第三十二話 母娘の密室
その夜、母の部屋に行った。
呼ばれたのではなかった。
自分から行った。
ノックすると、母がすぐに「どうぞ」と言った。
起きていた。
入ると、母は文机に向かっていた。何かを書いていた。朱音が入っても、すぐには顔を上げなかった。書き終えてから顔を上げた。
「来ると思っていたわ」
「そうですかしら」
「お兄様と話した後で、来ない方が珍しいわ」
母が蝋燭を一本追加で灯した。
部屋が少し明るくなった。
「座って」
朱音は椅子に座った。
茶が出てきた。マルガレーテが準備していたらしかった。いつの間にか用意されていた。
「話したいことがあるのでしょう」
「ええ」
「何を話したいの」
朱音は少し考えた。
来る途中に、何を話すかを整理していた。
しかし母の前に座ると、整理した言葉より前に別のものが来た。
「お母様は、私が公の場で話すことを、どう思っておりますかしら」
「必要なことよ」
「有利になりますかしら」
「必ずそうとは言えない。しかしやらないよりはいい」
「なぜやらない選択肢を選ばないのですかしら」
母が少し考えた。
「あなたが動かなければ、動かされるわ。審議が早まれば、封印の流れは止まらない。止まらない流れの中で動かされることと、自分で動くことは違う。少しでも自分で動く余地があるなら、動く方がいい」
「それはお母様の考え方ですわね」
「そうよ。あなたはどう思う」
朱音は窓の外を見た。
夜だった。
監視がどこかにいた。
「前世では」
止めなかった。
「前世では、動かされることが多かったですわ。道具として動かされていましたの。今は違うと思っていましたが、状況は似ていますわ。封印を求める者たちが、私を道具として扱おうとしている」
母が聞いていた。
「前世と今の違いは、一つだけですわ」
「何が違うの」
「今は、動かされる前に動ける人間がいますわ。お母様も、伯父上も、お父様も、セバスチャンも、フィーナも。前世では一人でしたわ」
母がしばらく黙った。
茶を一口飲んだ。
「あなたが前世の話をするのは珍しいわね」
「今夜はそういう気分ですわ」
「聞いていいかしら」
「少しだけなら」
「前世では、幸せだったの」
朱音は少し止まった。
幸せという言葉を、前世で考えたことがあったかどうかを思い返した。
「考えたことがありませんでしたわ」
「なぜ」
「考える余裕がありませんでしたわ。毎日生き延びることで、精一杯でしたの」
「今は」
「今は」朱音は繰り返した。「考える余裕がありますわ」
「幸せかしら」
「さあですわ」
「さあ」
「まだ分かりませんわ。しかし、悪くないとは思っていますわ」
母が小さく笑った。
「あなたらしい答えね」
「そうですかしら」
「あなたはいつも、良いとは言わずに悪くないと言う。評価が辛口なのか、それとも良いと言うことに慣れていないのか」
「両方かもしれませんわ」
「前世で、良いと言う機会がなかったから」
「ええ」
母が窓の外を見た。
夜の窓だった。
「エルシア」
「はい」
「私はあなたに、この世界で幸せになってほしいわ」
令嬢語変換が来る前に、何かが来た。
変換は来た。しかし変換される前の言葉と、変換後の言葉がほとんど同じだった。
「ありがとう存じますわ、お母様」
「封印を止めることも、剣を鍛えることも、政治的に動くことも、全部それのためよ。あなたが幸せになるための手段だわ。目的を忘れないでほしい」
「目的を忘れていましたかしら」
「忘れているとは思わない。ただ、時々手段が目的になりそうなことがあるわ。剣を鍛えること、情報を集めること、政治的な立場を確立すること。それが目的になると、疲れるわよ」
朱音は母の言葉を聞いた。
手段が目的になる。
前世でも、そうなっていた。
最初は新しい世のために剣を振っていた。いつの間にか、剣を振ることが全てになっていた。新しい世のためという目的が薄れて、剣を振ることだけが残っていた。
「気をつけますわ」
「気をつけるだけでいいわ。完璧にやろうとしなくていい」
「完璧にやろうとしますかしら、私は」
「するわよ。あなたは全部を完璧にこなそうとする。剣も、令嬢としての振る舞いも、情報収集も、全部を同時に完璧にやろうとする」
「それではいけませんかしら」
「いけなくはない。ただ、休む時間も必要よ。フィーナとお茶を飲む時間も、必要なことよ」
フィーナとのお茶の時間を、母が知っていた。
「見ておりましたの」
「見ていないけれど、フィーナが嬉しそうな顔をしていたわ。あの子があんな顔をするのは、エルシアと話した後だけよ」
母が何も見ていないようで、全部見ていた。
「お母様は」
「なあに」
「私のことを、いつから知っていましたかしら。目が変わったことだけでなく、前世の記憶があることを」
「誕生日の夜からよ」
「確信を持っていましたかしら」
「確信はなかったわ。でも可能性が高いと思っていた。そしてどちらであっても、あなたは私の娘だから、変わらないと決めていた」
朱音は母を見た。
どちらであっても、娘だから変わらない。
前世の記憶を持っていても、持っていなくても、娘だから変わらない。
「それは」朱音は少し間を置いた。「怖くなかったですかしら」
「何が」
「自分の娘が、別の誰かの記憶を持っているかもしれないということが」
母が少し考えた。
「怖いという感覚とは違ったわ。不思議だとは思った。でも、目の前にいる子が私の娘であることは変わらない。それより大事なことはなかったわ」
令嬢語変換が来なかった。
「お母様は」
言葉が来なかった。
令嬢語変換が来ないのではなく、言葉そのものが来なかった。
何を言えばいいか分からなかった。
ありがとうだけでは足りない気がした。
しかしそれ以上の言葉が来なかった。
母が微笑んだ。
「言わなくていいわよ」
「でも」
「顔を見れば分かるわ」
朱音は少し止まった。
「顔に出ていましたかしら」
「少しだけ。あなたにしては珍しいくらい」
「まあ」
「良いことよ。前世で顔に出せなかった分、今は出してもいいわ」
蝋燭の火が揺れた。
部屋が静かだった。
母と娘が、静かに座っていた。
「公の場で話す内容」朱音は言った。「少し見えてきましたわ」
「何を話すつもり」
「まだ言葉になっていませんわ。しかし、何を伝えたいかは分かりましたわ」
「聞かせてくれる」
「整理できてからにしますわ。今は言葉がまだ足りませんわ」
「分かったわ。整理できたら、聞かせて」
「はい」
朱音は立ち上がった。
「今夜は話せてよかったですわ」
「私もよ」
「おやすみなさいませ、お母様」
「おやすみ、エルシア」
扉を閉めた。
廊下に出た。
北棟の冷たい廊下ではなかった。南棟の、母の部屋の前だった。暖かかった。
歩きながら、頭の中で言葉を探した。
公の場で話す言葉。
何を伝えたいか、は分かった。
消えないということを、伝えたかった。
数百年前の先祖が消えた。
前世の朱音が消えた。
しかし今度は消えない。
それを、言葉で言いたかった。
どう言うかは、まだ来なかった。
しかし方向は決まった。
方向が決まれば、言葉は後からついてくる。
前世でも、剣の軌道が決まれば、体はついてきた。
言葉も同じだと思った。
自室に戻った。
稽古はもう遅かった。
寝台に横になった。
今夜は稽古をしなかった。
珍しかった。
しかし今夜は、別のことをした夜だった。
それで十分だった。
枕の下に、鍵が二本あった。
稽古場の鍵と、書庫の鍵だった。
六歳の夜から、ずっとそこにあった。
今夜も、そこにあった。
目を閉じた。
眠れた。




