第三十一話 ヴァレンシアが動く
その知らせが来たのは、朝だった。
セバスチャンが朝食の前に来た。
朝食前に来ることは珍しかった。緊急ではないが、早く伝えた方がいいと判断した内容の時だった。
「イレーナ様からの伝言です」
「なんでしょうかしら」
「今日の午後、ヴァレンシア侯爵がクロイツェル家を訪問されます」
「伯父上が」
「はい。公式の訪問ではありません。非公式です。侯爵御本人からの申し入れで、今朝方決まりました」
「急ですわね」
「急に動く理由があったということかと思われます」
朱音は窓の外を見た。
曇っていた。
ヴァレンシア侯爵は母の兄だった。情報網を持つ家の当主だった。非公式の訪問を急に決めた。
何かが動いたのだと分かった。
「詳細は来てから分かりますかしら」
「はい。イレーナ様から、エルシア様も同席するよう求められています」
「分かりましたわ」
午後になった。
ヴァレンシア侯爵が来た。
馬車は地味だった。
ヴァレンシア家の家紋が入っていない馬車だった。非公式の訪問だから、目立たない馬車を選んでいた。
来た人間は二名だった。
侯爵本人と、従者一名だけだった。
ヴァレンシア侯爵は、母のイレーナと顔立ちが似ていた。栗色の髪で、緑の瞳だった。年齢は五十近かったが、若く見えた。目が動いていた。常に何かを観察している目だった。
母と朱音が出迎えた。
父は不在だった。出かけているわけではなく、この会合には出ない判断をしたらしかった。ヴァレンシア家と父の間に、微妙な距離感があることは知っていた。
「久しぶりだな、イレーナ」
「ええ、お兄様」
「エルシアは初めてか。いや、幼い頃に一度会っているが、覚えていないだろう」
「お初にお目にかかりますわ、伯父様」
「ほう」
侯爵が朱音を見た。
観察する目だった。値踏みでもなく、好意でもなく、情報を集める目だった。
「イレーナから話は聞いている。しかし実際に会うのは別だ」
「どのようにお聞きになりましたかしら」
「随分と変わった令嬢だと聞いた」
「まあ」
「その通りだな」
侯爵が小さく笑った。
母と似た笑い方をした。唇の端だけが動く笑いだった。
応接間に移動した。
茶が出された。
フィーナが出して、下がった。
四人が残った。
朱音と母と侯爵と、侯爵の従者だった。従者は入口の近くに立っていた。メモを取る準備をしていた。記録係だった。
「本題に入ろう」侯爵が茶を一口飲んだ。「ルミナール家が動いている」
「知っておりますわ。封印請願の件ですわね」
「それだけではない」
朱音は少し止まった。
「他に何が動いていますかしら」
「ルミナール公爵が、王家に対して別の申し入れを行った。封印請願の審議を早めるよう求める申し入れだ」
「審議を早める」
「本来、審議には数年かかることもある。しかしルミナール公爵は、今学期中に審議を完了させることを求めている」
今学期中。
「理由は何ですかしら」
「表向きは、暗属性の危険性が確認された以上、早急な対処が必要という理由だ。実際は」
侯爵が少し間を置いた。
「実際は、時間を与えたくないのだと思う。時間が経てば、状況が変わる可能性がある。評価保留の結果が、どちらに傾くかが分からない。だから早めようとしている」
朱音は考えた。
今学期中。アカデミーの学期は、あと二ヶ月で終わる。
二ヶ月で審議が完了すれば、封印が実行される可能性があった。
「王家は申し入れを受け入れましたかしら」
「検討中だ。まだ決まっていない」
「ヴァレンシア家は、どう動くおつもりですかしら」
侯爵が朱音を見た。
「直接聞くな」
「時間がないと思いましたわ」
侯爵が母を見た。
母が「エルシアらしいわ」と言った。
侯爵が朱音に視線を戻した。
「ヴァレンシア家として、三つ動く予定だ」
「お聞かせいただけますかしら」
「一つ目は、王家の内部に働きかけることだ。審議を早める申し入れに対して、反対する立場の者を動かす。これはすでに始めている」
「二つ目は」
「ドラクロワ家を動かすことだ。ドラクロワは武門だ。クロイツェルの娘の剣を見て、興味を持っている。その興味を、政治的な立場に変える」
「三つ目は」
「少し違う動きだ」侯爵が少し間を置いた。「エルシア自身に、公の場で話す機会を作ることだ」
「公の場で」
「審議が早まるなら、审議の前に、エルシア自身の言葉で状況を説明できる場が必要になる。貴族の集まりでも、アカデミーの公式な場でも、何でもいい。エルシアが直接、貴族たちに話しかける場を作る」
朱音は考えた。
令嬢として公の場に出て話す。
令嬢語変換は常に動いている。何を言っても令嬢の言葉になる。しかし内容は自分が選べる。
「どんな場を想定していますかしら」
「それはお前が決めろ」
「私がですかしら」
「場の設定は俺たちがする。しかし何を話すかはお前の問題だ。他人が決めた内容を話しても、伝わらない。お前の言葉が必要だ」
朱音は侯爵を見た。
情報を扱う人間の言葉だった。
誰が何を言うかが、情報の価値を決める。発信者が変われば、同じ内容でも届き方が変わる。それを知っている人間の言葉だった。
「分かりましたわ。考えますわ」
「期限は一週間だ。一週間で、どんな場で何を話したいかを決めてほしい。場の設定に時間がかかるから、早く決まるほどいい」
「承知しましたわ」
侯爵が茶を飲み終えた。
「もう一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「剣術実技を見た。報告だけでなく、映像で記録したものを見た」
「映像でですかしら」
「魔法的な記録術がある。ヴァレンシア家はそれを使っている」
「アカデミーの訓練場で記録していましたの」
「そうだ。許可を取った上でだ。問題はないはずだ」
問題があるとは思わなかった。ただ知らなかった。
「その映像を見て、何か思いましたかしら」
侯爵が少し間を置いた。
「あの剣術は、どこで学んだ」
「独自の流派ですわ」
「誰かに教わっていないのか」
「ゼロから自分で作ったわけではありませんわ。ただ師匠の名前を出せる状況にはありませんわ」
「なぜだ」
「師匠は、この世界にいませんわ」
侯爵が少し考えた。
「前世の師匠、か」
朱音は止まった。
侯爵が続けた。
「イレーナから聞いた。エルシアが前世の話をすることがあると。詳しくは聞いていないが」
「前世というのは」
「詮索はしない」侯爵が言った。「ただ、映像を見て、あの剣術が尋常ではないと分かった。十歳の体で、あれができるのは、長年の積み重ねがなければ無理だ。この世界での積み重ねだけでは、説明がつかない」
「そうかもしれませんわ」
「それだけ分かれば十分だ」
侯爵が立ち上がった。
「一週間後に連絡をくれ。どんな場で何を話したいかを」
「はい」
「ヴァレンシア家は動く。しかし主役はエルシアだ。忘れないでほしい」
「忘れませんわ」
侯爵が出ていった。
静かになった部屋で、母が言った。
「お兄様らしい話し方だったわ」
「要点だけを言う方ですわね」
「そう。無駄が嫌いな人なの。あなたと少し似ているわ」
「そうですかしら」
「あなたは無駄を省く人間よ。お兄様も同じ。二人が話すと、会話が短くなるわね」
「短くて済むなら、短い方がいいですわ」
母が笑った。
「そうね」
窓の外がまだ曇っていた。
一週間で、場と話す内容を決める必要があった。
朱音は窓を見ながら考えた。
どんな場で、何を話すか。
前世では、話すということを考えたことがなかった。剣で語るか、沈黙するかのどちらかだった。言葉で人に何かを伝えることを、前世ではしていなかった。
しかし今は令嬢として生まれていた。
言葉を持っていた。
しかも令嬢語変換という、上品な言葉に変換される機能まであった。
前世になかった道具だった。
使い方を考える必要があった。
「お母様」
「なあに」
「公の場で話すとしたら、どんな場がいいと思いますかしら」
「あなたは何を伝えたいの」
「まだ決まっていませんわ」
「決まってから場を考えるのか、場から考えるのか、どちらでもいいと思うわ。ただ」
「ただ」
「あなたの言葉が、一番届く場を選ぶことよ。あなたの剣を見た人たちに届けるなら、剣を見た場所で話す方がいい。あなたの魔法を見た人たちに届けるなら、魔法を見た場所で話す方がいい」
「アカデミーの訓練場ですわね」
「可能性の一つとしては」
朱音は考えた。
アカデミーの訓練場。
あの場で剣を見た者たちがいた。レオンがいた。カインがいた。ガルドがいた。騎士団員たちがいた。観客席にいた貴族たちがいた。
あの場で話すなら、何を話すか。
言葉がまだ来なかった。
一週間ある。
考える時間があった。
前世では、考える時間がなかった。
今は時間がある。
それを使う。
「稽古に行ってきますわ」
「行ってらっしゃい」
母が微笑んだ。
部屋を出た。
稽古場に向かいながら、頭の中で言葉を探した。
どんな言葉を、誰に向けて、どんな場で言うか。
剣は分かった。
言葉はまだだった。
しかし一週間あった。
前世では一秒で判断しなければならないことが多かった。
一週間は、十分に長かった。




