第二十三話 カインの目
休日になった。
アカデミーが休みの日に、朱音はゴルドの工房に向かった。
馬車ではなく、馬で行った。
馬に乗ることは、エルシアとしての記憶にあった。クロイツェル家の令嬢として、幼い頃から馬には慣れていた。前世では馬に乗る機会はほとんどなかったから、最初は感覚が掴めなかったが、体の記憶が先に動いた。
カインも来ていた。
紹介状を渡した翌週、カインが「行く」と言ってきた。余計なことを言わなかった。行く、の一言だった。それで決まった。
馬車ではなく、徒歩で来た。
クロイツェル領への道を、平民の学生が徒歩で歩いてきた。距離にして一時間以上あった。
「馬車を用意しておけばよかったですわ」
「必要ない」
「足が疲れましたでしょう」
「疲れていない」
カインは実際に疲れていない顔をしていた。鍛えた体をしていた。鍛冶師の仕事は体を使う。その生活で作られた体だった。
黒炉の前に着いた。
煙突から煙が出ていた。休日でも火が入っていた。ゴルドにとって、休日という概念が薄いらしかった。前世の職人にも似た人間がいた。仕事が生活だった。
扉を開けた。
ゴルドがいた。
炉の前で何かを打っていた。
朱音たちが入ってきたことに気づいて、手を止めた。パイプを口から外した。
「来たか」
「お邪魔しますわ」
「そっちは」
ゴルドがカインを見た。
「カインといいますわ。アカデミーの平民枠の学生で、鍛冶師の息子ですわよ」
「父親は誰だ」
カインが答えた。
父親の名前と、どこの工房かを言った。
ゴルドが少し目を細めた。
「あの工房か。悪くない腕だ」
「知っているのか」
「職人の名前は大体知っている。小さい工房でも、腕がよければ話は伝わる」
カインが少し驚いた顔をした。
自分の父親の腕がゴルドに知られていたことが、想定外だったらしかった。
「中に入れ」ゴルドが奥に向かって歩いた。「話がある」
奥に進んだ。
工房の奥には、作業場とは別の部屋があった。小さな部屋だった。テーブルと椅子があって、設計図が壁に貼ってあった。
椅子に座った。
ゴルドがテーブルの上に紙を広げた。
「ミスリルの件だ」
「ええ、お父様からお聞きしましたわ」
「調達の目処が立った」
「もう立ちましたの」
「早い方がいいだろう」ゴルドはパイプに火を入れた。「北部の山岳地帯に、今も採掘している鉱山がある。ドワーフの氏族が管理している。伝手を使って話をつけた」
「費用は」
「クロイツェル家に請求する。ライナルト殿からは承諾をもらった」
父がすでに動いていた。
ゴルドと父が直接やり取りをして、費用の話をつけていた。朱音が介在しないところで、話が進んでいた。
「加工の問題は」
「こっちも解決した」
ゴルドが別の紙を出した。
手書きの図面だった。
「ミスリルと特殊鋼の複合構造だ。刃の部分にミスリルを使い、棟の部分に粘りのある特殊鋼を組み合わせる」
カインが図面を覗き込んだ。
「これは」
「見たことがあるか」
「父親の工房で、似た考え方の設計を見たことがある。二種類の素材を組み合わせる方法だ」
「そうだ。刃と棟で素材を変える。硬さと粘りを分担させる」
「でも」カインが図面を指差した。「ここの接合部分が問題になる。素材が違えば、熱の伝わり方が違う。焼き入れの時に、接合部分にひびが入る可能性がある」
ゴルドが目を細めた。
「よく見える目だな」
「図面を見れば分かる」
「解決策は分かるか」
カインは少し考えた。
「段階的に接合する方法があると思う。一度に全部組み合わせるのではなく、段階を踏んで素材を馴染ませる。手間はかかるが、接合部分のひびを防げる可能性がある」
ゴルドが黙った。
しばらく図面を見ていた。
「それは俺も考えていた方法だ」
「そうか」
「ただ、段階的な接合には時間がかかる。一振り打つのに、通常の三倍以上かかる」
「それで何か問題があるか」
「問題はない。ただ確認したかった」
カインとゴルドが話していた。
朱音はその横で聞いていた。
二人の会話が成立していた。
十歳の平民の学生と、百二十歳のドワーフの職人が、同じ場所に立って話していた。年齢も、身分も、出身も、全部違った。しかし図面の前では同じ場所にいた。
朱音は口を挟まなかった。
口を挟む必要がなかった。
「カイン」
ゴルドが言った。
「なんだ」
「ここで学ぶか」
カインが止まった。
「ここで、というのは」
「黒炉で、という意味だ。週に一度でも二度でもいい。アカデミーの休日に来い。ミスリル刀の製作に関わらせてやる」
カインは少し間を置いた。
「なぜ俺に言う」
「目がいいからだ」ゴルドはパイプを咥えた。「接合部分の問題をすぐに見た。俺が説明する前に見た。そういう目は、教えられるものじゃない」
カインが朱音を見た。
朱音は何も言わなかった。
口を挟まなかった。
これはカインが決めることだった。
カインがまたゴルドを見た。
「分かった。来る」
それだけ言った。
余計な言葉がなかった。
ゴルドが頷いた。
「では今日から始めるか」
「今日からでいい」
朱音は立ち上がった。
「では私は外で待っておりますわ」
「待たなくていい」ゴルドが言った。「お前にも話がある」
「私にも」
「ミスリル刀の話だ」
朱音は座り直した。
ゴルドが新しい紙を出した。
「ミスリル刀に、暗属性の魔力を流した時、どうなるか考えているか」
「考えておりますわ」
「お前の剣術は、今は刃こぼれしやすい通常鋼の刀で動いている。ミスリルに変われば刃こぼれの問題が消える。その分、三段構えの制限が外れる」
「ええ」
「しかし魔力が流れた時の挙動は、試してみるまで分からない。ミスリルは魔力親和性が高い。流れ込む魔力の量が、通常の素材とは桁が違う可能性がある」
「つまり」
「制御がより難しくなる可能性がある。いきなり全力で使うのは危険かもしれない」
朱音は考えた。
魔力の制御は、まだ完全ではなかった。感情を切ることで制御していたが、激しい戦闘の中では切れないことがあった。そこに、より多くの魔力が流れ込む素材の刀が加わる。
「段階的に試す必要がありますわね」
「そうだ。最初は少量の魔力を流す練習から始める。ミスリル刀が完成したとしても、すぐに実戦で使わずに、まず感触を確かめることを勧める」
「承知しましたわ」
「もう一つ」ゴルドが図面を指差した。「刀の設計について、お前の意見を聞きたい」
「設計のどの部分ですかしら」
「重心の位置だ。通常鋼より軽いミスリルを使うと、同じ重心設計では感触が変わる。軽くなった分、どこに重心を置くかを再設計する必要がある」
「柄をどうお考えですかしら」
「柄に重みを加える方法もある。あるいは刀身の厚みを調整して、軽さを活かした別の重心設計にする方法もある」
朱音は少し考えた。
「速さを活かす設計にしていただけますかしら」
「軽さを速さに変換する設計か」
「ええ。影抜きは速度が全てですわ。重心を柄寄りにするのは抜刀速度のためですが、軽い刀身なら重心の位置を少し変えても速度を保てる可能性がありますわ」
「どのくらい変える」
「そこはゴルドさんにお任せしますわ。私が言える範囲より、職人の判断の方が正確ですので」
ゴルドが少し間を置いた。
「珍しい注文の仕方だな」
「まあ」
「大体の客は、全部自分で指定してくる。特に武門の家は」
「指定できる範囲は指定しますわ。しかし職人の領域に客が踏み込みすぎると、良い仕事にならないこともありますわよ」
ゴルドが小さく笑った。
パイプを指で押さえながら、目だけが笑った。
「よく分かっているな」
「前世で、良い職人から学びましたわ」
また出た。
令嬢語変換が来なかった。
ゴルドが少し止まった。
前世、という言葉が工房の中に落ちた。
ゴルドはそれを拾わなかった。
拾わずに、図面に視線を戻した。
職人として、余計なことを聞かない人間だった。聞く必要のないことは聞かない。作るべきものに集中する。
「完成までに三ヶ月かかる。最初の一振りが三ヶ月後だ」
「急がなくて構いませんわ」
「急いで打つ刀は、良い刀にならない」
「存じておりますわ」
カインが図面を眺めながら、メモを取っていた。
作業場から来る炉の音が聞こえていた。
工房の奥で、別の助手たちが仕事を続けていた。
朱音は部屋の中を見回した。
設計図が壁に貼ってあった。ゴルドがこれまで作ってきた刀の設計図が、年代順に並んでいた。一番古いものは紙が黄ばんでいた。
その中に、朱音への最初の刀の設計図があった。
一番刀だった。
最初の設計図と、現在の設計図を見比べると、少しずつ変化していた。朱音の意見を反映して、一振りごとに改良されていた。
(育てている)
刀を育てる、という言葉を、前世でも使ったことがあった。
職人と使い手が、一緒に刀を育てる。使い手が要求を出して、職人がそれに応える。その繰り返しで、刀が育つ。
ゴルドとの関係が、それになっていた。
気づいたら、そうなっていた。
「では三ヶ月後に参りますわ」
「来い。カインも来い」
カインが頷いた。
三人で工房を出た。
カインはそのまま工房に残った。
今日からゴルドの下で学ぶと決めたから、残った。余計な説明はしなかった。決めたから残る。それだけだった。
朱音は馬に乗った。
クロイツェル領の道を、屋敷に向かって走った。
三ヶ月後に、ミスリル刀の最初の一振りが完成する。
それまでの三ヶ月で、魔力の制御をさらに進める必要があった。
課題が明確になると、動く方向が決まる。
動く方向が決まると、頭が静かになる。
前世からそうだった。
馬が走った。
クロイツェル領の秋の道を、風を切って走った。
前世では馬で走ることもなかった。
この世界では、当たり前のように馬で走っていた。
何が当たり前になるかは、どこで生まれるかで変わる。
しかし何が変わっても、やることは変わらなかった。
課題を見つけて、動く方向を決めて、走る。
それだけだった。
屋敷の屋根が見えてきた。
朱音は手綱を引いた。
速度が落ちた。
門の前で止まった。
マルガレーテが門のところで待っていた。
「お帰りなさいませ、エルシア様」
「ただいま帰りましたわ」
「セバスチャンからご報告があります。監視の人数が、七名から九名に増えました」
増えた。
「分かりましたわ」
馬を降りた。
屋敷に入りながら、朱音は九名になった監視のことを頭の片隅に置いた。
増えた理由は、おそらくアカデミーでの模擬戦の評価が広まったからだった。
脅威として認識されれば、監視が増える。
増えることは、見られているということだった。
見られているということは、まだ動いていないということでもあった。
動く前に見る。
こちらも同じことをしていた。
しばらくは、この均衡が続くかもしれなかった。
続く間に、できることをやる。
それだけだった。
稽古場の鍵を触った。
今夜も稽古をする。
三ヶ月後のミスリル刀のために。




