第三十四話 廊下の気配
その夜、気配で目が覚めた。
眠りは浅かった。
アカデミーから戻って、夕食を食べて、言葉を考えながら稽古して、眠った。深く眠れていなかった。考えながら眠ると、眠りが浅くなる。前世でも同じだった。
気配が屋敷の中にあった。
外ではなかった。
中だった。
朱音は寝台で目を開けたまま、動かなかった。
気配を探った。
複数だった。
一人ではなかった。少なくとも三人以上だった。
動き方が静かだった。
通常の使用人の動き方ではなかった。気配を消そうとしていた。しかし消しきれていなかった。訓練された人間だが、クロイツェル家の戦闘メイドほどではなかった。
どこにいるか。
廊下だった。
自分の部屋に向かって来ていた。
朱音は寝台から降りた。
音を立てなかった。
刀を取った。
九番刀だった。実戦用として今使っている刀だった。鞘のまま腰に差した。
暗闇の中で、目が慣れていた。
蝋燭はつけなかった。
光は使わない方がいい。
こちらの位置を知らせることになる。
扉の横に立った。
壁に背をつけた。
廊下から音がした。
足音だった。
慎重な足音だった。一歩ずつ確かめながら歩いていた。
扉の前で止まった。
鍵を使う気配があった。
合い鍵を持っていた。
事前に準備していた者たちだった。
即興ではない。計画的だった。
扉が開いた。
人が入ってきた。
一人目が入った。
暗闇の中でも、体の輪郭が見えた。
黒い服を着ていた。手に何かを持っていた。剣ではなかった。細い棒状のものだった。
二人目が続いた。
朱音は動かなかった。
三人目が入ろうとした。
その瞬間に動いた。
一の構えから三の構えを省略して、最短で二人目の首元に峰打ちを入れた。
音がした。
小さな音だった。
二人目が崩れた。
一人目が振り返った。
振り返る動作が完了する前に、三の構えで峰打ちを入れた。
崩れた。
三人目が扉から飛び込んできた。
速かった。
予想より速かった。
三人目は、外から状況を見ていたわけではなかった。扉が開いて、仲間が倒れた音を聞いて、即座に判断して飛び込んできた。
判断が早かった。
三人の中で、この三人目が動きの質が違った。
飛び込みながら、手の細い棒を朱音に向けた。
何かが飛んだ。
暗器だった。
避けた。
左肩を掠めた。
服に当たった。
刺さらなかった。
マルガレーテが用意した強化素材の夜着だった。
防いだ。
三人目が近づいた。
間合いが詰まった。
刀を抜く距離ではなかった。
泡沫を使った。
鞘ごと、三人目の腕を打った。
細い棒を持つ腕の手首を、正確に打った。
棒が落ちた。
続けて鞘で首元に入れた。
三人目が崩れた。
全員倒れた。
部屋の中が静かになった。
朱音は三人を見た。
呼吸があった。
死んでいなかった。
扉の外に音がした。
廊下から足音が来た。
マルガレーテだった。
「エルシア様、ご無事ですか」
「無事ですわ」
マルガレーテが部屋に入ってきた。蝋燭を持っていた。
三人を見た。
倒れている三人を、蝋燭で照らした。
「三名ですか」
「ええ。廊下には」
「他は確認済みです。同時に別の場所から四名が侵入を試みましたが、全員制圧しました」
「黒薔薇が対応しましたの」
「はい。計七名、全員制圧済みです」
七名。
計画的な侵入だった。
複数の場所から同時に入ろうとしていた。
「セバスチャンを呼んでいただけますかしら」
「すでに起きています。呼びます」
マルガレーテが一礼して、廊下に出た。
朱音は倒れた三人を見た。
黒い服を着ていた。顔を布で覆っていた。
布をそっと外した。
知らない顔だった。
セバスチャンの情報冊子に載っていた九名とも、十一名とも、一致しなかった。
新たな人間だった。
監視とは別の動きだった。
扉に合い鍵を持っていた。事前に準備していた。今夜の侵入は、かなり前から計画されていた。
「エルシア様」
セバスチャンが入ってきた。
手帳と台帳を持っていた。眼鏡をかけていた。夜中だったが、姿勢が正しかった。
「七名の侵入者が制圧されました。このうちの三名が、私の部屋に来ましたわ」
「承知しました。状況を記録します」
セバスチャンが三人を見た。
一人ずつ、布を外した顔を見た。
「私のリストにはありません。新たな人員です」
「ええ。監視の者たちとは別の動きですわ」
「侵入経路を確認する必要があります。合い鍵を持っていたということは、鍵の情報が漏れた可能性があります」
「鍵の交換が必要ですわね」
「はい。明朝、鍛冶師に依頼します。それまでの間、全ての扉を黒薔薇で固めます」
「お願いしますわ」
マルガレーテが戻ってきた。
「侵入者七名、全員身元確認中です。私のリストに一致する者はいません」
セバスチャンと同じ結論だった。
「二人とも、同じ判断ですわね」
「そうなります」と二人が同時に言った。
それから、二人が互いを見た。
珍しい瞬間だった。
いつもは噛み合わないと言い合っているのに、今夜は同じ結論を同時に言った。
「七名を確保した後、どうしますかしら」
「王家への報告が必要です」とセバスチャンが言った。「不法侵入として記録します。封印請願の審議が進んでいる状況で、物理的な侵入があったことは、重要な記録になります」
「なぜですかしら」
「封印を求める者たちが、法的な手続きを無視して行動しているという証拠になります。法的な審議と、私的な武力行使を同時に行っているとすれば、そちらの方が問題になる可能性があります」
朱音はセバスチャンを見た。
「頭が回りますわね」
「エルシア様の情報を集めていれば、自然にそう考えるようになります」
「報告の文書を作ってくださいますかしら」
「すでに下書きを始めています」
手帳を見せた。
既に数行書いてあった。
「本当に仕事が速いですわ」
「事前に想定していた事態だったので」
「想定していましたの」
「監視が十一名に増えた時点で、直接行動に移る可能性を計算しました。その場合の対応の手順を、事前に準備していました」
「私には言いませんでしたわね」
「余計な心配をさせたくなかったので。実際に起きた時に動く方が効率的だと判断しました」
「まあ」
朱音は少し考えた。
セバスチャンが事前に準備していた。
マルガレーテが黒薔薇で対応した。
朱音は自室で三人を制圧した。
全員が動いた。
連携していたわけではなかった。
しかし結果として、連携していた。
「七名の侵入者を、どう処遇しますかしら」
「王家への報告と合わせて、クロイツェル家として身柄を確保します。審議の証拠として保全する必要があります」
「承知しましたわ」
マルガレーテが三人を起こし始めた。
縛る準備をしていた。
フィーナが廊下から顔を出した。
青ざめていた。
「エルシア様、大丈夫ですか」
「大丈夫ですわ」
「血が」
「私のものではありませんわ。擦り傷程度ですわ」
左肩を掠めた暗器の痕だった。服が破れていた。皮膚は傷ついていなかった。
「本当ですか」
「夜着が防いでくれましたわ。マルガレーテの用意したものですわ」
マルガレーテが「よかったです」と一言だけ言った。
感情の少ない声だった。しかしその一言に、何かが入っていた。
フィーナが部屋の中を見た。
倒れていた三人が、今は縛られて座っていた。
「この人たちは、エルシア様を」
「ええ」
「エルシア様が倒したんですか」
「ええ」
フィーナが少し間を置いた。
「怖かったですか」
朱音は少し考えた。
怖かったか。
廊下から気配を感じた時、怖いとは思わなかった。
前世の感覚が戻っていた。
気配を感じて、状況を把握して、動く。
怖いという感情が入る前に、体が動いていた。
「怖くありませんでしたわ」
「本当に」
「ええ」
フィーナが黙った。
何かを飲み込んでいた。
「フィーナ」
「はい」
「今夜のことは、明日話しましょうか。今は部屋に戻りなさいな。休める状況ではないかもしれませんが、横になっていてください」
「エルシア様は」
「私はここで少し確認することがありますわ。後で休みますわ」
フィーナが頷いた。
廊下に戻った。
部屋に三人が残った。
縛られた侵入者たちと、セバスチャンと、マルガレーテと、朱音だった。
「お父様には報告が届いていますかしら」
「私が届けます」とマルガレーテが言った。「今夜のうちに」
「お母様にも」
「既にイレーナ様のお部屋に、黒薔薇の一名が報告に向かっています」
全部動いていた。
朱音が何かを指示する前に、全員が動いていた。
前世では、全部自分で考えて、自分で動く必要があった。
今は、考える前に誰かが動いていた。
「では」朱音は言った。「私は左肩の確認をしてから、少し休みますわ。セバスチャン、報告書は明朝に」
「承知しました。朝食前にお持ちします」
「マルガレーテ、侵入者の身柄は」
「夜明けまで別室で確保します。夜明け後に王家への引き渡しを行います」
「お願いしますわ」
一礼して、二人が出ていった。
部屋に一人になった。
三人の侵入者がいたが、縛られていた。
左肩を確認した。
服を脱いで見た。
赤くなっていた。
暗器が当たった部分が、皮膚の上で擦れた跡があった。切れていなかった。青くなるかもしれなかった。それだけだった。
服を戻した。
窓の外が、まだ暗かった。
夜明けまで時間があった。
九番刀を鞘から出した。
刃を確認した。
傷がなかった。
峰打ちを使っていたから、刃は使っていなかった。
鞘に戻した。
寝台に座った。
今夜は計画的な侵入だった。
合い鍵があった。
七名が同時に複数の場所から入ろうとした。
これは監視とは別の動きだった。
監視が情報を集めていた。侵入者が行動した。二段階の動きだった。
監視が情報を集めて、その情報を元に、侵入者が動いた。
今夜の侵入が失敗した。
次は別の方法で来るかもしれなかった。
しかし今夜の侵入が失敗したことは、こちらにとっても情報になった。
相手が直接行動に移ったということは、法的な手段だけでは動きが遅いと判断したということだった。
それはつまり、法的な手段でこちらが反撃できる余地があるということでもあった。
セバスチャンが言っていた。
封印を求める者たちが、法的な手続きを無視して行動しているという証拠になる。
使える。
朱音は寝台に横になった。
夜明けまで少し休む。
夜明けになったらセバスチャンの報告書を確認して、父に話して、今後の対応を決める。
目を閉じた。
眠れるかどうかは分からなかった。
しかし横になった。
九番刀が手の届く場所にあった。
その重さが分かった。
前世でも、刀が手の届く場所にある時だけ、落ち着いて横になれた。
今もそうだった。
少し変わって、少し変わっていなかった。
それが今の自分だと思った。
夜明けがくるまで、休んだ。




