た。
漆黒の目だった。
七十四年間の目だった。
「よくやった」
短かった。
それだけだった。
しかしその言葉の重さが、今日の重さと同じくらいあった。
「お祖母様は、この結果をどう思いますかしら」
「どの結果だ」
「封印が棄却されたことと、今日のことと」
「どちらも、お前が選んだ結果だ。私がどう思うかは関係ない」
「それでも聞きますわ」
祖母が少し間を置いた。
「封印が棄却されたことは、当然の結果だ。二百年前と八十年前の者たちに、そうしてやれなかったことへの、遅い補いかもしれない」
「今日のことは」
「お前が人間として選んだことだ。道具として動いたのではない。それで十分だ」
朱音は祖母の言葉を聞いた。
道具として動いたのではない。
レオンが言った、迷って動く者は人間だという言葉と、重なった。
「お祖母様も同じことをおっしゃいますわね」
「何が」
「道具か人間かという話ですわ。レオン様も、フィーナも、同じことを言いましたわ」
「そうか」祖母が茶を飲んだ。「お前の周りにいる人間が、みなそう思っているということだ」
「まあ」
「周りを見ろ。前世には何もなかった。今はある」
「ええ」
「それが答えだ」
シンプルだった。
しかしその通りだった。
前世には何もなかった。
今はある。
重さがある。茶がある。フィーナがいる。レオンがいる。父が並んで歩いた。祖母がここにいる。
全部が、前世にはなかったものだった。
翌朝、セバスチャンが報告を持ってきた。
「昨日の直裁権行使について、王家から正式な記録が完成しました。王国法に基づく適正な手続きとして記録されました」
「分かりましたわ」
「もう一点」
「なんでしょうかしら」
「魔法教会から声明が出ました。強硬派の行動は組織としての決定ではなかったとして、今後はクロイツェル家及び王家との協調路線を取るという内容です」
「総主教が正式に出しましたかしら」
「はい。昨日の直裁権行使の後、数時間で出ました」
「速いですわね」
「強硬派が全員いなくなった後、すぐに動いたということです。組織として生き残る判断です」
「そうですわね」
「監視の人員について、追加報告があります」
「どうなっていますかしら」
「昨日以降、監視が完全に消えました。屋敷周辺に、確認できる人員がいません」
「全員、引いたということですわね」
「はい。引いた理由は、直裁権行使を見て、これ以上動くことのリスクを判断したためと思われます」
「法的な制裁の抑止力が機能しましたわね」
「そのように考えています」
セバスチャンが台帳を閉じた。
「最後に一点、個人的なご報告です」
「なんでしょうかしら」
「今週末、ゴルドから試作の最終確認の案内が来ています。朱鬼の試作が完成段階に近いとのことです」
朱音は少し止まった。
「朱鬼が」
「はい。ゴルドとカイン殿が、審問の期間も作業を続けていたようです」
二人は続けていた。
朱音が審問で動いている間も、工房で作り続けていた。
「今週末、工房に参りますわ」
「承知しました。馬の準備をしておきます」
「カインに伝えてくださいますかしら」
「すでに連絡してあります。カイン殿もいらっしゃる予定です」
「よく気が利きますわ」
「恐れ入ります」
その日の午後、アカデミーでレオンに会った。
「昨日の後、どうだ」
「重さはありますわ。しかし動けていますわ」
「そうか」
「レオン様は」
「俺も重い」
「なぜですかしら」
「俺の父が起こした事態が、あの場に繋がった。直接の責任はないかもしれないが、無関係でもない」
「それはレオン様の責任ではありませんわ」
「分かっている。しかし重い」
「重さを感じることは人間だとおっしゃいましたわよ、昨日」
「自分で言って、自分で重くなっている」
「まあ」
朱音は少し考えた。
「レオン様」
「なんだ」
「あなたは昨日、なぜ立ち会いましたかしら」
「必要だと思ったからだ」
「それだけですかしら」
レオンが少し間を置いた。
「責任を感じていたからかもしれない」
「お父様の件でですかしら」
「それもある。しかしそれだけではない」
「ほかには」
「お前が一人で背負うべきではないと思った」
朱音は少し止まった。
「立ち会うことで、何か変わりましたかしら」
「重さが少し分散したかどうかは分からない。しかし見届けた者がいるということは、変わらない」
「それが、レオン様が来た理由ですわね」
「そうかもしれない」
カインが来た。
「審問の件と昨日の件、記録を整理した」
「ありがとうございますわ」
「一つ確認したい」
「なんでしょうかしら」
「昨日の直裁権行使で、刀を使った。どのくらい消耗したか」
「刃こぼれは確認していませんわ。確認する気になりませんでしたの」
カインが少し止まった。
「今日確認できるか」
「今夜確認しますわ」
「分かった。確認結果をゴルドに伝える。朱鬼の完成に向けた最終調整の参考にする」
「今週末、工房に行きますわ」
「知っている。セバスチャンから聞いた」
「朱鬼の話を聞かせてくださいな」
「工房で話す方がいい。実物を見ながら話す方が正確だ」
「そうですわね」
カインが戻った。
レオンが言った。
「あの平民、面白い考え方をする」
「そうですわね」
「刀の消耗を、設計の参考にする。使い手の使い方を、作る側が反映させるということか」
「ゴルドもそういう考え方をする職人ですわ」
「武器を作る者と使う者が、対話しながら作るということだな」
「対話、という言葉が合っていますわ」
レオンが少し考えた。
「光と暗の実験も、同じかもしれない。対話しながら、何が起きるかを確かめた」
「ええ」
「対話が、打ち消し合いを防いだのかもしれない」
朱音はレオンを見た。
十一歳の少年が、そういうことを言うようになっていた。
入学初日、正面から暗属性を否定していた少年が、今日こういうことを言っていた。
「方向が変わりましたわね、レオン様」
「自分でも分かる」
「良い変わり方ですわよ」
「そうだといいが」
「そうですわ」
断言した。
レオンが少し止まった。
「お前が断言するのは珍しい」
「今日は断言できますわ」
レオンが小さく頷いた。
廊下を歩き始めた。
「今週末の工房に、俺も行っていいか」
「なぜですかしら」
「朱鬼を見たい」
「ゴルドに確認しますわ」
「頼む」
レオンが立ち去った。
朱音は廊下に一人残った。
今日は誰かと話し続けていた。
フィーナと。祖母と。セバスチャンと。レオンと。カインと。
前世では、戦いの後に誰かと話すことがなかった。
一人で刀を拭いて、一人で次の夜を待っていた。
今日は違った。
重さがあった。
しかし一人で持っていなかった。
誰かが隣にいた。
誰かが言葉をくれた。
誰かが茶を出してくれた。
誰かが並んで歩いた。
誰かが立ち会った。
誰かが記録した。
全部が、今日の重さを分けていた。
分けてもらった分、動けた。
窓の外に空が見えた。
今日も続いていた。
明日も続くはずだった。
今週末、工房に行く。
朱鬼の試作を見る。
ゴルドとカインと話す。
重さを持ちながら、動き続ける。
それが今の自分だった。
前世でも、動き続けることだけはやめなかった。
今も同じだった。
ただ、一人ではなかった。
それだけが、今日の全てだった。




