第三十六話 何事もなかった朝
翌朝、屋敷は静かだった。
昨夜の痕跡が片付けられていた。
マルガレーテが夜明け前に指示を出して、黒薔薇が作業していた。廊下の床に残っていた跡が消えていた。合い鍵で開けられた扉の鍵が新しくなっていた。朱音の部屋の扉も、夜明けに交換されていた。
何事もなかった朝だった。
意図的にそうしていた。
「外に知られない方がいいと判断しました」とマルガレーテが朝食前に報告した。「屋敷の内部での出来事は、内部で処理しました」
「よろしかったですわ」
「ただし一点だけ変えたことがあります」
「なんでしょうかしら」
「屋敷の外の監視体制を、目立たない形で強化しました。増員したことは、外からは分からないようにしてあります」
「増えていることを気づかれないようにしたわけですわね」
「はい。相手が次の動きを計画する際に、こちらの変化が分からない方が有利になります」
前世でも同じことをした。
態勢が変わったことを、相手に知らせない。相手が変化前の情報で動いてくれれば、その分だけこちらが有利になる。
「よく考えておりますわ」
「マルガレーテの考えではありません。セバスチャンと話し合って決めました」
「二人で話し合いましたの」
「昨夜の対応後、確認事項があったので」
セバスチャンとマルガレーテが話し合っていた。
いつもは噛み合わないと言い合っている二人が、昨夜は連携していた。
「二人で話し合うことは、これからも続けていただけますかしら」
「それは」マルガレーテが少し止まった。「必要であれば」
「必要だと思いますわ。二人の判断を合わせた方が、私一人が判断するより良い結論が出ますわ」
マルガレーテが一礼した。
セバスチャンが来た。
「今朝の情報をご報告します」
「どうぞ」
「監視の人数が、昨夜の侵入後に減りました。十一名から八名に」
「減りましたのね」
「侵入が失敗したことで、撤収した可能性があります。あるいは次の動きのために別の場所に移った可能性もあります」
「どちらだと思いますかしら」
「判断がつかないため、引き続き観察します。一週間様子を見て、変化がなければ撤収と判断します」
「よろしいですわ」
朝食が始まった。
父がいた。母がいた。兄のヴァルターがいた。
ヴァルターが少し困った顔をしていた。
「エルシア、昨夜のこと、怖くなかったか」
「怖くありませんでしたわ」
「本当に」
「ええ」
「お前、本当に怖くないのか、いつも」
「怖くない状況ではありませんわよ。ただ、動いている間は感じませんわ」
「動いている間は感じない、か」
ヴァルターが繰り返した。
考えている顔だった。
「お兄様は怖かったですかしら」
「俺は寝てて気づかなかった。朝になって聞いた。それで怖かった」
「事後に怖かったのですわね」
「事後でも怖い。お前の部屋に七人が入ろうとしたんだぞ」
「三人ですわ。残り四人は別の場所に向かいましたわ」
「四人も向かってたのか」
「黒薔薇が対応しましたわ」
ヴァルターが頭を抱えた。
「なんで朝ご飯を普通に食べてるんだ、お前ら全員」
「普通に食べる方が良いに決まっておりますわ」
「なんでそんな普通に言えるんだ」
父が静かに言った。
「食べなければ動けない」
「そうですわね」と朱音が続けた。
「そういう問題じゃないだろ」とヴァルターが言った。
母が微笑んでいた。
「ヴァルター、あなたが元気で良かったわ」
「俺は何もしてないけど」
「何もしなくて済んだことが、良かったということよ」
ヴァルターが黙った。
朝食が続いた。
いつもと同じ朝食だった。
意図的にそうしていた。
何事もなかった朝として、進める。
昨夜のことは起きた。しかし今朝は今朝だ。引きずらない。前を見る。
前世でも同じだった。
夜に何があっても、朝が来れば動く。動かなければ、夜の出来事が体に残る。残ると重くなる。重くなると遅くなる。遅くなると次の夜に間に合わない。
動き続けることが、前世からの習慣だった。
アカデミーに向かった。
馬車の中でフィーナが静かだった。
珍しかった。
「フィーナ」
「はい」
「何か言いたいことがありますかしら」
フィーナが少し考えた。
「昨夜、私は何もできませんでした」
「部屋にいてくださいましたわよ」
「それだけです。マルガレーテさんたちが動いて、セバスチャンが動いて、エルシア様が動いて。私は部屋にいるだけでした」
「それで十分ですわよ」
「でも」
「フィーナ」朱音は言った。「全員が戦う必要はありませんわ。戦える者が戦えばいい。あなたには別の役割がありますわ」
「別の役割って」
「昨夜、私が部屋に戻った時、あなたが左肩を確認してくれましたわ。あの時、誰も確認していませんでしたわ。セバスチャンは報告書を書いていた。マルガレーテは身柄確保をしていた。あなただけが、私の体を見てくれましたわ」
フィーナが少し止まった。
「それって」
「必要なことでしたわ」
「でも、戦うことと比べたら」
「比べませんわ」朱音は言った。「必要なことと必要でないことの違いはありますわ。しかし必要なことに順番はありませんわ」
フィーナが黙った。
しばらく窓の外を見ていた。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「私、もう少し何かを学んだ方がいいと思っています」
「どんなことをですかしら」
「護身くらいはできた方がいいと思って。戦えなくていいですけど、自分の身を守るくらいは」
「そうですわね」
「マルガレーテさんに聞いてみようと思っています。教えてもらえるか」
「聞いてみなさいな。教えてくれると思いますわよ」
フィーナが頷いた。
馬車がアカデミーの門に着いた。
降りる前にフィーナが言った。
「昨夜のことで、怖くなかったって言ってましたけど」
「ええ」
「私は怖かったです。エルシア様のことが、すごく怖かった」
「それは」
「怖かった、というのは、エルシア様に何かあったらという意味です。エルシア様が傷ついたらという意味です。怖くて眠れませんでした」
朱音は少し止まった。
「そうでしたかしら」
「はい」
「ありがとうございますわ」
「どういたしまして」とフィーナが言った。「でも、今朝みんなで普通に朝ご飯食べてたの見て、少し安心しました」
「何事もなかった朝ですわから」
「でも何事かあったじゃないですか」
「あった上で、何事もなかった朝にするのですわ」
フィーナが少し考えた。
「それって、エルシア様の習慣ですか」
「前世からですわ」
「また前世」
「今日は止めませんわよ。前世からの習慣ですわ。夜に何があっても、朝は朝として始める。引きずらない。そうしないと、昨夜のことが毎朝続きますわ」
フィーナが頷いた。
「分かりました。私も、そうします」
「無理しなくてよろしいですわ」
「少しずつそうなれるように、します」
馬車を降りた。
アカデミーの門を入った。
いつもの朝と同じ景色だった。
学生たちが登校していた。
教員が準備をしていた。
訓練場では早朝に自主練をしている学生がいた。
何事もなかった朝だった。
アカデミーでは、昨夜の出来事を知っている者は限られていた。レオンは知っていた。カインは知っていた。それ以外は、大半が知らなかった。
知らない者たちにとっては、本当に何事もなかった朝だった。
知っている者たちにとっても、何事もなかった朝として動く。
それが今日の方針だった。
廊下を歩いた。
最初の授業に向かった。
昨夜のことを、今日の授業に持ち込まない。
今日は今日の授業をする。
言葉の問題もあった。
一週間で、公の場で話す言葉を決める。
残り四日だった。
言葉はまだ来ていなかった。
しかし方向は決まっていた。
消えないということを伝える。
どう言うかが、まだだった。
教室の扉を開けた。
席についた。
窓から朝の光が入っていた。
昨日より少し明るかった。
今日も動く。
それだけだった。




