第四話 黒炉の主
父に頼んだのは、三日後のことだった。
夕食の席で、父が珍しく早く食べ終わって席を立つ前に、朱音は声をかけた。タイミングの問題だった。この男に何かを頼む時は、動き出す直前が一番いい。座って待っている時より、立ち上がった時の方が、余計なことを考える間がない。前世で学んだ、話しかけにくい相手への対処法だった。
「お父様」
父が振り返った。
「領内に、腕のいい鍛冶師はおりますかしら」
沈黙だった。
いつもの沈黙だったが、今回の沈黙は少し種類が違った。考えている沈黙ではなく、何かを確かめている沈黙だった。この六歳の娘が何を考えているのか、確かめようとしている沈黙だった。
「何のために」
父が聞いた。
この男が娘に質問を返したのは、朱音の知る限り初めてのことだった。
「刀を打っていただきたいのですわ」
また沈黙があった。
今度は短かった。
「明後日、連れていく」
それだけ言って、父は食堂を出た。
兄のヴァルターが「刀? エルシアが?」と繰り返したが、朱音はパンの最後のひとかけらを口に入れながら、明後日の準備を頭の中で始めていた。
明後日の朝、馬車が出た。
クロイツェル領の中を一時間ほど走った先に、その鍛冶工房はあった。
黒炉、という看板が出ていた。
看板の文字は太くて、飾り気がなく、主人の性格が滲み出ているような字だった。建物は石造りで、煙突から黒い煙が出ていた。近づくにつれて熱気が増してきた。金属を叩く音が、規則正しく響いている。
馬車を降りると、父は何も言わずに歩き始めた。
朱音はその後ろについた。フィーナが「熱いですね」と言いながらついてくる。セバスチャンは少し後ろで、周囲を確認しながら歩いていた。
工房の中は広かった。
炉が並んでいて、赤い光が揺れていて、金属の匂いと煤の匂いが混じっていた。前世の刀鍛冶の工房に似ていた。似ていて、しかし規模が違った。もっと大きくて、もっと雑然としていて、しかし道具の一つ一つに確かな手入れの跡があった。
「ゴルド」
父が呼んだ。
奥から出てきたのは、小柄な男だった。
小柄といっても、六歳の朱音より背が低いわけではない。大人の人間に比べて低い、という意味だった。ドワーフだと朱音はすぐに分かった。この世界の知識がそう教えていた。がっしりとした体格で、白い髭が胸まで伸びていて、手が異常に大きかった。鍛冶師の手だった。前世で見たどんな鍛冶師の手よりも、節くれだっていた。
口にパイプを咥えていた。
「ライナルト殿か。久しぶりじゃな」
しわがれた声だった。
「娘が来た」
「ほう」
ゴルドが朱音を見た。
朱音はゴルドを見た。
値踏みし合うような間があった。職人が客を見る目と、朱音が職人を見る目が、正面からぶつかった。ゴルドの目は細くて、しかし光っていた。長年火を見続けてきた職人の目だった。
「こんな小さなお嬢ちゃんが、何の用じゃ」
「刀をお願いしたいのですわ」
「刀」ゴルドがパイプを指で押さえた。「剣ではなく?」
「剣ではなく、刀ですわ。片刃で、反りがあるものを」
ゴルドは父を見た。父は何も言わなかった。ゴルドはまた朱音を見た。
「どんな刀じゃ」
朱音は答えた。
「刃渡り二尺三寸、反りは中反り、重心は柄寄りに、鎬筋はやや高め、切っ先は中切っ先で、柄の長さは刃渡りの三分の一を目安にしていただけますかしら」
ゴルドのパイプが落ちた。
石の床に当たって、カランという音がした。
工房の中にいた助手たちが一斉にこちらを見た。フィーナが「えっ」という顔をしている。セバスチャンは表情を変えなかった。父は、目だけが僅かに細くなった。
ゴルドは落ちたパイプを拾わなかった。
「……今、何尺と言った」
「二尺三寸ですわ」
「お嬢ちゃんの体格で、二尺三寸か」
「今の体格に合わせる必要はございませんの。五年後に使える寸法で打っていただければ」
ゴルドは朱音を見た。しばらく見た。六歳の令嬢を、長年の目で、上から下まで見た。
それからゆっくりと身をかがめて、パイプを拾い上げた。
「それだけか」
「あと同寸で九振り、追加でお願いできますかしら」
パイプが、また落ちた。
今度は拾わなかった。
「……十振りじゃと」
「ええ。一度に打っていただかなくて構いません。順次お願いできれば」
「なぜ十振りじゃ」
「消耗しますので」
ゴルドは立ったまま、しばらく動かなかった。
工房の中が静かになっていた。炉の音だけが響いていた。助手たちが全員こちらを見ていた。
それからゴルドは、ゆっくりと父を見た。
父は何も言わなかった。
ゴルドはまた朱音を見た。
「鋼材の指定はあるか」
朱音は少し考えた。
「この世界で最も粘りがあって、刃持ちのいい鋼材をお選びいただけますかしら。あとは職人の方にお任せしますわ」
「鞘は」
「鞘の重心も、刀身に合わせて調整していただけると助かります。抜刀の速度に影響しますので」
ゴルドの目が変わった。
細い目がさらに細くなって、しかし光が増した。職人の目が、何かに火のついた時の目に変わった。前世で見たことがある目だった。腕のいい職人が、面白い仕事を前にした時の目だった。
「……三週間くれ」
「ありがとう存じますわ」
「一番刀だけじゃ。残りは順次打つ」
「承知しましたわ」
「代金は」
「クロイツェル家に請求していただければ」
ゴルドは父を見た。
父は一度だけ頷いた。
それで話は終わった。
帰りの馬車の中で、フィーナがずっと黙っていた。珍しいことだった。普段は何でも喋るのに、今日だけは口を開かなかった。何かに圧倒されているような顔をしていた。
セバスチャンが静かに口を開いたのは、馬車が屋敷の門をくぐる直前だった。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「在庫管理は、私が行います」
朱音はセバスチャンを見た。
銀髪の少年は、いつもと同じ無表情だった。しかし目だけが、何か決めたような光を持っていた。
(こいつは使える)
朱音はそう思った。
「ありがとう、セバスチャン。よく気が利きますこと」
「恐れ入ります」
馬車が止まった。
父が先に降りた。振り返らなかった。しかしその背中が、何か言っているような気がした。前世から、背中で語る人間を見続けてきた。この男の背中は、まだ読み切れていなかった。
朱音は馬車を降りながら、三週間後のことを考えた。
最初の刀が来る。
この世界で初めて、自分のために打たれた刀が来る。
前世では人の刀を借りることが多かった。自分のために打ってもらった刀は、数えるほどしかなかった。それでも、あの感覚は覚えていた。初めて自分の刀を手にした時の、柄を握った瞬間の感覚を。
屋敷の中に入りながら、朱音は右手を開いたり閉じたりした。
六歳の小さな手だった。
三週間後には、この手に刀が来る。
(悪くない)
廊下を歩きながら、朱音はそう思った。
工房から持ち帰った煤の匂いが、まだ服に残っていた。




