第三話 稽古場の木剣
夜が深くなるまで、待った。
屋敷が静まるのを確かめてから、朱音はそっと寝台を抜け出した。六歳の体は軽かった。前世では考えられないほど軽くて、その軽さが頼もしいような、頼りないような、妙な感覚を呼んだ。
蝋燭を一本持った。廊下に出る。
石造りの廊下は冷たかった。足の裏に伝わる冷たさが、前世の夜の石畳を思い出させた。あの頃も夜に動くことが多かった。夜は人の目が減る。夜は気配が研ぎ澄まされる。夜は、動くべき時間だった。
稽古場は屋敷の西棟の奥にあった。
エルシアとしての記憶の中に、その場所がある。行ったことはない。しかし場所は知っていた。廊下を二度曲がって、石段を降りて、中庭に面した渡り廊下を抜けた先にある、重い扉の部屋だ。
蝋燭の火が揺れないように手で囲みながら歩いた。
誰とも会わなかった。
屋敷の使用人たちはもう休んでいる。父も母も兄も、この時間には寝室にいるはずだった。戦闘メイドたちは夜の見廻りをしているが、六歳の令嬢が深夜に歩いているとは思わないだろう。少なくとも最初の一度は。
渡り廊下に出ると、中庭から夜風が入ってきた。
花の匂いがした。
前世の夜の匂いとは全く違う匂いで、朱音は一瞬だけ足を止めた。血の匂いでも、土埃でも、鉄でもない。ただの花だった。
歩き続けた。
重い扉の前に着いた。
鍵を差し込んだ。回した。重い音がして、扉が開いた。
中は広かった。
蝋燭一本では全体が見えなかったが、壁際に燭台があることはわかった。火を移して、いくつか灯す。徐々に部屋の全体が見えてきた。
板張りの床。高い天井。壁に掛けられた木剣の数々。奥には鎧のような訓練用の設備もある。床には打ち込みの跡が無数についていた。染みのようになった跡は、相当長い年月をかけて刻まれたものだと分かった。
父がここで剣を振ってきた。
何十年も、ここで振ってきた。
朱音はその染みを踏まないように床を歩いて、壁際の木剣の前に立った。
大きさが違う。長いものから短いものまで、用途に合わせて何種類か並んでいた。全部この世界の剣だから、前世の刀とは形が違う。両刃の直剣が多い。
しかし一番端に、形の違うものがあった。
手に取った。
片刃だった。僅かに反りがあった。刃渡りは大人の男の腕より少し短いくらい。訓練用の木剣だから刃はないが、形は明らかに他のものと違う。
(誰がこれを作った)
考えるより先に、構えていた。
右手で柄を握る。左手を添える。足を肩幅に開いて、重心を落とす。
体が覚えていた。
六歳の筋肉は弱かった。腱が細かった。腕が短かった。木剣の重さに対して、この体はまだ全然足りていなかった。
しかし重心移動だけが、動いた。
右足に体重を乗せて、左足を半歩引いて、体の軸を作る。この感覚だけは、筋肉とは関係なかった。骨格の使い方の問題だった。体の大きさが変わっても、重心の置き方は変わらない。
影抜きの基本構えだった。
腕が震えた。六歳の体には木剣が重すぎた。しかし構えだけは、本物だった。
(悪くない)
朱音はゆっくりと木剣を下ろした。
一の構えを試みる。右足を踏み込んで、腰を回して、抜刀の動作をイメージしながら木剣を横に薙ぐ。
腕が途中で止まった。
筋力が足りない。回転の勢いを腕が支えきれなかった。イメージ通りの速度が出ない。
(そうだ。体が変わっている)
前世でも最初はこうだった。子供の頃、剣を握った最初の頃、体が言うことを聞かなかった。それでも振り続けた。振り続けるうちに、体が追いついてきた。
また振った。
今度は速度を落とした。体の回転だけに集中した。速さは要らない。今は形だけでいい。
振る。
止まる。
振る。
止まる。
蝋燭の火が揺れた。
どれくらい続けただろう。時間の感覚が薄れていた。六歳の体に汗が滲んでいた。腕が重くなってきた。それでも止めなかった。止め時の判断は体がする。頭で決めない。前世からそう決めていた。
そして、気配がした。
扉の方向だった。
朱音は木剣を止めて、振り返らなかった。
気配の主が誰か、考えるまでもなかった。この屋敷で夜中に気配を殺して動ける人間は限られている。そして稽古場の鍵を持っている人間はもっと限られている。
長い沈黙があった。
扉の向こうの気配は動かなかった。入ってくるでもなく、立ち去るでもなく、ただそこにあった。
朱音はもう一度、木剣を構えた。
今度は三段構えの一の構えだけをゆっくりと動かした。踏み込み。腰の回転。腕の軌道。止める。二の構えに移行するイメージだけを頭の中に描いて、実際には動かない。体がついてこないからだ。しかしイメージだけなら、どこまでも動かせた。
気配がまた、動いた。
近づいてくるのではなかった。遠ざかっていった。
足音がした。重い足音だった。革靴の、大人の、重い足音だった。それが廊下を遠ざかっていって、聞こえなくなった。
朱音は木剣を下ろした。
(見ていたか)
どれくらい見ていたのか、分からなかった。しかし確かに見ていた。そしてそのまま立ち去った。何も言わずに。
(言葉より雄弁な男だ)
二度目にそう思った。
木剣を壁に戻した。燭台の火を消した。蝋燭を持って扉を出た。鍵を閉めた。
廊下を戻る途中、窓の外に目をやった。
空に星が出ていた。
京の夜と同じ星だと思った。違う世界でも、星は似たような顔をしていた。
部屋に戻った。
寝台に横になった。
六歳の体はすぐに眠気を訴えてきた。正直な体だった。前世では眠れない夜の方が多かったが、この体は疲れたら眠ることしか考えていなかった。
眠る前に、一つだけ確認した。
あの片刃の木剣のことだ。
片刃で、僅かに反りがあった。この世界の一般的な剣の形ではなかった。誰かが特注で作らせたものだ。そしてそれが父の稽古場に、他の木剣と一緒に並んでいた。
(あれは最初からここにあったのか)
(それとも今日、置かれたのか)
答えは出なかった。
眠気の方が先に来た。
六歳の体は、問答を待ってくれなかった。
翌朝、寝台から出て扉を開けると、廊下に何もなかった。
昨夜、鍵が置いてあった場所には何もなかった。
フィーナがやってきて「おはようございます」と言う。朱音はそれに答えながら、机の上の鍵を手に取った。昨夜使った稽古場の鍵だ。これは返すべきか、持っておくべきか。
朝食の席で父は新聞を読んでいた。
いつもと同じだった。
何も言わなかった。
違ったのは一点だけだった。
食事が終わって席を立つ時、父はちらりと朱音を見た。視線が合った。何かを言いそうな間があった。
しかし何も言わなかった。
ただ、目だけで頷いたように見えた。
朱音は鍵を握りしめた。
(持っておけということか)
返事の代わりに、一礼した。
父はもう新聞に視線を戻していた。
朱音は食堂を出ながら、鍵をドレスのポケットに入れた。
これで稽古場はいつでも使える。
次の問題は刀だった。
木剣で形の稽古はできる。しかしこの世界で本当に戦うためには、この体に合った刀が要る。前世の感覚で言えば、重心位置、刃渡り、反りの深さ、柄の長さ、全部が揃って初めて使えるものになる。
そしてそれを作れる職人が要る。
廊下を歩きながら、朱音は頭の中で段取りを組んだ。
まず鍛冶師を探す。できれば腕のいい職人を。できれば注文の細かさに怒らない職人を。できれば六歳の令嬢が専門用語で発注しても驚かない職人を。
最後の条件は無理かもしれなかった。
しかしとりあえず、探すところから始めるしかない。
前世でもそうだった。
まず動く。考えながら動く。動いた先に、次が見えてくる。
朱音は廊下の窓から外を見た。
朝の光の中で、中庭の花が揺れていた。
(さて)
六歳の人斬りは、異世界での最初の段取りを、静かに組み始めた。




