第三十話 フィーナとお茶
その日の午後、フィーナが部屋に来た。
授業が終わった後の時間だった。
いつもと違う来方をした。ノックが一回だった。いつもは二回だった。
「どうぞ」
フィーナが入ってきた。
お盆を持っていた。茶と、小さな菓子が乗っていた。
「お茶の時間ですよ」
「ありがとう存じますわ」
フィーナが机の横の小さなテーブルにお盆を置いた。
椅子を引いた。
「座っていいですか」
「どうぞ」
フィーナが座った。
自分の分の茶も持ってきていた。
二人分だった。
「何かありましたかしら」
「別に何もないんですけど」フィーナは茶を持ちながら言った。「エルシア様と、ゆっくり話したいなと思って」
「ゆっくり」
「はい。最近、いつも急いでいるじゃないですか。アカデミーに行って、工房に行って、稽古して、報告を聞いて。ゆっくりお話しする時間がなかったので」
朱音は少し考えた。
確かにそうだった。
最近の日々を振り返ると、動いていた。止まっていた時間がなかった。フィーナと話すことはあったが、移動の途中や、着替えの間や、何かをしながらだった。
ただ話すだけの時間は、最近なかったかもしれなかった。
「では話しましょうか」
「はい」
フィーナが笑った。
嬉しそうな笑いだった。こういう笑いを引き出せる人間が、前世にはいなかった。
「何か話したいことがありますかしら」
「えっと」フィーナが茶を一口飲んだ。「最近、エルシア様のことで気になっていることがあって」
「なんでしょう」
「前世って、何ですか」
朱音は少し止まった。
「どこで聞きましたかしら」
「廊下で聞こえちゃいました。カイン君と話してた時の。前世では顔に出すと死ぬ場面が多かったって」
廊下だった。
屋敷の前の道だったから、廊下ではなかったが、フィーナがどこかで聞いていたらしかった。
「聞こえていたのですわね」
「ごめんなさい、聞くつもりじゃなかったんですけど、聞こえてしまって」
「謝らなくていいですわ」
フィーナが少し安心した顔をした。
「前世って、何ですか。カイン君には言えないって言ってましたよね。私には言えますか」
朱音はフィーナを見た。
赤毛の侍女が、まっすぐに見ていた。
怖がっている顔ではなかった。気になっている顔だった。知りたいという顔だった。
どこまで話すかを考えた。
カインには、言える時が来たら言うと言った。
フィーナは今聞いてきた。
カインに言える時が来たら、というのは、カインが知っていても大丈夫な状況になった時、という意味だった。
フィーナに話すことは、別の問題だった。
フィーナは感情が顔に出る人間だった。知ったことを隠すことが、あまり得意ではなかった。
しかし朱音のことを心配している人間だった。心配している人間に、隠し続けることに意味があるかどうかを考えた。
「少しだけ話しますわ」
フィーナが少し身を乗り出した。
「全部は話せませんわ。しかし少しだけ」
「はい」
「私には、この世界に生まれる前の記憶がありますわ」
フィーナが目を丸くした。
「前の、記憶」
「ええ。別の場所で、別の生き方をしていた記憶ですわ。六歳の誕生日の夜に、その記憶が戻ってきましたの」
フィーナがしばらく何も言わなかった。
処理していた。
「だから」フィーナがゆっくり言った。「エルシア様は六歳の時から、大人みたいだったんですね」
「そうなりますわね」
「誕生日の夜に、何かが変わったってお母様が言ってたのを聞いたことがあります。イレーナ様が、あの夜から目が変わったって」
「お母様はお気づきでしたわ」
「ということは、エルシア様の中に、六歳の前の記憶がずっとあるんですか」
「ええ」
「その記憶の中で、顔に出すと死ぬ場面が多かったんですか」
「そうですわ」
フィーナが少し考えた。
「それは、怖かったですか」
朱音は少し止まった。
怖かったか。
前世で、怖いと思ったことがあったか。
「怖いと思う余裕がありませんでしたわ」
「余裕がなかった」
「ええ。怖いと感じる前に動く必要がありましたわ。そういう日々でしたの」
フィーナが黙った。
長い間ではなかった。
それから、静かに言った。
「今は怖いですか」
朱音はフィーナを見た。
今は、という問いだった。
今のこの世界での話だった。
「今も、怖くないとは言えませんわ」
「どんなことが怖いですか」
正直な問いだった。
誘導していない。ただ聞いていた。
朱音は少し考えた。
「消えることが怖いですわ」
「消える」
「この世界でも、消えるかもしれないと思うことがありますわ。封印という形で、存在を消されるかもしれない。前の記憶の中でも、消えましたわ。歴史に名前一つ残らずに消えましたの」
フィーナが聞いていた。
口を開かなかった。
聞いていた。
「前の記憶では一人でしたわ。今は違いますわよ。しかし消えるかもしれないという感覚は、時々来ますわ」
フィーナが茶を置いた。
立ち上がった。
朱音の横に来た。
それから、黙って朱音の手を両手で包んだ。
何も言わなかった。
言葉がなかった。
ただ手を包んでいた。
朱音は少し止まった。
前世で、誰かにこうされたことがなかった。
誰かが手を包んでくれることが、なかった。
令嬢語変換が来なかった。
来るはずの変換が、来なかった。
来なかったのではなく、来る前に何かが止まっていた。
目の奥が熱くなった。
抑えた。
前世から、抑える練習は十分にしていた。
「フィーナ」
「はい」
「ありがとう」
変換が来た。
ありがとう存じますわ、という言葉が来るはずだった。
しかし今回は、ありがとう、だけで止まった。
変換が最後まで来なかった。
フィーナが少し驚いた顔をした。
「エルシア様、今、ありがとうって言いましたよね」
「ええ」
「いつもと違いますよ、言い方が」
「そうですかしら」
「いつもはありがとう存じますわ、ってなるじゃないですか。今は、ありがとう、って」
「気のせいではないですかしら」
「気のせいじゃないです。絶対に」
フィーナが嬉しそうな顔をした。
何が嬉しいのかは、朱音には正確には分からなかった。しかし嬉しそうだった。
「エルシア様」
「なんでしょう」
「消えないでください」
朱音は黙った。
「お祖母様も消えるなって言ってるって聞きました。セバスチャンから聞いたんです。私も同じです。消えないでください」
「消えませんわ」
「約束ですよ」
「約束は軽々しくできませんわ」
「でも」
「消えないように、できることは全部しますわ。それは約束できますわよ」
フィーナが少し考えた。
それから頷いた。
「分かりました。それで十分です」
手が離れた。
フィーナが自分の席に戻った。
茶を持った。
「お菓子、食べますか。厨房で新しいの作ってもらいました」
「いただきますわ」
フィーナが菓子を皿に乗せて差し出した。
甘かった。
最初の誕生日の夜に食べた菓子と、似た甘さだった。
あの夜に、また生まれたか、と思った。
今も生まれ続けているのだと、菓子を食べながら朱音は思った。
六歳の夜に始まって、今日のこの茶の時間も、続いていた。
「フィーナ」
「はい」
「あなたが来てくれて、よかったですわ」
フィーナが一瞬止まった。
それから、両手で顔を覆った。
「えっ、エルシア様が、そんなことを」
「おかしいですかしら」
「おかしくないです。おかしくないですけど、びっくりしました。エルシア様がそういうことを言うのが」
「たまには言いますわよ」
「たまにじゃなくて、もっと言ってほしいです」
「考えておきますわ」
フィーナがまた笑った。
嬉しそうな笑いだった。
お茶の時間が続いた。
窓の外が夕方になっていった。
監視が何名かいるはずだった。
封印の請願が保留のままだった。
ミスリル刀がまだ完成していなかった。
しかし今夜は、お茶の時間があった。
それで十分だった。
今夜は、十分だった。




